一
最初に異常を感じたのは、満員電車の中だった。
田所健司は吊り革につかまりながら、隣に立つ女性が小さくつぶやいた言葉に眉をひそめた。
「Tā de xī fú zhēn nán kàn.」
中国語だった。田所は語学が得意なわけではないが、なぜかその意味が頭の中で勝手に翻訳された。
——この人のスーツ、本当にダサい。
田所は反射的に自分のスーツを見下ろした。三年前に買った、確かに少しくたびれた紺色の上着。だが彼女の唇は動いていなかった。イヤホンをつけて、ただ前を見つめているだけだった。
聞き間違いだろう、と思った。
だが、それは始まりにすぎなかった。
会社に着くと、上司の声が聞こえた。
「Bonjour… ce type est encore en retard dans son rapport.」
フランス語。——こいつ、また報告書が遅れてるな。
口では「おはよう、田所くん」と日本語で言いながら、別の声が——もっと深い、奥底から響くような声が——別の言語で流れ込んでくる。
昼までに、田所は確信した。自分には、人々の「本音」が聞こえる。しかもそれは、必ず外国語として響くのだ。
二
「面白い症例ですね」
その夜、田所が訪ねたのは大学時代の友人、矢島だった。矢島は今、小さな会社で音声認識と翻訳のソフトウェアを開発しているプログラマーだった。
田所が事情を話すと、矢島はモニターから顔を上げ、奇妙な笑みを浮かべた。
「いや、面白いってのは語弊があるな。すまない」
「お前なら何か分かるかと思って」田所は冷めたコーヒーを見つめた。「俺、頭がおかしくなったのかもしれない」
矢島はしばらく黙ってから、口を開いた。
「健司。実は、お前に謝らなきゃいけないことがある」
「謝る?」
「三ヶ月前、お前が風邪で寝込んでたとき、見舞いに行っただろう。あのとき、お前のスマホに、俺が開発中のアプリをインストールした」
田所は記憶をたどった。確かに矢島は来た。熱でぼんやりしていたが。
「テスト版でね。『本音翻訳機』っていうんだ。脳波と環境音を解析して、相手の無意識下の言語野を……いや、説明すると長くなる。要は、人間が言葉にする前の、思考そのものを拾うんだ」
「思考を、拾う?」
「ああ。でも、それをそのまま日本語にすると——危険なんだよ。あまりに生々しすぎて、聞いた人間が耐えられない。だから、わざと『外国語』に変換するフィルターをかけた。意味は分かるけど、ワンクッション置ける。緩衝材だ」
田所は呆然とした。
「お前、勝手に俺の脳を……」
「すまない。でも、お前なら大丈夫だと思った。お前は昔から、人の気持ちに鈍感だっただろう。だから、ちょうどいいテスターになると」
矢島の口は日本語を話していた。だが田所の耳には、別の声が重なって聞こえた。
「Es tut mir leid. Aber ich brauche dich.」
ドイツ語。——すまない。だが、お前が必要なんだ。
その奥に、もっと冷たい何かが沈んでいるのを、田所は感じた。
三
それからの日々は、地獄だった。
人と会うたびに、本音が流れ込んでくる。
恋人の美咲は、笑顔で「健司といると安心する」と言いながら、心の奥でこうつぶやいていた。
「Pero ya no sé si lo amo.」——でも、もう愛しているのか分からない。
母は電話口で「元気にしてるの」と聞きながら、——あの子は父さんに似て、結局逃げてばかり。
同僚たちは、上司は、すれ違う見知らぬ人々さえも、口にする言葉とまったく違う声を、田所の中に注ぎ込んでいった。
世界が、二重の言語で満ちていた。
田所は次第に、人と目を合わせられなくなった。誰かが何かを言うたびに、その裏側を聞いてしまう。表の言葉は、もはや薄っぺらい飾りにすぎなかった。
ある夜、田所は矢島に電話をかけた。
「止めてくれ。元に戻してくれ。耐えられない」
矢島は少し間を置いてから言った。
「アンインストールはできない。もう、お前の脳がフィルターを学習してしまった。ソフトを消しても、お前の脳が勝手に翻訳する」
「そんな……」
「健司。一つ、教えてくれないか」矢島の声が、わずかに緊張した。「俺の本音は、何語で聞こえる?」
田所はあのときのドイツ語を思い出した。
「ドイツ語だ」
電話の向こうで、矢島が息を呑む音がした。
「……そうか」
「それがどうした」
「いや」矢島の声は急によそよそしくなった。「人によって、聞こえる言語が違うんだろう? その人の、思考の構造に合わせて選ばれる。お前にとって俺の本音が『遠い言語』だってことだ。お前は俺を、本当は理解できないと思ってる」
電話は切れた。
田所はしばらく、暗い天井を見つめていた。
四
田所は気づき始めていた。
聞こえる言語には、意味があった。
親しいはずの人ほど、遠い言語で聞こえる。美咲のスペイン語、母の——あれはイタリア語だった。心の距離が、言語の距離として現れる。本当に心が通じている相手の本音は、日本語に近い言語で聞こえるのだ。
そして田所は、ある恐ろしいことに思い至った。
これまで、誰の本音も「日本語」で聞こえたことがない。
つまり——田所は、誰とも心が通じていない。彼の世界には、彼を本当に理解している人間が、一人もいない。
その事実は、本音そのものよりも田所を打ちのめした。
彼は鏡の前に立った。試しに、自分自身に向かって心の中で問いかけた。お前は何を考えている。
鏡の中の自分の唇は動かない。だが、田所の頭の中に、声が響いた。
「I want to disappear.」——消えてしまいたい。
英語だった。自分の本音は、英語で聞こえる。母語ではない言葉で。
田所は理解した。自分は、自分自身からさえ、遠く隔たっているのだ。
五
田所は矢島の会社を訪ねた。アポイントもなく。
受付の女性が「お約束は」と尋ねながら、——また変な客が来た、と心でつぶやくのを聞き流して、田所は奥へ進んだ。
矢島は一人、薄暗い部屋でモニターに向かっていた。田所の足音に振り返る。
「健司。来ると思ってた」
田所は矢島の目を見た。そして、待った。矢島の本音が聞こえてくるのを。
だが——聞こえてきたのは、ドイツ語ではなかった。
「ごめん。本当に、ごめん」
それは、日本語だった。生まれて初めて、田所の中に流れ込んできた、母語の本音。
矢島の唇は、何も発していなかった。ただ、田所を見つめていた。その目に、涙が滲んでいた。
「お前のこと、テスターにして実験台にして……ずっと罪悪感に潰れそうだった。でも、お前に会いたかった。お前だけが、俺の本音を聞いてくれると思った。誰にも言えなかった俺の——」
声は、続いていた。日本語のまま。
「俺は、ずっと孤独だった。お前と同じくらい。だから、こんなアプリを作った。誰かと、本当につながりたくて。でも、つながり方を、間違えた」
田所は気づいた。
最初にドイツ語で聞こえたのは、矢島が田所に対して壁を作っていたからだ。罪悪感と恐れで、本心を隠していたから。だが今、その壁が崩れた瞬間、二人の心の距離が——ゼロになった。
母語で聞こえるということは、完全に理解し合えるということ。
田所は、自分の頬を涙が伝うのを感じた。
「矢島」
田所は口を開いた。だが、もう言葉はいらなかった。
田所は、自分の心の中で、矢島に向かってつぶやいた。その声が、矢島には聞こえないことを知りながら。
「許すよ」
そして、不思議なことに——矢島が、はっと顔を上げた。
「今、何か……聞こえた気がした」
田所は微笑んだ。
アプリは、双方向だったのかもしれない。あるいは、本当に心が通じ合ったとき、人は機械など必要としないのかもしれない。
二人は、しばらく何も言わずに向かい合っていた。
部屋には、もう翻訳の必要な言葉は、一つもなかった。
六
その後、田所の「能力」は、少しずつ変化していった。
人々の本音は、相変わらず外国語で聞こえる。だが田所は、それを呪いではなく、地図として使うようになった。遠い言語で聞こえる人とは、ゆっくり距離を縮める。近い言語の人とは、大切に向き合う。
そして時折——ごく稀に——誰かの本音が、日本語で聞こえる瞬間がある。
その瞬間こそが、田所にとって、生きている意味になった。
矢島はアプリの開発を中止し、すべてのデータを破棄した。
「俺たちには、もう必要ないからな」
二人で安い居酒屋で飲んだ夜、矢島はそう言って笑った。
その笑顔の裏側で、田所には、はっきりと日本語が聞こえていた。
「ありがとう。友達でいてくれて」
田所は何も言わず、ただ、ビールのジョッキを軽く合わせた。
カチン、という音が、どんな翻訳よりも雄弁に、二人の間を満たしていた。
— 了 —