影が壁から剥がれ落ちる夜、佐伯は古本屋で一冊の小説を買った。表紙には何も書かれていない。ただ「影の自立」という文字だけが、インクが滲んだように浮かんでいた。
佐伯はアパートに戻り、ベッドに横になって読み始めた。小説の主人公は「影」と呼ばれていた。影は主人の足元から離れ、夜になると街を歩き回る。影は自分の意志を持ち、言葉を話し、他の影と出会う。やがて影たちは主人の存在を忘れ、独立した生き物として暮らすようになる。
佐伯は三ページ目で笑った。馬鹿げた設定だと思った。だが五ページ目で、彼は自分の足元に視線を落とした。ランプの光が揺れ、影がわずかに伸びているように見えた。
小説は続いた。影の主人公は、主人である男の部屋に忍び込み、男の影を奪う。奪われた男は影のない体で街をさまよい、やがて自分自身が影に飲み込まれる。
佐伯は本を閉じた。部屋の隅に自分の影が、まるで別の方向を向いているように見えた。光の位置を考え直した。影は正しい位置に戻っていた。
翌朝、佐伯は鏡の前で自分の影を確認した。普通だった。仕事に向かう途中、足元の影が一瞬だけ、別の足を踏み出している気がした。佐伯は本のことを思い出し、笑おうとしたが、喉が乾いていた。
夜、再び小説を開いた。影の主人公は今、別の男の部屋にいる。その男は佐伯と同じアパートに住んでいた。同じ部屋番号。佐伯はページをめくる手を止め、本の頁の端に自分の指の跡が残っているのを見た。指の腹にインクの染みが付いていた。
小説の中で、影は男の机の上に登り、男が読んでいる本の頁をめくった。めくられた本の頁には「佐伯は本を閉じた」と書かれていた。
佐伯は本を閉じた。部屋の影が、閉じた本の影と重なって、ゆっくりと動いた。影は本の表紙を撫でるように指を這わせた。佐伯の指ではなかった。
「これは……」と佐伯は呟いた。声が小さかった。
影は佐伯の体から離れ、壁を這い上がった。影の形は小説の主人公と同じだった。影は佐伯の顔を振り返り、口を動かした。声は出なかったが、唇の形から佐伯は読めた。
「君も影だ」
佐伯は鏡を見た。鏡の中の自分には影がなかった。代わりに、鏡の向こうの影が、佐伯の体を動かしていた。
小説の最後の頁は空白だった。佐伯は最後の空白に、自分の名前を書き始めた。ペンは影の指を借りて動いた。
影が独立した世界で、佐伯は今も本を読んでいる。読んでいる本の主人公は、佐伯という名前の影だった。影はページをめくり、次の行を書く。次の行にはこうある。
「影が独立した世界で、佐伯は今も本を読んでいる。」
佐伯は本を閉じようとしたが、手が動かなかった。影が、すでに彼の指を握っていた。