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一 駅員・三浦

その朝、始発の前にホームを掃いていると、線路の向こうに菜の花が咲いていた。

おかしい、と思った。

この町の駅に菜の花など植えた覚えはない。駅前には桜が三本、ロータリーには百日紅、線路沿いにはすすきが生える。そういう順番で一年は巡る。春、夏、秋、冬。それからまた春だ。

だが、その朝は違っていた。

空は薄い金色をしていた。朝焼けではない。もっと柔らかく、古い写真の中だけに残るような色だった。風には雨上がりの匂いと、焼き芋の匂いと、海の匂いが混じっていた。どれも季節がばらばらで、鼻が先に混乱した。

時計を見ると、午前五時十七分。

次に時計を見たときも、午前五時十七分だった。

故障かと思った。だが、駅舎の掛け時計も、私の腕時計も、券売機の時刻表示も、すべて同じだった。秒針だけが、十二の手前で震えている。

そのとき、ホームに女の子が立っているのに気づいた。

白いワンピースを着て、手に切符を一枚持っていた。年は十七か十八くらいだろう。長い髪に菜の花の花粉がついて、金色に光っていた。

「どちらまで?」

私が尋ねると、彼女は切符を差し出した。

そこには行き先が書かれていなかった。

代わりに、こう印字されていた。

「七番目」

私は笑ってしまった。寝ぼけているのだと思った。

「お客さん、これでは乗れませんよ」

女の子は不思議そうに私を見た。

「去年も、そう言いました」

去年?

私は返事をしようとして、言葉を失った。

確かにその瞬間、私は思い出しかけたのだ。

同じ朝、同じ金色の空、同じ少女。私は同じことを言い、彼女は同じように微笑んだ。毎年、毎年、私はここで彼女に会っている。そういう確信が胸の奥から泡のように浮かび上がった。

だが、次の瞬間には消えた。

何を思い出しかけたのかも分からなくなった。

ただ、私はなぜか泣いていた。

少女は言った。

「今年は、乗せてくれますか」

私は切符に鋏を入れた。

もう鋏など使わない駅なのに、その朝だけ、制服の胸ポケットに古い改札鋏が入っていた。カチン、と音がした。すると遠くから列車の音が聞こえた。

時刻表にない列車だった。

銀色でも青色でもない、雨に濡れた桜貝のような色の列車が、音もなくホームへ滑り込んだ。窓は曇っていて、中は見えなかった。

少女は乗る前に振り返り、私に小さな紙袋を渡した。

「忘れてもいいです。でも、捨てないで」

列車が去ると、時計の秒針が動き出した。

午前五時十八分。

紙袋の中には、乾いた菜の花が一本入っていた。

私はそれを駅務室の引き出しにしまった。

その日の夕方には、朝のことをほとんど忘れていた。ただ、引き出しを開けるたびに、そこにあるはずのない菜の花を見て、胸が痛んだ。

どうして痛むのかは、分からなかった。

二 高校生・鳥居真帆

その日は、学校が休みだった。

と、私は思っていた。

でも手帳を見ると、普通に授業がある日だった。スマホのカレンダーも同じ。なのに制服を着る気になれなくて、私は私服のまま駅へ向かった。理由は分からない。ただ、駅に行かなければならない気がした。

駅前の桜が咲いていた。けれど蝉も鳴いていた。足元には落ち葉が積もり、息は白かった。

「気持ち悪い」

私はそうつぶやいた。

世界が季節を間違えている。いや、違う。季節のほうが、私たちを間違えている。

ホームには三浦さんがいた。いつも眠そうな駅員さんだ。けれどその日は、ずっと線路の向こうを見ていた。私も見た。

菜の花畑があった。

昨日までそこには何もなかった。枯れ草と砕石と、錆びたフェンスだけだった。それが、一晩で一面の黄色になっていた。きれいなのに、見ていると怖かった。

そこへ、白い服の女の人が現れた。

私はその人を知っている気がした。たぶん、知らない。でも、絶対に知っている。胸の奥がざわざわした。なくしたものの名前を、誰かに先に呼ばれたみたいだった。

彼女は三浦さんに切符を渡した。

三浦さんは最初、困った顔をしていた。でもすぐに泣きそうな顔になった。私はその顔を見て、なぜか腹が立った。

この人だけが何かを分かっている。

そう思った。

列車が来た。時刻表にない列車だった。私は怖くなって、スマホで撮ろうとした。でも画面には何も映らなかった。ホームも、線路も、列車も映っているのに、白い女の人だけが映らない。

そのとき、彼女が私を見た。

「真帆」

名前を呼ばれた。

私は一歩下がった。

「あなた、誰?」

彼女は少し悲しそうに笑った。

「まだ覚えてないのね」

その言い方に、私はますます腹が立った。

忘れたのは私じゃない。最初から知らないのだ。知らない人に、知っているふりをされるほど気持ち悪いことはない。

けれど列車の扉が開いたとき、私は思い出した。

いや、思い出したというより、体のどこかが勝手に知っていた。

小学生のころ、私は線路脇で迷子になったことがある。夕方なのに空が金色で、季節が分からなくて、泣いていた。そこへ白い服の女の子が来て、私に菜の花をくれた。

「これは、七番目の季節にしか咲かないの」

彼女はそう言った。

「七番目って?」

「春夏秋冬のあとに来る季節。誰も覚えていられない季節」

「じゃあ、意味ないじゃん」

子どもの私はそう言った。

彼女は笑った。

「忘れるから、毎年会えるの」

その記憶は、列車の音と一緒に現れ、扉が閉まる音と一緒に消えた。

私はホームに立ったまま、泣いていた。

三浦さんがこちらを見た。

「大丈夫かい」

私はうなずいた。

「何か、ありました?」

三浦さんは言った。

「いや、何も」

私はスマホを見た。写真フォルダには、ホームの写真が一枚だけ残っていた。そこには列車も女の人も写っていなかった。

ただ、線路の向こうに菜の花が咲いていた。

そして画面の端に、私の指が写っていた。

その指には、いつの間にか黄色い花粉がついていた。

三 喫茶店主・榊

駅前で喫茶店を四十年やっていると、町のことはだいたい分かる。

誰が誰を好きか。誰が借金をしているか。誰の家の犬が死んだか。誰が都会へ出て、誰が戻ってこないか。

だが、あの日のことだけは分からない。

いや、本当は分かっているのかもしれない。分かっているのに、頭がそれを拒んでいる。

午前五時半ごろ、店のシャッターを開けた。すると駅のホームに見慣れない列車が停まっていた。朝霧のせいで色はよく見えなかったが、妙に懐かしい形をしていた。子どものころに乗ったボンネットバスにも似ていたし、母の鏡台に置いてあった貝殻にも似ていた。

店の前には、季節外れの客が一人立っていた。

白いワンピースの娘だ。

「開いてますか」

と聞かれた。

「まだだよ」

私はそう答えた。だが、なぜか店の鍵は開いていたし、コーヒーもすでに淹れてあった。

娘は窓際の席に座り、駅を見ていた。

「今年も、あの人は乗せてくれそうです」

あの人、というのは駅員の三浦だろう。昔から真面目で、融通の利かない男だ。若いころ、よくこの店で一人コーヒーを飲んでいた。いつも誰かを待っている顔をしていた。

「知り合いかい」

私が聞くと、娘は首をかしげた。

「知り合いになる前に、みんな忘れてしまうので」

変なことを言う子だと思った。

だが、その顔に見覚えがあった。

私は昔、娘を一人亡くしている。

名前は七海。生きていれば、ちょうど目の前の娘くらいの年になっていたはずだ。だが七海は五歳の冬に熱を出し、そのまま戻らなかった。

白い娘は、七海に似ていなかった。

似ていないのに、なぜか七海だと思った。

「お父さん」

娘がそう呼んだ気がした。

いや、呼んでいない。口は動いていなかった。たぶん私の耳が勝手に聞いたのだ。

私はカップを落とした。

割れた音がした。コーヒーが床に広がった。娘は立ち上がり、ハンカチを出そうとしたが、途中でやめた。

「触ると、思い出してしまいます」

「何を」

「思い出したいことと、思い出さないほうがいいことを、同時に」

私は怒鳴った。

「君は誰だ」

娘は答えなかった。

代わりに、テーブルに菜の花を一本置いた。

「これは、あの駅員さんに渡すはずだったんです。でも、今年はあなたにも」

外を見ると、三浦がホームで娘を待っていた。高校生の真帆ちゃんもいた。あの子は近所の鳥居さんの孫で、小さいころ一度、線路脇で迷子になったことがある。町中で探したが、翌朝、駅のベンチで眠っているところを見つかった。手には黄色い花を握っていた。

そうだ。

私はその花を見た。

見たはずなのに、翌日には誰も覚えていなかった。鳥居さんも、三浦も、私も。写真に撮ったはずなのに、現像したら空だけが写っていた。

なぜ今まで忘れていた?

娘は店を出た。

私は追いかけようとしたが、足が動かなかった。窓の向こうで、娘は列車に乗った。扉が閉まる直前、こちらを向いて笑った。

七海の笑い方だった。

その瞬間、私は全部思い出した。

七海が死んだ年の冬のあと、春は来なかった。町には一日だけ、知らない季節が来た。雪の下から菜の花が咲き、蝉が鳴き、桜が散り、落ち葉が舞った。その季節の中で、七海は店の前に立っていた。

「お父さん、また来年ね」

そう言った。

それから毎年、私は娘に会っていた。

毎年、忘れていた。

列車が去ると、私は床のコーヒーを拭いていた。なぜカップが割れているのか思い出せなかった。

ただ、テーブルに菜の花が一本あった。

私はそれを小さな瓶に挿した。

夕方、常連が来て言った。

「榊さん、珍しいですね。花なんか飾って」

私は答えた。

「誰かが置いていったんだ」

「誰が?」

「さあ」

そのとき、胸が痛んだ。

痛みだけは、忘れなかった。

四 白い服の少女

私は季節ではない。

けれど、人は私を季節と呼ぶ。

春夏秋冬のあとに来るもの。暦に書かれず、天気予報にも映らず、写真にも残らず、記憶からこぼれ落ちるもの。

一年に一度だけ、私は町へ戻る。

戻る、と言っても、どこから来るのか私は知らない。死者の国かもしれない。夢の底かもしれない。人が忘れたものだけが降り積もる場所かもしれない。

私は毎年、同じ駅に降りる。

駅員の三浦さんは、いつも私を止める。

「その切符では乗れませんよ」

彼は毎年そう言う。けれど最後には鋏を入れてくれる。彼は知らない。昔、彼がまだ若かったころ、私は彼と約束した。

「私が来たら、必ず乗せて」

彼は笑って言った。

「忘れなければね」

だから私は、彼が忘れてもいいように、毎年切符を持ってくる。

真帆は、いつも怒る。

忘れていることを認めたくないからだ。あの子は小さいころ、この季節に迷い込んだ。帰り道を失い、泣いていた。私は手を引いて駅まで連れていった。

「お姉ちゃんは誰?」

そう聞かれて、私は答えられなかった。

名前を言えば、あの子は覚えてしまう。覚えれば、普通の季節に戻れなくなる。だから私は菜の花だけを渡した。

真帆は忘れた。

けれど忘れたまま、大きくなった。

それでいい。

榊さんは、私を見るたびに娘の名前を思い出す。

私は七海ではない。たぶん。

けれど、七海でもあるのかもしれない。

誰かに忘れられたものは、この季節で少しずつ混ざる。亡くした子ども、言えなかった言葉、出せなかった手紙、帰らなかった人、閉じたままの店、植えられなかった花。私はそれらでできている。

だから、榊さんが私を娘だと思うなら、その一瞬だけ私は娘になる。

それは嘘だろうか。

三浦さんは、私を旅人だと思う。

真帆は、私を怪物だと思う。

榊さんは、私を亡くした子だと思う。

どれも間違っていない。

どれも正しくはない。

七番目の季節は、春ではない。夏でも秋でも冬でもない。五番目でも六番目でもない。なぜ七番目なのか、誰も知らない。私にも分からない。

ただ、一年には本当は七つの季節がある。

人が覚えていられるのは、そのうち四つだけだ。

残りの三つは、失くしたものたちが使っている。

その朝、私は列車に乗る前に三浦さんへ菜の花を渡した。真帆には名前を呼んだ。榊さんの店には、一本だけ花を置いた。

列車の窓から町を見る。

桜が咲いている。蝉が鳴いている。落ち葉が舞っている。雪が降っている。菜の花が揺れている。

全部が同時にある。

普通の人なら、耐えられない景色だろう。

けれど私は、この景色が好きだ。

忘れられたものたちは、ここでは消えない。誰かが覚えていなくても、なかったことにはならない。名前を失っても、形を変えても、また一年後に咲く。

扉が閉まる。

三浦さんは泣いている。

真帆は怒った顔で泣いている。

榊さんは窓辺で立ち尽くしている。

三人は、もうすぐ忘れる。

それでも、私は手を振る。

忘れられることには慣れている。

でも、忘れることには慣れない。

列車が動き出す。

町が遠ざかる。

時計が午前五時十八分を指す。

次に私が来るとき、彼らはまた初めての顔をするだろう。三浦さんは切符を見て困り、真帆は私を不審に思い、榊さんはカップを落とす。

そして私はまた、同じことを言う。

「今年は、乗せてくれますか」

「まだ覚えてないのね」

「これは、あなたにも」

同じ出来事は、同じではない。

見る人が違えば、季節の名前も変わる。

私は窓に額をつけ、菜の花畑の向こうに消えていく駅を見た。

手のひらには、誰かの温度が残っていた。

それも、まもなく消える。

消える前に、私は小さくつぶやいた。

「また来年」

その言葉だけが、七番目の季節の中で、いつまでも春のように揺れていた。

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