駅前商店街のいちばん奥に、その店はあった。
アーケードの屋根はところどころ割れ、雨の日には古い蛍光灯の光が水たまりににじむ。シャッターを下ろした八百屋、看板だけ残った写真館、もう匂いのしないパン屋。そのさらに先、誰も用事のない突き当たりに、赤いビロードのカーテンを扉代わりに垂らした小さな店がある。
看板には、金色の文字でこう書かれていた。
歴史のスペア
その下に、もっと小さな字で。
あなたが選ばなかった人生、あります。
三十二歳の誕生日の夜、僕はその看板の前に立っていた。
会社を辞めた帰りだった。
いや、正確には「辞めさせられた帰り」だ。部署の縮小、人員整理、将来性の見直し。そういう言葉で丁寧に包装された現実を、僕は紙袋ひとつぶんの私物と一緒に渡された。送別会はなかった。上司は「君ならどこでもやっていける」と言ったが、たぶん僕の名前を来月には忘れている。
スマホには、母からの留守電が三件入っていた。
「誕生日おめでとう。忙しいと思うけど、たまには電話してね」
僕は再生しなかった。
その代わり、雨の商店街を歩き続け、気づけば「歴史のスペア」の前にいた。
カーテンの向こうから、フィルムが回るような音が聞こえた。
入る理由などなかった。
けれど、引き返す理由も見つからなかった。
僕はカーテンをくぐった。
店内は思ったより広かった。壁一面に、古いビデオテープやDVDケースが並んでいる。タイトルはどれも奇妙だった。
『あの日、告白していた場合』
『大学を中退しなかった場合』
『父に最後まで怒鳴らなかった場合』
『知らない駅で降りた場合』
『猫を拾わなかった場合』
『猫を拾った場合』
ケースの背表紙には、どれも名前が書かれていない。なのに、棚の一角だけ、僕の目を吸い寄せた。
そこには、僕の筆跡に似た字でこう書かれていた。
三谷奏太 選ばれなかった歴史
息が止まった。
「お誕生日、おめでとうございます」
背後から声がした。
振り返ると、カウンターに老人が座っていた。白いシャツに黒いベスト。髪は銀色で、顔には深いしわが刻まれているが、目だけが妙に若かった。
「ここは何ですか」
僕の声はかすれていた。
老人は微笑んだ。
「ビデオショップです。今はもう、珍しいでしょう」
「そういう意味じゃなくて」
「選ばなかった人生を貸し出しています」
彼は当たり前のことのように言った。
「ただし、見るだけです。戻ってやり直すことはできません。触れることも、話しかけることも、奪うこともできません。映画と同じです」
「……料金は?」
「一本につき、一晩分の睡眠」
「眠れなくなるってことですか」
「いえ。あなたの人生から、眠ったはずの一晩が消えます。体は休みませんし、夢も見ません。その代わり、別のあなたの人生を観ることができます」
馬鹿げている。
そう思った。思ったのに、僕の足は棚へ向かった。
一番手前のケースを抜き取る。
『十九歳の春、東京に行かなかった場合』
僕は地方の大学に進学した。東京の私大にも受かっていたが、学費と生活費を考えて諦めた。母は「行きたいなら行きなさい」と言ったが、僕は「別に」と嘘をついた。
あのときの僕が、もし東京へ行かなかったのではなく、もっと別の選択をしていたら。
いや、このタイトルは「東京に行かなかった場合」だ。つまり、僕が実際に選んだものと同じではないか。
老人が言った。
「それは、あなたが『行かない』と本気で決めた場合です。あなたは違う。諦めただけだ」
僕はケースを戻した。
次に手に取ったのは、
『二十四歳の冬、彼女を追いかけた場合』
胸の奥が痛んだ。
美咲。
大学時代の恋人だった。卒業後、彼女は海外の映画学校に進むと言った。僕は応援すると言いながら、内心では置いていかれることが怖くてたまらなかった。出発の日、空港まで見送りに行く約束をしていたのに、僕は行かなかった。
風邪をひいたと嘘をついた。
本当は、布団の中でスマホを握りしめ、彼女からの着信が切れるのを見つめていた。
それきり、彼女とは会っていない。
「これにします」
老人はうなずき、ケースを受け取った。カウンターの奥には古いブラウン管テレビとビデオデッキがあった。老人がテープを差し込むと、画面に砂嵐が走り、やがて空港のロビーが映った。
そこに、二十四歳の僕がいた。
息を切らして走っている。手には花束。髪は今より少し長く、スーツのネクタイは曲がっている。画面の向こうの僕は、美咲の名前を叫んだ。
美咲が振り返る。
彼女は泣いていた。
「来ないと思った」
画面の僕は、何度も謝った。それから、震える声で言った。
「行くなって言いたいんじゃない。僕も行く。何も決めてないけど、行く」
僕は思わず笑った。
なんて無計画で、なんて馬鹿なんだ。
でも美咲は、その馬鹿さに泣きながら笑った。
映像は早送りのように年月を進んだ。二人は安いアパートに住み、言葉の通じない街で喧嘩をし、皿を割り、抱き合い、貧乏を笑った。美咲は短編映画で賞を取り、僕は現地の小さな編集会社で働き始めた。やがて二人は結婚し、古い映画館を改装した家に住んだ。
そこには、僕が見たことのない僕がいた。
誰かの成功を隣で悔しがるのではなく、誇らしげに拍手する僕。失敗しても、失敗した場所から次の足場を探す僕。美咲と肩を並べて、夜明けまで作品について話す僕。
画面の中の僕は、四十歳になっていた。
美咲の初長編が国際映画祭に招かれ、舞台挨拶の客席で泣いている。隣には、十歳くらいの女の子が座っていた。僕と美咲の子どもだろう。彼女は父親の涙を見て、呆れたようにハンカチを差し出した。
その瞬間、僕はたまらなくなって目をそらした。
老人が静かに言った。
「止めますか」
「……最後まで見ます」
映画は終わった。
最後の場面は、海辺だった。年老いた僕と美咲が、並んでベンチに座っている。美咲は僕の肩にもたれ、僕は彼女の手を握っていた。二人とも何も言わない。ただ、遠くの波を見ていた。
画面が暗くなった。
店内には、ビデオデッキの駆動音だけが残った。
僕はしばらく動けなかった。
「いい人生ですね」
かろうじて、それだけ言った。
老人はテープを取り出し、ケースに戻した。
「ええ。あなたの人生です」
「僕のじゃない」
「あなたの、可能性だったものです」
「同じことです」
「いいえ」
老人は僕を見た。
「可能性は、あなたを責めるためにあるのではありません」
僕は笑った。嫌な笑いだった。
「じゃあ、何のためにあるんですか」
老人は答えなかった。
僕は二本目を借りた。
『二十七歳の秋、父の電話に出た場合』
父は僕が二十七のときに死んだ。心筋梗塞だった。
死ぬ三日前、父から着信があった。仕事中だったので出なかった。折り返すつもりだった。でも残業が続き、疲れて眠り、次の日も忘れた。
父は昔から無口だった。僕が何をしても褒めなかった。高校の文化祭で脚本を書いたときも、大学に合格したときも、就職が決まったときも、「そうか」と言っただけだった。
だから、僕も父に多くを求めなくなった。
映像の中で、二十七歳の僕が電話に出る。
「もしもし」
父の声がした。
「忙しいか」
「まあ、少し」
「そうか」
沈黙。
画面の僕は、いらだったようにパソコン画面を見ている。
「何?」
父はしばらく黙ってから言った。
「お前、最近どうだ」
それだけだった。
それだけの会話が、僕の胸を締めつけた。
画面の僕は椅子にもたれ、ため息をついた。
「別に普通。そっちは?」
「普通だ」
「何それ」
少し笑った。
父も、電話の向こうで小さく笑った。
会話はぎこちなかった。仕事のこと、母の膝の具合、実家の庭に来る野良猫の話。十分ほどで終わるはずだった電話は、三十分続いた。
最後に父が言った。
「奏太」
「ん?」
「無理するなよ」
画面の僕は、返事をするまでに時間がかかった。
「……うん」
父は三日後、やはり死んだ。
歴史は変わらなかった。
けれど葬式で泣く僕の顔が違った。後悔だけで崩れているのではなく、最後の会話を胸に抱えて泣いていた。
その後の人生も大きくは変わらない。僕は同じ会社で働き、同じように疲れ、同じように笑わなくなっていった。
ただ、たまに夜遅く帰宅すると、画面の僕は父の最後の「無理するなよ」を思い出して、コンビニ弁当を棚に戻し、温かい味噌汁を作った。
たったそれだけ。
でも、たったそれだけで、人は少し生き延びられるのだと知った。
二本目が終わるころ、外は白み始めていた。
僕は眠っていないはずなのに、妙に目が冴えていた。いや、一晩分の睡眠を失ったのだから、体は重かった。けれど頭の奥だけが、冷たい水で洗われたようだった。
「もう一本、借りますか」
老人が尋ねた。
僕は棚を見た。
無数の僕が並んでいる。
『母に本音を言った場合』
『会社を辞める前に泣いた場合』
『小説を書き続けた場合』
指が止まった。
小説。
僕は昔、小説家になりたかった。
中学のころからノートに物語を書いていた。高校では文芸部に入り、大学でも投稿を続けた。一度だけ、地方の小さな文学賞で最終候補に残ったことがある。
その知らせを受けた夜、僕は一睡もできなかった。
でも、受賞はしなかった。
就職してからは忙しさを言い訳に書かなくなった。書かない時間が長くなるほど、書くことが怖くなった。今では、パソコンの中に「新しいフォルダ」という名前の空のフォルダがあるだけだ。
僕はそのケースを抜いた。
『小説を書き続けた場合』
老人が、初めて少しだけ困った顔をした。
「これは、おすすめしません」
「なぜですか」
「あなたがいちばん見たいものは、あなたをいちばん傷つけることがあります」
「もう十分傷ついてます」
「いいえ。傷ついていると思っているうちは、まだ守っているものがあります」
僕はケースをカウンターに置いた。
老人はそれ以上止めなかった。
三本目の映像が始まった。
そこには、売れない僕がいた。
予想と違っていた。
画面の僕は小説を書き続けている。会社勤めをしながら、朝五時に起きて書き、昼休みに直し、夜にまた書く。新人賞に応募し、落ちる。落ちる。落ちる。封筒を破り、メールを閉じ、天井を見上げる。
二十九歳で、初めて小さな賞を取る。
けれど本は売れない。
三十歳で会社を辞める。
生活は苦しくなる。アルバイトを掛け持ちし、家賃を滞納し、友人の結婚式を断り、母に嘘をつく。
それでも書く。
画面の僕は、ときどき机に突っ伏して泣いていた。
「やめればいいのに」
僕は思わずつぶやいた。
でも画面の僕はやめなかった。
三十五歳、二冊目の本が出る。話題にはならない。三十七歳、連載が打ち切られる。四十歳、ようやく一冊が静かに売れ始める。派手な成功ではない。サイン会に並ぶ人は七人だけ。書評欄の隅に名前が載るだけ。
それでも、画面の僕は本屋で自分の本を見つけるたびに、少し照れたように笑った。
五十歳になった僕は、古いアパートの一室で書いていた。窓の外には、どこにでもある夕焼け。机の上には冷めたコーヒー。指は少し曲がり、目も悪くなっている。
それでも書いていた。
画面の中の僕は、幸福そうではなかった。
少なくとも、一般的な意味では。
金はない。家族もいない。名声もない。体もあちこち悪い。
けれど、何かを失敗した人間の顔ではなかった。
彼は、自分の人生から逃げていなかった。
そのことが、僕にはまぶしすぎた。
最後の場面で、年老いた僕が原稿を書き終えた。タイトルは見えない。彼は深く息を吐き、窓を開けた。夜風が紙を揺らす。
そして、誰に言うでもなくつぶやいた。
「まあ、こんなもんだろ」
それは諦めではなかった。
自分の人生を、ようやく自分のものとして受け取った人間の声だった。
画面が消えた。
僕は泣いていた。
声も出さずに、ただ涙だけが落ちた。
老人は何も言わなかった。
僕は袖で顔を拭い、笑おうとして失敗した。
「結局、どの人生も、僕じゃないんですね」
「そうです」
「でも、どれも僕なんですね」
「そうです」
老人はうなずいた。
「選ばなかった道は、美しく見えます。なぜなら、そこには今のあなたの痛みがないからです。けれど、よく見れば別の痛みがあります。別の喪失があり、別の後悔がある」
僕は棚を見た。
無数のケースが、薄暗い明かりの中で静かに並んでいる。
「じゃあ、今の僕の人生は?」
「それは貸し出していません」
「なぜ」
老人は少し笑った。
「まだ上映中ですから」
外では、始発電車の音がした。
僕は店を出ようとして、ふと振り返った。
「また来られますか」
「必要なら」
「必要じゃなければ?」
「店は見つかりません」
赤いカーテンをくぐると、朝の商店街に雨の匂いが残っていた。
スマホを見る。母からの留守電が三件。僕はしばらく画面を見つめ、それから電話をかけた。
数回の呼び出し音のあと、母が出た。
「奏太? どうしたの、こんな朝早く」
僕は言葉を探した。
ありがとう、と言うべきか。ごめん、と言うべきか。会社を辞めた、と言うべきか。誕生日を祝ってくれて嬉しかった、と言うべきか。
結局、最初に出てきたのは、情けないほど普通の言葉だった。
「母さん、最近どう?」
電話の向こうで、母が少し驚いたように黙った。
それから、笑った。
その笑い声を聞きながら、僕は歩き出した。
家に帰ったら眠ろうと思った。二晩分の睡眠を失った体は限界だった。
でも、その前に一つだけやることがあった。
パソコンを開く。
空のフォルダの名前を変える。
「新しいフォルダ」ではなく、別の名前に。
何でもいい。下手でもいい。続かなくてもいい。誰にも読まれなくてもいい。
それは、成功した並行世界の僕になるためではない。
美咲を追いかけた僕になるためでも、父の電話に出た僕になるためでもない。
今ここにいる僕が、自分の上映中の映画から、これ以上目をそらさないためだ。
商店街の角を曲がる前に、もう一度だけ振り返った。
そこには、シャッターの下りた古い写真館があるだけだった。
赤いカーテンも、金色の看板も、どこにもなかった。
けれど僕は、たしかに見た。
選ばなかった人生たちが、暗い棚の奥で静かに眠っているのを。
そしてそのどれもが、僕に向かってこう言っていた。
まだ間に合う、とは言わない。
取り戻せる、とも言わない。
ただ、
まだ終わっていない。