広告

最初に聞こえたのは、妻の声だった。

「おかえり」と彼女は言った。

しかし、耳の奥で、別の言語が重なった。

柔らかい子音と、喉の奥をこすれるような母音。聞いたことのない外国語だった。フランス語でもドイツ語でもない。ロシア語に似ている気もしたが、もっと湿っていて、もっと暗い。

僕は玄関で靴を脱ぎかけたまま固まった。

妻の美奈はキッチンから顔を出し、いつもの笑顔を浮かべていた。

「どうしたの?」

彼女の唇はそう動いた。

だが、僕の耳に届いたのはこうだった。

「いつまでこの人と暮らすんだろう」

日本語ではなかった。

それなのに、意味だけが頭の中に滑り込んできた。

僕は笑おうとした。失敗した。

「いや、なんでもない」

そう答えた瞬間、美奈の目が一瞬だけ細くなった。

聞こえた。

「また変な顔。気持ち悪い」

意味が流れ込む。

僕はその場で吐きそうになった。

それが始まりだった。

翌朝、駅のホームは地獄だった。

人々はいつも通りスマートフォンを眺め、イヤホンをつけ、眠そうに電車を待っていた。しかし僕には、彼らの言葉にならない声が聞こえた。

「押されたら落ちるかな」

「隣の女、香水きつい」

「今日も会社か。死にたい。死なないけど」

「上司の机に火をつけたい」

「この男、昨日のニュースの犯人に似てる」

それらはすべて、謎の外国語として耳に届いた。しかも一人一人、言語が違う。老人の声は乾いた砂漠の言葉。女子高生の声は鳥の鳴き声みたいに跳ねる言葉。サラリーマンの声は鉄を擦るような響き。

だが意味は分かる。

分かってしまう。

僕は耳を塞いだ。無駄だった。音は外からではなく、内側から鳴っていた。

会社に着く頃には、僕のシャツは汗で背中に貼りついていた。

「顔色悪いな、佐伯」

課長の村瀬が言った。

「大丈夫です」

「無理するなよ」

その声の裏で、低い獣のような言語が響いた。

「使えなくなったら切るだけだ」

僕は、彼を初めて怖いと思った。

いや、違う。

本当はずっと知っていたのかもしれない。人はやさしい言葉の下に、冷たい刃を隠している。僕はただ、それを聞かないふりで生きてきただけだ。

昼休み、僕はビルの非常階段に逃げ込んだ。

スマートフォンを取り出す。三日前、僕はあるアプリをインストールしていた。

名前は「HONNE」。

広告にこう書かれていた。

「あなたの言葉を、あなた自身も知らない言葉へ」

意味不明だった。飲み会の罰ゲームで後輩に勧められ、面白半分で入れた。起動すると、簡素な画面にマイクのアイコンだけが表示され、利用規約は異常に長かった。

僕は読まずに同意した。

その夜から、妻の声が二重に聞こえるようになった。

アプリを開くと、画面に黒い文字が浮かんでいた。

翻訳精度:87%

対象:周辺心理音声

同期状態:安定

僕は震える指でアンインストールを押した。

画面が暗転し、次の文字が表示された。

同期済みの機能は端末から削除できません。

その下に、問い合わせ先があった。

開発者名。

七瀬怜。

僕はその名前を検索した。

すぐに出てきた。小さなソフトウェア会社の代表。大学院で認知言語学と音声情報処理を研究。数年前に論文が注目されたが、現在は表舞台に出ていない。

会社の住所は、古い雑居ビルの五階だった。

僕は午後の会議を欠席し、そのビルへ向かった。

エレベーターは故障中だった。薄暗い階段を上るたび、壁の向こうから人々の本音が染み出してきた。

「家賃を払いたくない」

「隣の会社の女、殺してやりたい」

「誰にも見つからなければ盗む」

「謝りたくない。謝ったふりをしたい」

五階の廊下は静かだった。

突き当たりのドアに、銀色のプレートが貼られていた。

NANASE LAB

インターホンを押すと、すぐに鍵が開いた。

中にいたのは、三十代半ばの女だった。

黒い髪を後ろで束ね、白いシャツに黒いカーディガン。研究者というより、葬儀屋のような印象だった。

「佐伯圭さんですね」

僕は息を呑んだ。

「なぜ名前を」

「アプリが教えてくれます」

女は微笑んだ。

その笑顔の裏に、何も聞こえなかった。

完全な無音。

僕はそれが何より恐ろしかった。

「七瀬怜さんですか」

「はい」

「これは何なんですか。人の考えてることが聞こえる。妻も、会社の人間も、知らない人まで。全部、外国語みたいに」

「外国語みたいに、ではありません」

七瀬は僕を部屋の奥へ招いた。

室内には机が一つ、モニターが三台、そして壁一面の本棚があった。心理学、言語学、神経科学、宗教学。背表紙がぎっしり並んでいる。

「本音には、母語がありません」と七瀬は言った。「言葉になる前の衝動です。嫉妬、恐怖、欲望、嫌悪、依存。それらは日本語でも英語でもない。けれど脳は、理解できないものを理解可能な形式に変換しようとする。あなたにはそれが外国語として聞こえている」

「消してください」

僕は言った。

「今すぐ」

七瀬は黙って僕を見た。

やはり、心の声が聞こえない。

「できません」

「ふざけるな」

「技術的には可能です。ただし、あなたが本当に望んでいるなら」

「望んでます」

「いいえ」

七瀬は静かに首を振った。

「あなたは望んでいない」

僕は立ち上がった。

その瞬間、モニターの一つに僕の顔が映った。カメラで撮られているわけではなかった。画面には文字列が流れていた。

怒り:42%

恐怖:71%

好奇心:63%

支配欲:18%

真実欲求:91%

「やめろ」

「あなたは知りたい人です。人の裏側を。妻が本当は何を思っているのか。上司が、友人が、世界が、自分をどう見ているのか」

「違う」

「違いません」

彼女の声は淡々としていた。

「あなたはずっと疑っていた。愛されていないのではないか。軽蔑されているのではないか。誰も自分を必要としていないのではないか。だから、アプリを入れた」

僕は反論できなかった。

あの日、飲み会の帰り。後輩が笑いながら勧めたアプリを、僕は一人になってからもう一度開いた。

説明文を読んだ。

「あなたの周囲にある、言葉になる前の声を翻訳します」

馬鹿げていると思った。

でも、指は同意ボタンを押した。

美奈が自分を愛しているのか。

それを確かめたかった。

「あなたは僕を実験台にしたんですか」

「被験者は選んでいません。アプリを求めた人だけが同期します」

「求めた?」

「そうです」

七瀬は机の引き出しから、小さな黒い端末を取り出した。

「人の本音を知りたいという欲望は、感染します。誰かの心を読めるなら読みたい。けれど、読んだ責任は取りたくない。だから皆、被害者の顔をする」

「あなたは平気なんですか」

僕は七瀬を睨んだ。

「こんなものを作って」

彼女は初めて、少しだけ目を伏せた。

「平気ではありません」

その瞬間、かすかに音が聞こえた。

七瀬の内側から。

それは言葉ではなかった。水槽の底で誰かが爪を立てるような、細く濁った音。

意味が来る。

「聞かないで」

僕は一歩下がった。

七瀬の顔から表情が消えた。

「今、何が聞こえました」

「あなたも……聞こえるんですね。自分の心を隠しているだけで」

「何が聞こえたの」

声が硬くなった。

僕の耳の奥で、七瀬の本音がまた鳴った。今度ははっきりと意味を持っていた。

「まだ生きていたの」

僕は首筋が冷たくなるのを感じた。

「誰のことですか」

七瀬は答えなかった。

代わりに、部屋の奥の扉を見た。

鍵が三つ付いた、灰色の鉄扉だった。

その向こうから、声がした。

外国語だった。

幼い声。

「お母さん、開けて」

僕は七瀬を見た。

彼女は微笑んでいた。

ただし、その笑顔はもう人間のものではなかった。

「佐伯さん。聞こえてしまったんですね」

僕は後ずさった。

「今のは何ですか」

「ノイズです」

「子どもの声だった」

「ノイズです」

「お母さんって言ってた」

七瀬の目が、静かに濁った。

その時、僕のスマートフォンが震えた。

画面に通知。

翻訳精度:93%

対象追加:密閉空間内心理音声

鉄扉の向こうの声が、次々と流れ込んできた。

「暗い」

「喉が乾いた」

「お母さんは今日も実験している」

「お母さんは私を愛していると言う」

「でも、お母さんの本音は聞こえない」

「だから怖い」

僕はドアへ駆け寄ろうとした。

七瀬が僕の腕を掴んだ。

細い指なのに、驚くほど強かった。

「やめてください」

「警察を呼ぶ」

「呼べません」

「呼ぶ」

「あなたは説明できますか? 人の本音が聞こえるアプリを入れたら、研究所の奥から子どもの心の声が聞こえました、と」

僕は言葉を失った。

七瀬は僕の耳元で囁いた。

「あなたはもう、普通の人間には戻れない。あなたが聞いているものは証拠にならない。あなたの正気を疑わせるだけです」

鉄扉の向こうで、子どもが泣いていた。

いや、泣き声は聞こえない。

心の声だけが泣いていた。

「娘さんですか」

僕が尋ねると、七瀬は手を離した。

「娘だったものです」

その声はあまりに静かだった。

「夫がいました。優しい人でした。優しい言葉を使う人でした。でも、彼の本音は違った。私は研究の初期段階で、それを聞いてしまったんです」

七瀬はモニターの前に戻った。

「彼は娘を愛していなかった。私も愛していなかった。家族という形を維持する自分を愛していただけだった」

「だから?」

「だから私は、すべてを正確に知る装置を作ろうと思った。言葉の嘘を取り除くために」

「娘さんを閉じ込めた理由にはならない」

七瀬はゆっくり振り返った。

「娘は、私の本音を聞きました」

僕は黙った。

「私は娘を愛していました。でも、同時に邪魔だと思っていた。研究を妨げる存在だと。夫に似た目をしているのが憎いと。泣き声がうるさいと。生まなければよかったと」

七瀬の唇が震えた。

「娘はそれを、全部聞いたんです」

鉄扉の向こうで、幼い心が呟いた。

「お母さんは本当のことを言っただけ」

「でも本当のことは、包丁より痛い」

僕は耐えられず、スマートフォンで警察に電話しようとした。

画面が勝手に暗くなった。

発信先:無効

「アプリが通信を制御しているのか」

「いいえ」と七瀬は言った。「あなた自身が止めています」

「何を」

「あなたは怖いんです。警察が来て、あなたの言うことを信じず、精神科に連れていくことが。妻に知られることが。会社に知られることが。だから、あなたの指は最後のボタンを押さない」

僕は画面を見た。

確かに、僕の親指は通話ボタンの上で止まっていた。

押せなかった。

七瀬は言った。

「本音とは、聞こえるだけで人を支配します。なぜなら本音は、命令に似ているから」

その時、鉄扉の向こうの声が変わった。

「その人なら開けられる」

僕は顔を上げた。

「お願い」

声は、僕だけに向けられていた。

「おじさん、開けて」

七瀬が叫んだ。

「聞くな!」

だが遅かった。

僕は机の上にあった鍵束を掴み、鉄扉に走った。七瀬が背中に飛びつく。爪が首に食い込んだ。僕は肘で彼女を振り払い、一つ目の鍵を回した。

金属音。

二つ目。

七瀬が僕の耳元で叫んだ。

「その子はもう人を壊す!」

三つ目。

扉が開いた。

中は狭い部屋だった。

ベッド、小さな机、無数のスピーカー、壁に貼られた吸音材。中央に、十歳くらいの少女が座っていた。

髪は長く、肌は異様に白かった。

少女は僕を見て微笑んだ。

その瞬間、世界中の言語が一斉に流れ込んだ。

「ありがとう」

「こわかった」

「出たかった」

「お母さんを許したい」

「お母さんを殺したい」

「あなたの奥さんはあなたを愛していない」

「あなたはそれを知っていた」

「でも知らないふりをした」

「あなたは私を助けたかったんじゃない」

「自分が正しい人間だと思いたかった」

僕は膝をついた。

少女の声は幼かった。だが、その本音は底なしだった。人間の奥にある泥を、全部かき混ぜたような声だった。

七瀬が背後で泣いていた。

「だから閉じ込めたの。あの子は翻訳するんじゃない。引き出すの。相手が隠している一番醜い声を、本人に聞かせる」

少女が立ち上がった。

裸足の足音はしなかった。

彼女は七瀬の前に立ち、言った。

「お母さん」

口に出した声は、普通の日本語だった。

七瀬は震えながら首を振った。

「ごめんなさい」

少女は首を傾げた。

「それ、どっち?」

七瀬の顔が崩れた。

彼女の心の声が、初めて部屋いっぱいに響いた。

「愛してる」

「怖い」

「消えて」

「抱きしめたい」

「許して」

「死んで」

「私を一人にしないで」

少女はそのすべてを聞き、笑った。

次の瞬間、七瀬は自分の喉に両手をかけた。

僕は止めようとした。しかし動けなかった。

耳の奥で、美奈の声がしていた。

「いつまでこの人と暮らすんだろう」

村瀬の声がしていた。

「使えなくなったら切るだけだ」

そして、僕自身の声がした。

聞いたことのない外国語だった。

けれど意味は分かった。

「誰かを救えば、自分は救われると思っていた」

七瀬が床に倒れた。

少女は僕を見た。

「ねえ、おじさん」

僕は後ずさった。

「私を連れて帰って」

その言葉は日本語だった。

だが、その下にある本音は、どの言語にも似ていなかった。

真っ黒な沈黙。

七瀬と同じ、完全な無音。

僕は悟った。

本当に恐ろしいのは、醜い本音ではない。

何も聞こえない心だ。

翌朝、僕は自宅のベッドで目を覚ました。

隣に美奈はいなかった。

スマートフォンには、未読メッセージが一件だけあった。

差出人は不明。

翻訳精度:100%

リビングへ行くと、テレビがついていた。

ニュースでは、雑居ビルで女性研究者が死亡したと報じていた。研究所内から保護された少女については、詳細不明。警察は事件と事故の両面で調べているという。

僕はソファに座った。

美奈がキッチンから出てきた。

「起きたの」

その声は普通だった。

裏側の声は聞こえない。

僕は息を吐いた。

終わったのだと思った。

「朝ごはん、食べる?」

美奈が尋ねた。

僕は頷いた。

その時、彼女の背後から少女が顔を出した。

白い肌。

長い髪。

裸足。

美奈はその存在に気づいていない。

少女は唇に指を当てた。

そして、音のない声で言った。

「次は、あなたの本音を翻訳してあげる」

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