その本を古書店の片隅で見つけたとき、朔(さく)の足元にある影は、確かに彼の爪先に繋がっていた。
神保町の路地裏、湿った黴と古い紙の匂いが充満する「無明堂」の棚に、その本は背表紙もない状態で挟まれていた。煤けた和紙の表紙に、ただ『影の叛乱』とだけ手書きで記されている。著者の名はなく、造丁もひどく雑だった。
当時、世間では奇妙な噂が流行していた。
「自分の影が、自分とは違う動きをする」
「ある朝目覚めると、影だけが部屋から消えていた」
そんな都市伝説が、SNSのタイムラインを不気味な黒いシミのように浸食していた時期だった。朔は単なる集団ヒステリーの類だろうと冷笑していたが、その本を手にした瞬間、指先に這い上がってきた奇妙な冷たさに、思わず首筋を震わせた。
アパートの自室に戻り、安物のデスクライトを点ける。
白熱電球の光が、朔の背後に長く引き伸ばされた影を落とした。朔はパイプ椅子に深く腰掛け、手に入れた本のページをめくった。
*
――作中の小説『影の叛乱』・第一章――
男の名は礼二(れいじ)といった。
礼二が自分の「影」の異常に気づいたのは、ある梅雨の日の夕暮れだった。
仕事帰りの道すがら、街灯の下を歩いているとき、足元に伸びる黒い輪郭が、一瞬だけ彼より遅れて動いたのだ。礼二が足を止めたにもかかわらず、地面の黒い影は、もう一歩だけ先へ進んでから、慌てて立ち止まったように見えた。
気のせいだ、と礼二は自分に言い聞かせた。疲れが溜まっているのだ。
しかし、異変は日を追うごとに顕著になっていった。
部屋でウイスキーのグラスを持ち上げると、壁の影はワンテンポ遅れて腕を上げた。それだけではない。ある夜、ふと目を覚ますと、枕元の常夜灯が照らす壁面で、自分の影が「座って」こちらを見下ろしていた。
ベッドの上の礼二自身は、間違いなく仰向けに寝ているというのに。
恐怖に凍りつく礼二の目の前で、壁の影はゆっくりと輪郭を立体的に膨らませ始めた。平らな壁に描かれた黒い染みであったはずのそれが、肉厚な立体へと変化していく。ずるり、と濡れた音を立てて、影は壁から「剥がれ落ちた」。
床に降り立った影には、顔がなかった。ただ漆黒の人型の輪郭だけが、物質的な質量を持ってそこに立っていた。
影は声の出ない口を開くようにして、礼二に近づいてきた。そして、机の上に置かれていた一冊の古い和装本を手に取った。
その本の表紙には、『実在の器』と書かれていた。
*
朔は息を呑み、本を持つ手を少し震わせた。
窓の外では、いつの間にか雨が降り始めていた。ガラス窓を叩く雨音が、部屋の静寂をかき乱す。
「よくできた怪奇小説だな……」
朔は呟き、喉の渇きを癒すためにペットボトルの水を飲んだ。
ふと、デスクライトの光が遮られ、手元が暗くなったような気がした。
何気なく壁に目を向ける。
壁に投影された朔の影は、ペットボトルを口に運ぶ動作をしていなかった。
壁の影は――本を、読んでいる。
朔の手はすでに水を飲み終え、ボトルを机に置いたというのに、壁の黒いシルエットは、依然として両手で本を保持し、熱心にページをめくる仕草を続けていた。
心臓がドクンと大きく跳ねた。
朔は慌てて立ち上がった。椅子がガタリと音を立てて後ろに下がる。
しかし、壁の影は立ち上がらなかった。それどころか、影は椅子に座ったまま、ゆっくりと首をこちらに向けた。顔のない、真っ黒な頭部が、確かに朔を「凝視」していた。
朔は恐怖に駆られ、再び手元の本に目を落とした。現実から逃避するように、活字の中に答えを求めた。
*
――作中の小説『影の叛乱』・第二章――
礼二は精神の均衡を失いつつあった。
壁から剥がれ落ちた影は、日ごとに礼二の「特権」を奪っていった。
影は礼二の服をクローゼットから取り出して身に纏い、礼二のペンを使ってノートに文字を書き、礼二のベッドで眠った。影が肉体的な色彩を獲得していくのと反比例するように、礼二自身の身体は透き通り、軽くなっていった。
鏡を見ても、自分の顔が薄い霧のように霞んで見える。
礼二は絶望の中で、影が残していった本『実在の器』を読み耽った。その本には、次のような奇妙な一節があった。
『世界は、二つの領域に分かれている。光が描く肉の領域と、光が遮られた影の領域。だが、どちらが主で、どちらが従かは、観測者の視点によって容易に入れ替わる。影が自己を強固に認識したとき、肉は境界を失い、紙の上のインクへと還元されるだろう。今、この文字を読んでいるお前は、本当に肉体を持つ者か? それとも、肉体を持つ者が読んでいる本の「影」に過ぎないのか?』
礼二は戦慄した。
本に書かれている描写が、あまりにも自分の状況と酷似している。
礼二は本を読み進めた。そこには、狭いアパートの部屋で、白熱電球の光に照らされながら、恐怖に震えて本を読んでいる男の姿が緻密に描かれていた。男の名は「朔」といった。
*
「え……?」
朔は声を漏らした。
今、自分の名前が書かれていなかったか?
紙面を凝視する。確かにそこには『男の名は「朔」といった』と印刷されている。
嫌な汗が全身から噴き出した。
朔は狂ったようにページをめくった。指先が紙の端で擦れ、小さな血の跡が紙面に残る。だが、その赤い血すらも、なぜか急速に黒いインクへと変色していくように見えた。
*
――作中の小説『影の叛乱』・第三章――
朔は恐怖に駆られ、本をめくる手を止められなかった。
部屋の壁に目を向けると、そこには座ったまま本を読んでいる影があるだけだった。いや、違う。影が朔の身体を侵食しているのではない。
本を読んでいる朔自身が、次第に平板な、ただの「文字の羅列」へと変化しつつあったのだ。
朔は叫ぼうとしたが、声が出なかった。喉の奥から這い出てきたのは、かすれた紙の擦れる音だけだった。自分の皮膚を見つめると、そこには細かな活字がびっしりと印刷されていた。
「私は、朔だ。私はここにいる」
そう主張する朔の思考さえも、今やこの『影の叛乱』という本のインクによって規定されている。
一方で、机の傍らに立っていた「礼二」の影は、すでに完全な肉体を獲得していた。礼二は自らの皮膚を触り、その温かさに満足げな笑みを浮かべた。
礼二は、机の上に転がっている『影の叛乱』という本を閉じた。
そして、壁に向かって歩き、そこに新しく投影された、本を読みながら絶望に震えている「朔の影」を冷ややかに見下ろした。
*
朔は、本を落とした。
床に落ちた和装本は、パサリと乾いた音を立てて開いたまま静止した。
朔は自分の手を見た。
白い。あまりにも白い。そして、輪郭が酷くぼやけている。
部屋のデスクライトは点いているはずなのに、手元に全く熱を感じない。
ふと見上げると、机の前に、一人の男が立っていた。
その男の顔は、朔自身のものに酷似していた。いや、少しだけ違う。その男の顔は、かつて朔が鏡で見ていた自分よりも、はるかに生き生きとしており、血色が良かった。
男は、朔を見下ろしていた。
朔は、自分が床にへばりついていることに気づいた。立ち上がろうとしても、身体が上方向へのベクトルを拒否する。床と、壁と、家具の表面にしか、自分の存在を広げることができない。
自分は、平面的だった。
「ご苦労様」
男が、声帯を震わせて明瞭な声で言った。その声は、朔の部屋に心地よく響いた。
「素晴らしい物語だったよ。君が私を読み、私が君を読んだ。そして、より強く『生』を望んだ方が、この光の世界を手に入れた」
男――かつて礼二と呼ばれ、あるいは朔の影であった存在――は、床に落ちていた『影の叛乱』を拾い上げた。
朔は、男の足元に必死に手を伸ばした。しかし、朔の腕は、男の靴底に踏みつけられるだけの、ただの「黒い影」に過ぎなかった。痛覚すらなかった。ただ、踏まれた部分の光が遮られるだけだった。
男は本を閉じ、小脇に抱えた。
「さて、この本を元の古書店に返してこよう。次の『読者』が待っているかもしれないからね」
男が部屋の電気を消した。
瞬間、世界は完全な闇に包まれた。
光が消えた世界で、影である朔は、自分がどこまで存在しているのか、あるいは最初から存在していなかったのか、その境界すらも失って、深い黒の中に溶けていった。
後に残されたのは、ただ静かに雨に濡れるアスファルトと、再び神保町の棚の隙間に滑り込ませるのを待つ、一冊の古い和装本だけだった。
その本の最後のページには、手書きの細い文字で、こう書き加えられていた。
『これを読んでいるあなたの影は、今、本当にあなたの足元にありますか?』