広告

商店街の外れに、その店はあった。

潰れたクリーニング店と空き地に挟まれた、間口の狭い店構え。色褪せた青いひさしには「Video Rental」の文字。その下に、もう少し新しい字で「IF」とだけ書かれている。

僕がその店を見つけたのは、四十二歳の誕生日の夜だった。会社からの帰り道、いつもとは違う道を歩いていた。違う道を歩きたい気分だった。そういう年齢になっていた。

「いらっしゃい」

店内は薄暗く、棚にはぎっしりとビデオテープが並んでいた。DVDでもブルーレイでもない、あの懐かしいVHSのテープだ。カウンターには白髪の老人が座って、僕を見ていた。

「珍しいですね、今どきビデオなんて」

「ええ、うちは特別な品揃えなものでね」

老人は微笑んだ。皺の奥の瞳が、やけに澄んでいた。

「お客さんの作品しか、置いていないんですよ」

「僕の?」

「正確には、あなたが選ばなかった人生、です」

僕は笑おうとして、笑えなかった。老人の口調があまりに自然だったからだ。

「ここはね、『歴史のスペア』を扱う店なんです。人は誰しも、人生の分岐点で何かを選ぶ。選んだ道の隣には、選ばなかった道がある。その『選ばなかった自分』が歩んだ人生を、ここではテープに記録してあるんですよ」

「並行世界、ってことですか」

「そう呼ぶ人もいますね。私はただ、貸し出すだけです」

老人は立ち上がり、棚の一角を指さした。そこには、確かに僕の名前が書かれたテープが、何十本も並んでいた。


最初に手に取ったのは、『大学進学・東京』とラベルの貼られたテープだった。

僕は大学受験で東京の大学に受かっていた。けれど、母の体が弱かったこともあって、地元の大学を選んだ。あのとき東京へ行っていたら——そう考えたことは、一度や二度ではない。

「お代は?」

「観終わったときに、決めさせてください」

奇妙な言い方だったが、僕は頷いて、テープを借りた。家にはまだ、亡くなった父が遺した古いビデオデッキがあった。

テープを差し込むと、ノイズの向こうに、若い僕が映った。

東京の安アパート。狭い部屋。けれど、彼の目は輝いていた。サークルの仲間と笑い合い、深夜のファミレスで夢を語り、出版社でアルバイトをしていた。やがて彼は小さな編集プロダクションに就職する。給料は安く、生活は苦しい。それでも彼は、自分の名前で本を作っていた。

僕は、編集者になりたかった。本に関わる仕事がしたかった。けれど現実の僕は、地元の信用金庫で、二十年間、数字と向き合ってきた。

画面の中の僕は、四十二歳。同じ歳だ。彼は離婚していた。仕事に夢中になりすぎて、家庭を顧みなかったのだ。一人暮らしの部屋で、彼はカップ麺をすすりながら、それでも明日の企画書を書いていた。

僕は、テープを止めた。

胸が、ざわついていた。羨望と、安堵と、それから名前のつけられない何か。


翌日、僕はテープを返しに行った。

「いかがでした」

「彼は……幸せだったんでしょうか」

老人は答えなかった。代わりに、こう言った。

「お代は、あなたが今感じている『その気持ち』でけっこうです」

「気持ち?」

「ええ。羨ましいとか、ほっとしたとか。その感情を、少しだけいただく。それがうちの料金です」

僕は何も言えなかった。確かに、店を出るとき、僕の胸のざわめきは、少しだけ軽くなっていた。

それから僕は、足繁くこの店に通うようになった。

『プロポーズ・成功』のテープ。大学時代に好きだった人に、僕は告白できなかった。その彼女と結ばれた世界の僕は、二人の子供に恵まれ、賑やかな家庭を築いていた。けれど、住宅ローンと教育費に追われ、彼の顔には深い疲労が刻まれていた。

『転職・上京』のテープ。三十歳のとき、僕には一度だけ大きな転職のチャンスがあった。それを蹴った世界の僕は、大企業で出世していた。けれど、彼は胃を悪くし、毎晩、薬を飲んでいた。

どのテープの僕も、何かを得て、何かを失っていた。

そして、現実の僕と同じように、それぞれの夜に、それぞれの後悔を抱えて眠っていた。


ある日、僕は老人に尋ねた。

「どうして、僕の人生のテープには、『うまくいった話』ばかりじゃないんですか。並行世界なら、もっと完璧な、何もかも手に入れた僕がいてもいいはずだ」

老人は、静かに首を振った。

「完璧な人生など、どの世界にもありませんよ。選ぶということは、捨てるということだ。手に入れた人は、必ず何かを手放している。それが、『歴史のスペア』の唯一の決まりごとです」

「じゃあ……僕がどの道を選んでも、結局は——」

「同じ重さの人生を、生きていたということです」

僕は言葉を失った。

「お客さんはね、ずっと思っていたでしょう。あのとき違う道を選んでいれば、もっと幸せだったかもしれない、と。だから、確かめに来た。隣の芝生が、本当に青いのかどうかを」

その通りだった。

「で、どうでした。青かったですか」

僕は、ゆっくりと首を振った。

「同じ……でした。色が違うだけで、芝生の青さは、たぶん、同じだった」

老人は、初めて声をあげて笑った。


最後に僕が借りたいと思ったテープがあった。

棚の一番奥に、一本だけ、ラベルのないテープがあった。

「あれは?」

「ああ、あれはね」老人は少し困ったような顔をした。「あれは、『今のあなた』のテープですよ」

「今の?」

「あなたが実際に選び、今、歩んでいる人生。『選ばなかった道』の記録ばかりを観てきたあなたが、最後に観るべきものだと思いましてね」

僕はそのテープを借りた。料金は、と聞くと、老人は言った。

「これだけは、無料です。自分の人生に、お代はいただけません」

家に帰り、テープを差し込んだ。

そこに映っていたのは、信用金庫で働く、平凡な僕の毎日だった。

退屈な会議。窓口での何気ないやりとり。残業帰りのコンビニ。一人で食べる夕食。

けれど——カメラは、僕が見過ごしてきたものを映していた。

僕が処理した融資のおかげで、廃業を免れた小さな町工場の家族。窓口で僕が時間をかけて相談に乗った、お年寄りの安堵の表情。同僚が、陰で僕のことを「いちばん信頼できる人」と言っていたこと。

そして、母が亡くなる前、僕の手を握って言った言葉。

「あんたが、そばにいてくれてよかった」

東京へ行った僕は、それを聞けなかった。

画面の中の僕は、特別な何者かではなかった。けれど、確かに、誰かの人生に、小さな灯をともしていた。

僕は、泣いていた。

四十二年間、僕はずっと、自分の人生を「選ばなかった方が良かったかもしれないもの」として見てきた。けれど、僕の人生もまた、誰かにとっては羨ましい「歴史のスペア」だったのかもしれない。


翌日、僕はテープを返しに行った。

けれど、そこに店はなかった。

潰れたクリーニング店と空き地の間には、ただの古い壁があるだけだった。「IF」のひさしも、ビデオの棚も、白髪の老人も、どこにもなかった。

ただ、僕の手の中には、ラベルのないテープが一本、残っていた。

家に帰り、もう一度それを再生してみた。

映っていたのは、今朝の僕の姿だった。鏡の前で、ネクタイを締める僕。少しだけ、背筋を伸ばして。少しだけ、前より穏やかな顔で。

画面の隅に、いつのまにか文字が浮かんでいた。

『あなたの人生は、まだ録画中です』

僕は、デッキの再生ボタンを止めた。

外では、いつもの朝が始まっていた。違う道ではない、いつもの道。

けれど僕は、もう知っていた。

どの道を選んでも、人生は同じ重さで、同じだけ尊い。だったら、僕が選んだこの道を、僕は——観客ではなく、主役として、生きていけばいい。

僕は鞄を持って、玄関のドアを開けた。

今日も、僕の映画は、続いていく。

おすすめの記事