――針は左へ、声は戻る
午後十一時五十七分、黒森邸の大時計が三つだけ鳴った。
本来なら十二回鳴るはずだった。だが、その夜だけは、ぜんまいが壊れたように、低く湿った音を三つ落として沈黙した。
そして翌朝、邸の主人であり前衛音楽家の黒森啓介が、録音室で死んでいるのが見つかった。
死体は奇妙だった。
黒森は椅子に腰かけ、ヘッドホンをつけたまま机に突っ伏していた。胸には古いレコード針が深々と刺さっている。床には割れたシェラック盤。壁際のオープンリールデッキは回り続け、磁気テープがゆっくりと巻き戻っていた。
机の上には一枚の紙。
そこには黒森の筆跡で、ただ一行だけ書かれていた。
「真相は逆から聴け」
警察が到着したとき、邸にいたのは四人だった。
黒森の妻、瑠璃子。
弟子の若い作曲家、瀬戸遥。
古い友人で批評家の羽島周平。
そして、黒森の妹、黒森梢。
私はその場に呼ばれた録音技師だった。黒森が亡くなる前日、「明日の朝、テープを検分してほしい」とだけ電話してきたからだ。
警部の鷹見は、録音室に残された一本のテープを指でつまみ上げた。
「黒森氏は死の直前まで録音していたらしい。問題は、これだ」
テープには、奇妙な音が入っていた。
まず、かすれた男の声。
「……け、助けてくれ」
次に、ガラスの砕ける音。
続いて、女の短い悲鳴。
椅子が倒れる音。
重い何かが床に落ちる音。
最後に、黒森の声。
「終わった」
普通に再生すれば、死の直前の記録に思えた。
だが、紙には「真相は逆から聴け」とある。
そこで鷹見警部は、デッキを逆回転にした。
音はたちまち別物になった。
「……たっわお」
床の音が先に浮かび、椅子が起き上がるような軋みが続き、悲鳴は息を吸い込む音になり、ガラスの破片が集まるような音がして、最後に声が聞こえた。
それは、はっきりとした言葉だった。
「遥、逃げろ」
録音室に沈黙が落ちた。
弟子の瀬戸遥は、青ざめた顔で首を振った。
「違います。先生は私を庇ったんです。私は殺していない」
そこから、それぞれの推理が始まった。
最初に口を開いたのは鷹見警部だった。
「単純に考えれば、犯人は瀬戸遥さんです」
遥は小さく息を呑んだ。
警部は続けた。
「逆再生で名を呼ばれた。黒森氏は死ぬ直前、犯人の名を隠すためではなく、誰かを逃がすために録音を仕掛けた。だが、これは逆だ。犯人に罪を着せるため、あえて彼女の名を残したとも考えられる」
「先生が私に罪を着せる理由なんてありません」
「ある。作品です」
警部は壁に並ぶ未発表の譜面を見た。
「黒森氏は最近、『逆葬曲』という新作を発表する予定だった。あなたはその共同制作者だったが、世間には伏せられていた。もし黒森氏があなたの旋律を盗用していたなら、動機になる。問い詰められた黒森氏はあなたを脅し、もみ合いになり、レコード針が胸に刺さった」
羽島が鼻で笑った。
「警部さん、それではあまりに普通すぎる。黒森は普通を憎む男でしたよ」
鷹見は眉を動かした。
「では、批評家先生の説を聞きましょう」
羽島周平は薄い唇を歪め、割れたシェラック盤を拾った。
「これは殺人ではありません。演出された自殺です」
瑠璃子が顔を上げた。
「自殺?」
「黒森は死を作品にしたのです。彼は常々言っていた。『音楽は時間を支配する芸術だ。ならば死もまた、逆再生されねばならない』と」
羽島はデッキを指した。
「彼は自分で胸に針を刺した。だが、ただ死ぬのでは芸がない。死の直前に音を並べ、逆再生すれば意味が反転するように仕組んだ。『助けてくれ』は普通に聴けば被害者の叫び。逆に聴けば、特定の名を呼ぶ。つまり、聴く者の解釈を殺す装置です」
「では、なぜ『遥、逃げろ』と聞こえるのです?」
私が尋ねると、羽島は愉快そうに肩をすくめた。
「聞こえたと思っただけかもしれない。人は雑音に意味を見つける。逆再生の音声に悪魔の声を聞くのと同じです」
「でも、はっきり聞こえました」
「はっきり聞こえた、という錯覚ほど危ういものはない」
警部は不機嫌に黙った。
すると、黒森の妻、瑠璃子が静かに言った。
「夫は自殺などしません。臆病な人でしたから」
彼女の声は濡れていたが、目は乾いていた。
「では、奥様には別の考えが?」
「犯人は梢さんです」
妹の梢が、白い顔で瑠璃子を見た。
「お義姉さん」
瑠璃子は構わず続けた。
「啓介は、父の遺産をほとんど一人で相続しました。梢さんはずっと不満を持っていた。昨夜、二人が激しく言い争う声を私は聞いています」
「嘘です」
「嘘ではありません。あなたは兄に言った。『時間を戻せるなら、あの遺言の夜に戻りたい』と」
梢の唇が震えた。
瑠璃子は机上のメモを指した。
「『真相は逆から聴け』。これは音のことではなく、時間のことです。昨夜の出来事を逆に辿ればいい。死体発見、録音、悲鳴、ガラスの音、言い争い。最後に残るのは、あなたと啓介の争いです」
梢はかすれた声で言った。
「私は兄を殺していません」
「では、なぜ十二時前に録音室から出てきたの?」
その言葉に、警部が反応した。
「見たのですか?」
「廊下の鏡に映っていました。梢さんが録音室から出て、階段を降りるところを」
梢は両手を握りしめた。
「違う。私が入ったとき、兄はもう死んでいました」
「なぜ通報しなかった」
鷹見警部が問う。
梢は目を閉じた。
「怖かったんです。兄の胸に針が刺さっていて、テープが回っていて、声が聞こえて……」
「何と?」
「『戻れ』と」
録音室の空気が変わった。
羽島が興味深そうに身を乗り出した。
「普通再生で?」
「わかりません。デッキが逆に回っていたから」
警部はメモを取った。
「つまり、あなたが発見した時点でテープはすでに逆回転していた」
梢は頷いた。
そこへ、これまで黙っていた遥が小さく言った。
「違います。先生が言ったんです。『戻れ』じゃなくて、『戻すな』って」
全員の視線が彼女に集まった。
遥は震える声で続けた。
「私は昨夜、先生に呼ばれて録音室へ行きました。先生は新作を聴かせると言いました。でも、再生されたのは私の曲でした。私が先生に渡した未完成の旋律です。先生はそれを自分の名前で発表するつもりだった」
鷹見警部の目が鋭くなった。
「口論になった?」
「なりました。でも私は殺していません。先生は笑って、『音楽は先に出した者のものだ』と言った。私は譜面を取り返そうとして、盤を落として割りました。その音がテープに残っているはずです」
「その後は?」
「先生が急に苦しみだして……胸を押さえて……私は怖くなって逃げました」
「針は?」
「そのときは刺さっていませんでした」
瑠璃子が冷たく言った。
「都合がいい話ね」
遥は泣きそうになりながら首を振った。
「本当です。先生は死ぬ前に言ったんです。『戻すな』って。テープを巻き戻すな、という意味だと思いました。だから私は逃げた」
羽島が笑った。
「面白い。つまり、死因は針ではなかったというわけだ」
「検死の結果を待たねばなりませんが」と警部は言った。「もし針が死後に刺されたなら、事件はまったく別の姿になる」
そのとき、私はふと、デッキの足元に落ちている小さな金属片に気づいた。
それは録音機の速度切替レバーの破片だった。
黒森の古いデッキには、通常再生、倍速、半速、逆再生の切替があった。私は仕事柄、その癖を知っていた。レバーが半端な位置で折れると、音は歪み、逆再生とも通常再生ともつかない奇妙な響きになる。
私は言った。
「このテープは、正しく逆再生されたとは限りません」
四人が私を見た。
「デッキが壊れていた可能性があります。つまり、私たちが聞いた『遥、逃げろ』も、『戻れ』も、『戻すな』も、機械の不調によって生まれた幻聴かもしれない」
警部は唸った。
「では、紙の言葉は?」
「黒森氏が書いたものなら、彼は故障を知っていたかもしれません。逆から聴け、と書けば、皆が逆再生する。そして、何かを聞き取ろうとする」
羽島が手を叩いた。
「やはり作品だ」
瑠璃子は表情を変えなかった。
「作品であろうと、誰かが夫を殺した事実は変わりません」
そのとき、警部補が検死の速報を持ってきた。
黒森啓介の死因は、レコード針による刺創ではなかった。
毒だった。
青酸系の毒物。摂取時刻は午後十一時前後。針は死後、あるいは瀕死状態で刺された可能性が高い。
部屋の時計が、止まったように感じられた。
毒ならば、夕食に同席した全員に機会がある。
さらに奇妙な事実がわかった。黒森の胃からは、彼が嫌っていた甘いリキュールの成分が検出された。晩餐の後、誰かが録音室に酒を運んだのだ。
瑠璃子は言った。
「私は運んでいません」
梢は言った。
「私は兄がお酒を飲むところを見ていません」
羽島は言った。
「私は飲ませた。だが毒など入れていない」
全員が羽島を見た。
彼は平然としていた。
「黒森が頼んだのです。『死ぬ前に甘いものが欲しい』と冗談を言ってね。私は彼の悪趣味には慣れていた。グラスを置いて出た。それだけです」
警部が問う。
「何時です?」
「十一時十五分ごろ」
遥が顔を上げた。
「私が呼ばれたのは十一時半です」
梢が呟いた。
「私が入ったのは、十二時少し前……」
瑠璃子は黙っていた。
私は、もう一度テープを聴いた。
普通再生。
「……け、助けてくれ」
ガラスの音。
悲鳴。
椅子。
床。
「終わった」
逆再生。
「……たっわお」
床。
椅子。
吸い込まれる悲鳴。
集まるガラス。
「遥、逃げろ」
半速再生。
声は老いた獣のうなりのようになった。
倍速再生。
かすれた声が、別の言葉に聞こえた。
「針を、刺せ」
私はぞっとした。
羽島は目を輝かせた。
「なるほど。黒森は誰かに命じたのだ。自分の死体に針を刺せ、と」
警部は冷ややかに言った。
「誰に?」
羽島は瑠璃子を見た。
「奥様でしょう。夫の最後の作品を完成させるために」
瑠璃子は初めて笑った。
「私は夫の作品など嫌いでした」
「嫌いだからこそ完成させた。死んでもなお世間を騒がせる夫を、あなたは望んだのかもしれない」
「それはあなたでしょう、羽島さん」
瑠璃子の声は低くなった。
「あなたは啓介の才能に寄生していた。彼が死ねば、あなたは『最後の理解者』として本を書ける。現に、今も楽しそう」
羽島は笑みを消した。
梢が震える声で言った。
「違う。兄は、誰にも殺されていない」
警部が振り返る。
「また自殺説ですか」
「いいえ。兄は、過去に殺されたんです」
誰も言葉を発しなかった。
梢は続けた。
「兄は父の遺言を偽造した。私はずっと知っていました。でも言えなかった。昨夜、私は兄にそのことを告げました。兄は笑って、『遺言も音楽も同じだ。先に鳴ったものが真実になる』と言った」
彼女は割れた盤を見つめた。
「兄はずっと昔から壊れていたんです。父を裏切った夜から。昨夜死んだのは、その結果です。だから真相を逆から聴けば、犯人は毒を入れた人ではなく、父の遺言を書き換えた兄自身になる」
「哲学では逮捕できません」と警部は言った。
「でも、真相にはなるでしょう?」
梢はそう言って黙った。
その日の夕方、毒の入っていた小瓶が見つかった。
場所は瑠璃子の化粧台の引き出し。
瑠璃子は言った。
「置かれたものです」
小瓶には羽島の指紋があった。
羽島は言った。
「触れた覚えはない」
だが、小瓶を包んでいたハンカチには遥の刺繍した頭文字があった。
遥は泣きながら言った。
「なくしたと思っていました」
さらに、小瓶の栓には梢の血がついていた。彼女の指先には小さな切り傷があった。
梢は言った。
「兄の部屋でガラスを踏んだだけです」
証拠は、四人全員を指していた。
あるいは、四人全員を逃がしていた。
事件後、黒森啓介の未発表作『逆葬曲』が世に出た。発表したのは羽島だった。彼は序文にこう書いた。
「黒森は死によって、時間の不確かさを証明した」
瑠璃子はその出版を差し止めようとしたが、失敗した。
瀬戸遥は作曲をやめ、地方の音楽教室で子供にピアノを教えている。
黒森梢は父の遺言について再審を求めたが、証拠不十分で退けられた。
鷹見警部は、最後まで犯人を一人に絞れなかった。
公式には、事件は「容疑者不詳の毒殺」と記録された。
ただ、私の手元には、黒森邸から持ち帰ったテープの複製がある。
何度も聴いた。
普通に聴けば、黒森は助けを求めている。
逆に聴けば、遥を逃がそうとしている。
速く聴けば、誰かに針を刺せと命じている。
遅く聴けば、ただ苦しむ男の息にすぎない。
ある夜、私は古いデッキではなく、精密な機械で音を解析した。
雑音を削り、速度を補正し、波形を整えた。
最後に残った声は、こう聞こえた。
「るり……」
瑠璃子の名か。
「瑠璃」ではなく、「無理」と言ったのか。
あるいは、喉を焼かれた男が偶然漏らした音か。
私はその結果を警察に渡さなかった。
なぜなら、黒森啓介の筆跡で書かれた一行が、どうしても頭から離れなかったからだ。
「真相は逆から聴け」
逆から聴くとは、音を反転することなのか。
時間を遡ることなのか。
証言を疑うことなのか。
それとも、真相など最初から存在しないと認めることなのか。
黒森邸の大時計は、修理されないまま今も玄関広間にある。
時折、誰もいない夜に鳴るという。
十二時に、三つ。
三時に、十二。
まるで時間そのものが、犯人を選びかねているように。