一、水底の光景
庭の隅にある古井戸は、いつも冷たい湿気を吐き出していた。
私はその縁に腰掛け、濁った水面を見下ろしている。水面には、私の顔が映っているはずだった。しかし、そこに揺らめいているのは、私よりもずっと彫りの深い、見知らぬ男の輪郭だった。
「お前が次の器だ」
背後から声がした。振り返ると、そこには誰もいない。ただ、錆びついたトタン屋根の隙間から、夏の強い日差しが差し込んでいるだけだった。
私はポケットを探る。指先に触れたのは、平たくて冷たい金属の板だった。それを取り出してみる。黒いガラスの画面に、私の、いや、誰かの指紋がべったりと付着している。これは何という機械だっただろうか。思い出せない。ただ、指を滑らせれば、世界中の情報とつながることができることだけは知っている。
けれど、私の耳に届くのは、その機械の電子音ではない。どこか遠くで鳴り響く、せわしない万年筆の走る音と、乾いた木造の床を軋ませる足音だ。
「おい、早く原稿を仕上げてくれ」
誰かが私を呼んでいる。その声は、大正の香りをまとっていた。インクの匂い、埃っぽい書庫、そして結核を患っていた姉の、かすれた咳。
私は立ち上がり、畳の部屋へと歩き出す。だが、足裏に触れたのは、冷たいフローリングの感触だった。視界が激しく明滅する。私は、いつの時代に立っているのだろうか。
爪を噛む癖がある。
いつからこの癖があったのか、私には分からない。ただ、爪を噛むと、口の中に鉄の味が広がる。それは、私がかつて、戦場で泥を舐めたときの味によく似ていた。
二、凍土の記憶
足の感覚がない。
どれほど歩いたのだろうか。周囲は見渡す限りの白い闇だった。雪が、視界のすべてを覆い尽くしている。
「おい、しっかりしろ」
隣を歩く男が、私の肩を揺さぶる。男の顔は、凍傷で黒ずんでいた。その顔に見覚えがあるような気がした。彼は確か、私の弟ではなかったか。いや、私の息子だったか。
「私たちは、生きて帰らねばならん。家が待っている」
家。その言葉が、私の凍りついた脳裏に奇妙な熱を呼び起こす。
あの、大きな瓦屋根の、鬱蒼とした杉林に囲まれた古い屋敷。庭には古井戸があり、そこにはいつも冷たい水が湛えられていた。
私はポケットに手を突っ込む。そこには、一枚の白黒写真が入っていた。写っているのは、着物姿の美しい女性だ。名前は「チヨ」だっただろうか。それとも「静江」だったか。彼女は私の妻だった。
だが、次の瞬間、私の頭の中にまったく異なる記憶が割り込んでくる。
彼女の髪はもっと短かった。ジーンズを履き、賑やかな駅前のカフェで、私に向かって笑いかけていた。彼女の名前は「マイ」だ。私たちは来週、映画を観に行く約束をしていたはずだ。
「おい!」
同僚の叫び声で、私は現実に戻される。雪の中に、誰かの足跡が続いている。私はその足跡を追わなければならない。しかし、私の足が履いているのは、目の粗い軍靴だったか、それともブランド物のスニーカーだったか。
下を向くと、真っ白な雪の上に、赤い血が点々と落ちていた。
私の肺は、冷たい空気を吸い込むたびに悲鳴を上げる。だが、その痛みさえも、誰かから借り受けたもののような気がしてならなかった。
三、ノイズの街
満員電車の冷房は、容赦なく私の肌を凍えさせる。
吊り革を握る私の手は、細く、どこか頼りない。スマートフォンに目を落とすと、SNSのタイムラインが無機質な文字列を流し続けている。現代。2026年。私はここにいる。私の名前は、確か、蓮(れん)だったはずだ。
しかし、電車のガタゴトという振動が、私の脳内で別の音へと変換される。
それは、馬車の車輪が泥道を往く音。
あるいは、蒸気機関車が吐き出す、煤煙混じりの激しい呼気。
「蓮、次の駅で降りるぞ」
不意に、隣に立つ父親の声が聞こえた。私は顔を上げる。だが、隣にいるのは見知らぬサラリーマンだ。父親などどこにもいない。父は、私が十歳のときに死んだはずだ。
いや、死んだのではない。父は、私の頭の中に「引っ越してきた」のだ。
あの古い屋敷に伝わる、恐ろしい儀式。
当主が死の床につくとき、その枕元に跡継ぎが呼ばれる。そして、冷たくなっていく当主の額に、自らの額を重ね合わせるのだ。
そうして、記憶は流し込まれる。
太古の昔から、一族が蓄積してきたすべての「人生」が、まるで大河の水が狭い水路に流れ込むように、一人の脳へと注ぎ込まれる。
私は、私自身の記憶の底に沈んでいる。
学校でいじめられたこと、初めて女の子と手を繋いだこと、大学の講義をサボって映画を観たこと。それらの瑞々しいはずの記憶が、数百年分の他人の死、他人の恋、他人の絶望によって、泥のように濁っていく。
「静かにしてくれ」
私は声に出さずに呟いた。
耳の奥で、無数の羽虫が羽ばたくようなノイズが鳴り止まない。
大正の文士が、戦火に散った兵士が、戦後の闇市をのし上がった商人が、バブルの泡に消えた投資家が、みんな私の喉を使って喋ろうとしている。
四、亀裂
鏡の前に立っている。
私は自分の顔を見つめる。二十二歳の、どこにでもいる大学生の顔だ。
しかし、瞬きをするたびに、鏡の中の顔が変貌する。
頬がこけ、鋭い眼光を放つ明治の男。
前歯が欠け、卑屈な笑みを浮かべる戦後の浮浪児。
冷徹な目で書類を見つめる、昭和の中期を生き抜いた官僚。
「お前は、誰だ」
私は鏡に向かって問いかける。声は、掠れていた。
「私は源一郎だ」
鏡の中の男が、私の唇を動かして答えた。
「いや、私は和夫だ。シベリアから帰ってきたのだ」
「黙れ、お前たちはもう死んだ。今の主人は私、健介だ」
脳の奥底で、何かが爆発したような衝撃があった。
記憶の境界線が、完全に決壊した。
私は自室のフローリングに倒れ込み、頭を抱えてのたうち回った。
時間の感覚が消失する。
私の周囲に、古い木造の壁が立ち上がり、次の瞬間には焼け野原となり、そしてコンクリートのビルへと姿を変える。
三つの時代、四つの人生、五つの意思が、一つの肉体という狭いピットの中で、狂ったように衝突を始めた。
「この肉体は私のものだ! 私はまだ、あの小説を書き終えていない!」
大正の文士が叫ぶ。彼の執念が、私の右手を万年筆を握る形に硬直させる。
「どけ! 私は国のために死んだのだ! なぜ、こんな平和な、腑抜けた時代に私が閉じ込められねばならん!」
昭和の兵士が怒号を上げる。私の体は、軍人のように直立不動の姿勢を取ろうとする。
「無駄な争いはやめろ。すべては家の存続のためだ。蓮、お前はただの器に過ぎない。我々を受け入れろ」
かつて当主として一族を支配した、厳格な祖父の意識が、上空からすべてを押し潰そうとする。
「嫌だ……!」
私は悲鳴を上げた。それは、蓮としての、最後のささやかな抵抗だった。
「ここは僕の頭の中だ! 僕の人生だ! 出ていってくれ!」
しかし、私の叫びは、彼らの圧倒的な情報量の前に、一滴の水滴のようにかき消されていく。
彼らが私に流れ込んできたのではない。
私が、彼らという巨大な沼に、沈められようとしているのだ。
五、多声の肖像
嵐が去った後、奇妙な静寂が訪れた。
私はゆっくりと立ち上がる。
フローリングの冷たさは、もう気にならない。それは同時に、シベリアの雪の冷たさであり、大正の書斎の畳の温もりでもあった。
鏡を見る。
そこには、一人の若者が立っている。
その瞳は、深淵のように暗く、同時に、百年の光を宿しているように澄んでいた。
私は右手を持ち上げ、爪を噛む。鉄の味がする。
そして、ポケットからスマートフォンを取り出し、その画面に映る自分の顔を見つめる。
画面をスワイプする動作は滑らかで、同時に、どこか古風な気品を湛えていた。
「私たちは」
私は、あるいは私たちは、声を出した。
その声は、複数の人間の声が完璧にハモったような、不思議な響きを持っていた。
「私たちは、ここにいる」
誰が主人で、誰が従属しているのか。そんな問いには、もう意味がなかった。
すべての記憶が、一つのタペストリーのように織り上げられたのだ。
悲しみも、苦しみも、栄光も、すべてがこの肉体の中で調和している。
私は窓を開けた。
外には、2026年の東京の街が広がっている。排気ガスの匂い、ビル群のネオン、せわしない人々の足音。
しかし、私の目には、そのコンクリートの底に眠る、かつての泥道や、かつての美しい武蔵野の面影が、はっきりと透けて見えていた。
私は、私を生きる。
そして、私の中にいる、彼らを生きる。
庭の古井戸の水面は、もう濁ってはいない。
そこには、百年の歳月を越えて、一つの美しい肖像画が、静かに完成を迎えていた。