記憶彫刻師の店は、街の裏通りにある古い石造りの建物だった。看板には何も書かれていない。ただ、黒い扉に小さなプレートが一つ、銀色の文字で「彫刻のみ」と刻まれているだけだ。
三十四歳の男、岸田怜司は、その扉を三度叩いた。内側から静かな足音が近づき、扉が開く。出てきたのは瘦せた老人が一人。白いエプロンを着て、手には細い鑿を持っていた。
「忘れたい記憶は?」
老人の声は乾いていた。怜司は小さな革の袋を差し出した。中には、指輪と、写真一枚が入っていた。写真には、笑う女性と、怜司が並んで写っていた。女性の名前は、すでに怜司の口から出てこない。
「この女性との、三年間全部を」
老人は写真を指で撫で、頷いた。
「全部、削ります。形は残ります。あなたの中からは、消えます」
料金は、記憶の大きさによって決まる。怜司は銀行口座から、退職金の大半を振り込んだ。
施術は地下の工房で行われた。怜司は椅子に座り、老人が額に冷たい金属の輪を当てる。意識が遠のく直前、老人は囁いた。
「痛みはありません。代わりに、穴が残ります」
怜司が目を覚ましたのは、夜の十二時だった。工房の壁に、大きな彫刻が置かれていた。それは、透明な大理石でできた女性の胸像だった。内部に、指輪と写真が封じ込められているように見える。胸像の顔は、怜司が最後に見た女性の笑顔そのものだった。
しかし怜司は、その顔に何の感情も抱かなかった。ただ、胸の奥に小さな空洞があるような気がした。
「これで終わりです」
老人は彫刻を布で覆い、怜司を外に送り出した。
三週間後、怜司は美術館の特別展示室でその胸像を見た。展示タイトルは「欠落の肖像」。来場者は皆、胸像の前で立ち止まり、ため息をついていた。
怜司も立ち止まった。胸像の女性は、確かに美しい。けれど、怜司はなぜ自分がここにいるのか、なぜこの彫刻が気になるのか、説明できなかった。ただ、胸の空洞が、わずかに疼く気がした。
隣にいた若い女性が、怜司に話しかけてきた。
「この彫刻、すごいですよね。作者は、記憶を本当に削り取ったって……」
怜司は無言で頷いた。女性はさらに続けた。
「削られた人は、その記憶がなくなっちゃうんですよね。……羨ましい、ときどき思うんです。忘れられたら、楽なのに」
怜司は、初めてその女性の顔を見た。彼女の目には、怜司にはない何かが宿っていた。怜司は、静かに口を開いた。
「本当に、なくなったのかな」
女性は首を傾げた。怜司はそれ以上を語らず、胸像の前を離れた。背後で、女性が小さく息を呑む音がした。
その夜、怜司はアパートのベランダで空を見上げた。星はなかった。代わりに、胸の奥で、何かが欠けている感覚だけが、確かに残っていた。
彼は、初めて自分の胸に触れた。そこには、確かに何もない。けれど、彫刻師が残した「穴」は、静かに、しかし確実に、怜司の人生を形作り続けていた。
彫刻は、今もどこかの美術館で展示されている。誰かがそれを買い、誰かがそれを眺め、誰かがそれを欲しがる。記憶は、失われた者の手から離れ、形だけの美しさとなって、世界を漂っている。
怜司は、毎週木曜日にその美術館へ通うようになった。理由は、説明できない。ただ、胸の空洞が、少しだけ埋まる気がするからだ。
それでも、女性の名前は、決して思い出せない。