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一 ミナト

この街では、夜が明けない。

そう言うと、たいていのよそ者は笑う。そんな場所があるものか、と。太陽は必ず昇るし、鳥は鳴くし、時計は朝を告げる。彼らはそう信じている。正しい。おそらくは。

けれど、少なくとも僕が覚えている限り、シロガネ街に朝は来ない。

空はいつも黒紫で、ビルの隙間には洗い残した絵の具のような青が滲んでいる。看板は二十四時間燃え続け、地下鉄は終電のあとも走り、コンビニの店員は十年前から同じ顔で「温めますか」と訊く。誰も眠らない。眠れないのではない。眠る必要がないのだ。

いや、違う。眠る必要がないふりをしているだけかもしれない。

僕は「夜明け観測所」で働いている。市庁舎の屋上にある、錆びた望遠鏡と壊れかけの気象計しかない部署だ。仕事は簡単だ。毎時ちょうどに東の空を見て、夜明けの兆候がないか記録する。

記録簿には、僕の筆跡でこう並んでいる。

午前一時。変化なし。
午前二時。変化なし。
午前三時。変化なし。
午前四時。変化なし。

問題は、僕がいつからこの仕事をしているのか思い出せないことだ。

観測所にはもう一人いた。名前はユキ。いつも白いコートを着て、眠そうな目をしていた。彼女は僕よりずっと長く街にいて、街が眠らなくなった理由を知っていると言った。

「誰かが最初に眠るのをやめたの」とユキは言った。「その人につられて、みんな眠り方を忘れた」

「誰?」

「あなたよ」

彼女はそう言って笑った。

僕は笑い返したが、たぶん上手く笑えていなかった。

ユキは三日前に消えた。いや、四日前かもしれない。記録簿には彼女の名前が載っていない。職員名簿にもない。机は一つしかなく、コート掛けも一つしかない。

それでも僕は、彼女がいたことを覚えている。

そして彼女が最後に言った言葉も。

「夜明けが来たら、あなたは私を忘れる」

だから僕は夜明けを待っているのか、恐れているのか、自分でもわからない。

二 アキラ

ミナトの話を信じてはいけない。

あいつは昔からそうだ。必要なところだけ覚えて、都合の悪いところは夜のせいにする。シロガネ街に朝が来ない? 馬鹿げている。朝は毎日来ている。ただ、ここの連中はカーテンを閉め切って、昼間もネオンを消さないだけだ。

俺はタクシー運転手をしている。夜勤専門だ。だから街が眠らないように見えるだけだ、と言われればその通りだ。だが俺にはわかる。この街の夜は普通じゃない。

午前四時を過ぎると、客が増える。

朝帰りの酔っ払いじゃない。スーツ姿の女、制服の少年、裸足の老人、花嫁衣装の男。みんな同じことを言う。

「夜明け観測所まで」

俺は何度も市庁舎へ客を運んだ。屋上へ続く階段の前で客は降りる。金は払わない。代わりに、俺の知らない記憶を一つ置いていく。

ある女は、俺が十七歳のとき母親を見捨てて家を出た記憶を置いていった。俺はそんなことをしていない。母は病院で死んだ。俺は最期までそばにいた。そうだ。いたはずだ。

ある少年は、俺がユキという女を轢いた記憶を置いていった。

それも嘘だ。俺は誰も轢いていない。

ただ、三日前の午前四時十二分、市庁舎前の交差点で急ブレーキを踏んだ。白いコートの女が飛び出してきたからだ。ヘッドライトに照らされた彼女は、泣いているようにも笑っているようにも見えた。

「止まって!」と俺は叫んだ。

いや、叫んだのは彼女だったかもしれない。

車は止まった。たぶん間に合った。ボンネットに衝撃はなかった。タイヤの下にも何もなかった。

だが翌日から、俺のタクシーの後部座席には白い髪が落ちている。掃除しても、掃除しても、朝になると増えている。

俺はミナトを知っている。中学の同級生だった。あいつは昔から眠らなかった。授業中も、修学旅行の夜も、母親の葬式でも。

そうだ、あいつの母親は死んだ。

でも、俺の母親は?

最近、そのあたりが曖昧だ。

ミナトは観測所で夜明けを待っていると言う。嘘だ。あいつが待っているのは夜明けじゃない。

ユキだ。

そしてユキは、もういない。

たぶん俺のせいではない。

三 ユキ

私は消えていない。

消えたことにされたのだ。

シロガネ街の人々は、自分にとって邪魔なものを夜に溶かす。約束、罪、愛情、名前。眠らないのはそのためだ。眠れば夢を見る。夢を見れば、捨てたものが戻ってくる。

だから彼らは起き続ける。

私は「睡眠技師」だった。眠れなくなった人に眠りを教える仕事。もっとも、この街では違法に近かった。市庁舎は眠りを病気として扱い、眠った者を「欠落者」と呼んだ。眠った人間は朝を見る。そして朝を見た人間は、街を出ていく。

街を出られた者が本当にいるのか、私は知らない。

ミナトは私の患者だった。彼は眠ることを拒んでいた。理由を訊くと、「眠ると誰かが死ぬ」と答えた。

「誰が?」

「わからない。でも僕が眠らなければ、その人は生きている」

彼の記憶には穴が多かった。母親、同級生、事故、観測所。語るたびに順番が変わる。ある日は母親が死に、ある日は母親などいなかった。ある日はアキラと親友で、ある日はアキラを憎んでいた。

ただ一つだけ、変わらない記憶があった。

市庁舎前の交差点。午前四時十二分。白いコートの女。走ってくるタクシー。誰かの叫び声。

その記憶の中で、私はいつも轢かれる。

でも私は、あの夜、轢かれていない。

私はミナトを止めようとしていたのだ。

彼は観測所の望遠鏡を壊し、東の空に向けて信号を送ろうとしていた。夜明けを呼ぶためではない。夜を固定するために。

「朝が来たら、みんな思い出す」と彼は言った。「思い出したら、きっと耐えられない」

「あなたが耐えられないだけでしょう」

そう言うと、彼は私を見た。初めて会った人を見るような目だった。

「君は誰?」

その瞬間、私は悟った。彼は私を忘れ始めていたのではない。私を作り直していたのだ。自分に都合のいい役として。

恋人。患者。幽霊。事故の被害者。夜明けを告げる女。

私はどれでもあって、どれでもなかった。

タクシーが突っ込んできた。運転していたのはアキラだった。彼はブレーキを踏んだ。間に合った。少なくとも、私はそう思っている。

だが強い光を浴びた瞬間、街のネオンが一斉に消えた。

そして空の端が、ほんの少し白んだ。

そのあと私は、市庁舎の地下で目を覚ました。壁には無数の名前が刻まれていた。眠った者、忘れられた者、街を出ようとした者。

私の名前もそこにあった。

ユキ。

その横に、別の名があった。

ミナト。

四 市庁舎記録係

以下は、シロガネ街夜間維持局に提出された証言の抜粋である。証言者の精神状態、記憶の整合性、時間認識には著しい乱れが見られるため、完全な事実として扱ってはならない。

一、観測員ミナトは、夜明け観測所に単独勤務していた。
二、ユキという職員、または睡眠技師の在籍記録は存在しない。
三、タクシー運転手アキラは、三日前の午前四時十二分、市庁舎前交差点で物損事故を起こしている。被害者は確認されていない。
四、同時刻、市庁舎屋上の観測機器が破損した。
五、その直後、街全域で十三秒間の停電が発生した。
六、停電中、複数の市民が「朝を見た」と証言した。
七、証言者の多くは現在、その発言を否定している。

補足。

地下保管庫の壁面に刻まれた名前については、過去の住民登録簿と一致しないものが多数ある。誰が刻んだのか不明。刻印は新しいものも古いものもあるが、検査結果ではすべて同一時刻に刻まれた可能性が高い。

補足二。

ミナトという観測員の採用記録は存在しない。

補足三。

本記録を作成している私自身の氏名が、地下保管庫の壁面に確認された。したがって、本記録の信頼性も保証できない。

五 ミナト

記録係の報告を読んだ。

馬鹿げている。僕の採用記録がないはずはない。僕は毎晩ここにいる。望遠鏡を覗き、空を見張り、変化なしと書き続けている。

机の引き出しから白いコートのボタンが出てきた。僕はそれを握っている。冷たい。誰のものかはわからない。

アキラが屋上に来た。彼はひどく疲れた顔をしていた。

「お前、ユキを知ってるか」と彼は訊いた。

「知らない」と僕は答えた。

嘘ではない。知らないのだ。ただ、その名前を聞いた瞬間、胸の奥で何かが崩れる音がした。

「俺は轢いたのか?」

「誰を?」

「だから、ユキを」

僕は首を振った。彼は笑った。笑ったあと、泣いた。

そのとき、東の空が明るくなった。

ほんの一筋。ビルとビルの間に、薄い金色の線が走った。ネオンが負けるほどの光ではなかった。けれど確かに、夜ではないものがそこにあった。

アキラは「見えるか」と言った。

僕は答えなかった。

見えなかったからではない。見えたと言えば、すべてが本当になってしまう気がしたからだ。

白いコートの女が屋上の縁に立っていた。

彼女は僕を見て言った。

「もう眠っていいよ」

僕は彼女の名前を知らない。

でも、忘れてはいけない人だと思った。

アキラが僕の肩を掴んだ。「誰と話してる?」

屋上には僕たち二人しかいなかった。

そうかもしれない。

そうでないかもしれない。

僕は記録簿を開いた。最後の行に、まだ何も書かれていない。

午前五時。

僕はペンを持つ。手が震える。

変化なし、と書けば街は続く。朝を確認、と書けば何かが終わる。あるいは始まる。

背後で誰かが欠伸をした。

それはアキラだったかもしれない。ユキだったかもしれない。僕自身だったかもしれない。

眠らない街の住人たちは、その瞬間、いっせいに窓を開けた。看板の光が一つ、また一つと消えていく。どこかで赤ん坊が泣いた。どこかで老人が笑った。誰かが忘れていた名前を呼んだ。

僕は書いた。

午前五時。夜明けを確認。

その文字を見た途端、強烈な眠気が襲ってきた。まぶたが落ちる。床が近づく。アキラが叫ぶ。白いコートが揺れる。

最後に見た空は、たしかに青かった。

けれど今、目を覚ますと、街はいつもの夜の中にある。

記録簿の最後の行には、僕の字でこう書かれている。

午前五時。変化なし。

その下に、僕の知らない筆跡で一言だけ添えられていた。

嘘つき。

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