記憶は、湿った石の匂いがする。
そう教えてくれたのは、師匠だった。まだ私が十一歳で、初めて他人の記憶を指先に触れた日のことだ。
椅子に座らされた男は、目隠しをされていた。額には銀の輪、こめかみには細い針。輪の内側で淡い光が揺れ、男の頭の上に、乳白色の塊がゆっくりと浮かび上がっていた。拳ほどの大きさの、不格好な石。表面には無数の筋が走り、内側からかすかに色が滲んでいる。
「触ってみろ」
師匠は私の手首を取った。
私は恐る恐る、その塊に指を伸ばした。冷たいと思っていたのに、温かかった。夏の夕暮れに干した布団のような温度だった。けれど匂いは石だった。雨上がりの墓石、古い井戸、崩れかけた城壁。
「これは?」
「この男の、母親の記憶だ」
男は目隠しの下で震えていた。
「売るんですか」
「売ったんだ。もう代金は受け取っている」
師匠はそう言うと、黒曜石の鑿を取り上げた。
記憶は彫刻にしなければ保存できない。取り出しただけでは、すぐに空気へ溶けてしまう。だから彫る。余分なものを削り、形を見つけ、記憶の芯を露わにする。
ただし、削り出された記憶は本人の中から消える。
欠片も残らない。夢にも、匂いにも、名前にも。
師匠が鑿を入れると、乳白色の塊から薄い膜が剥がれた。男が低く呻いた。塊の奥に、桃色の光が灯った。丸い背中。割烹着の紐。湯気の立つ味噌汁。庭先の南天。
私は息を呑んだ。
師匠の手は迷わなかった。石の中から、一人の女が現れた。小さく笑っている。こちらを見ているようで、誰か別の人を見ている。掌に椀を持ち、口元だけで「熱いよ」と言っている。
完成した彫刻は、手のひらに乗るほどの母親だった。
男から目隠しが外された。
「終わりましたよ」
師匠が告げると、男は何度も頷いた。彫刻を見ても、何も言わなかった。
「これは誰ですか」
私が思わず尋ねると、男は困ったように笑った。
「さあ。よくできた人形ですね」
その日から私は、彫刻師になることを恐れた。
それでも、なった。
*
王都の中央に、空洞美術館がある。
外壁は白い大理石で、昼は骨のように、夜は月のように光る。中には数えきれないほどの記憶彫刻が並んでいる。初恋、勝利、処刑、出産、裏切り、食卓、火事、雨の日の別れ。名もない市民の小さな幸福から、王族の醜聞まで、すべてが鑑賞料と競売番号を持って眠っている。
私はそこの専属彫刻師だった。
依頼人は毎日来た。借金を返すために幼年期を売る者。恋を忘れたくて相手の笑顔を差し出す者。政治家の秘密を買い取り、展示前に隠匿する貴族。戦争で息子を亡くした父親から、息子の最後の声を買う富豪。
記憶は高く売れた。美しく、痛ましく、二度と戻らないものほど高く。
私は彫った。彫って、彫って、彫った。
私の鑿はよく切れた。師匠譲りの黒曜石で、刃先は光を吸い込むように黒かった。記憶の中に眠る輪郭を見つけるのが、私は誰よりも早かった。
「あなたは残酷なほど上手い」
館長はよくそう言った。
「褒め言葉ですか」
「もちろん。彫刻師に優しさはいらない。ためらいは記憶を濁らせる」
館長は、いつも白い手袋をしていた。何にも直接触れない人だった。記憶にも、人にも。
ある冬の朝、私の作業室に少女が連れてこられた。
十六歳ほどだった。灰色の外套を着て、痩せた手を膝に置いている。髪は短く切られ、首筋に火傷の跡があった。付き添いの男は、彼女の叔父だと名乗った。
「この子の記憶を買い取ってほしい」
男は懐から契約書を出した。
「どの記憶ですか」
「火事の夜だ。両親が死んだ夜。本人も忘れたがっている」
少女は俯いたまま、何も言わなかった。
私は契約書に目を通した。署名は少女本人のものだった。震えた字で、リナ、と書かれている。
「本当にいいの」
私が尋ねると、少女は小さく頷いた。
「覚えていても、何にもならないから」
「忘れたら、何かになる?」
少女はそこで初めて顔を上げた。
目が澄んでいた。悲しみで濁った目ではなかった。むしろ、泣くことを許されなかった人間の目だった。
「眠れるようになると思います」
私はそれ以上聞かなかった。
銀の輪を額に載せ、針をこめかみに当てる。装置が低い音を立てる。やがて少女の頭上に、黒ずんだ記憶の塊が浮かんだ。普通の記憶より重い。表面が煤け、ところどころ赤く脈打っている。
鑿を構えた瞬間、熱が指先に走った。
火事の記憶は厄介だ。炎は形を嫌う。削ろうとすると逃げ、逃げた先で別の光景を焼く。私は呼吸を整え、外側の煤を落とした。
ぱらぱらと、黒い粉が机に積もる。
中から現れたのは、燃える家だった。梁が落ちる。窓が割れる。煙が廊下を這う。少女の小さな手が、戸口の柱を掴んでいる。奥で母親が叫んでいる。
私は鑿を止めた。
記憶の奥に、不自然な影があった。
炎に紛れた、人の形。大人の男。背中。右手に油壺。戸口の外で振り返る顔。
付き添いの叔父と同じ顔だった。
私はゆっくりと顔を上げた。
男は微笑んでいた。
「何か?」
少女は目を閉じている。装置の中で、過去を抜き取られながら、細かく震えている。
「この記憶を、誰が買うのですか」
「私だ」
「展示ではなく?」
「個人所蔵だ。契約書にもそうある」
私は再び記憶に目を戻した。
火事の夜。両親の死。少女が唯一知っている真実。彼女の中に残された、叔父を罪人にするためのただ一つの証拠。
それを彫れば、彼女は忘れる。
叔父はその彫刻を買い取り、砕くか、隠すか、眺めて楽しむかするだろう。世界から真実は消える。燃えた家と同じように。
「早くしてくれ」
男が言った。
「この子は苦しんでいる」
その言葉が、作業室の白い壁に薄く貼りついた。
私は鑿を握り直した。
彫刻師に優しさはいらない。ためらいは記憶を濁らせる。師匠の声と、館長の声が重なった。
けれど私の指は動かなかった。
記憶の塊の中で、幼いリナが叫んでいる。母親が何かを投げる。油壺が割れる。叔父が外から閂を下ろす。炎が扉を舐める。父親が斧で戸を叩く。
私はそのすべてを、彫刻として残すことができる。
同時に、彼女から奪うこともできる。
「リナ」
私は小さく呼んだ。
少女の睫毛が震えた。
「あなたは、本当にこの夜を忘れたい?」
付き添いの男が椅子を蹴った。
「施術中に話しかけるな!」
私は装置を止めなかった。止めれば記憶は崩れる。すでに半分取り出された記憶は、空気に触れすぎている。
少女は苦しげに息を吸った。
「忘れたい」
涙がこめかみを伝い、銀の輪に触れて光った。
「でも……」
私は待った。
「お母さんの声まで、消えますか」
「消える」
「お父さんが、私を窓から出してくれたことも」
「消える」
「誰が火をつけたかも」
男が叫んだ。
「黙れ!」
少女は目を開けた。まっすぐに、叔父を見た。
「やっぱり」
その一言は、記憶より鋭かった。
男が私に掴みかかろうとした瞬間、作業室の扉が開いた。館長が立っていた。白い手袋の指先で、警備員を制している。
「騒がしいですね」
「この彫刻師が契約を妨害している!」
男は唾を飛ばした。
館長は契約書を拾い上げ、さらりと読んだ。
「契約は有効です。代金も支払われています。彫刻師、続けなさい」
「これは証拠です」
「記憶は法廷証拠になりません。所有権の対象です」
「彼女は騙されている」
「騙された記憶にも値段はつきます」
館長は私を見た。
「あなたの仕事は、形にすることです」
その通りだった。
だから私は、形にした。
私は鑿を深く入れた。記憶の外殻を削り、炎を捻じ伏せ、煙を薄衣のように刻んだ。幼いリナの目を彫った。母親の開いた口を彫った。父親の血の滲む手を彫った。閂を下ろす叔父の指を彫った。油壺に映る火を彫った。
今までで最も速く、最も正確に。
そして最後に、記憶の芯から叔父の顔を削り出した。
完成した彫刻は、燃える小さな家だった。炎は透明な朱色で、煙は黒い硝子のように天井へ伸びている。割れた窓の向こうに、子どもの顔。戸口の外に、油壺を持つ男。恐怖と安堵が同居した、醜い表情。
作業室が静まり返った。
少女の頭上から記憶の塊が消えた。銀の輪が光を失う。
リナはぼんやりと瞬きをした。
「ここは……」
彼女の声には、もう火の粉がなかった。
私は彫刻を両手で持ち上げた。
叔父が手を伸ばす。
「渡せ。それは私のものだ」
「はい」
私は頷いた。
そして、その場で彫刻を床に叩きつけた。
記憶は砕けなかった。
本物の記憶彫刻は、普通の石より硬い。床のほうが割れた。白い大理石に蜘蛛の巣状の亀裂が走り、彫刻は澄んだ音を立てて跳ねた。
私は黒曜石の鑿を逆手に持ち、炎の彫刻の底へ自分の血を塗った。
記憶彫刻には、もう一つの性質がある。
完成直後、作者の血で封じられた彫刻は、所有者ではなく、最初にそれを見たすべての者の記憶に焼きつく。消えない。売れない。削れない。複製もできない。ただ、見た者の中に残る。
禁じられた技法だった。
師匠が、酒に酔った夜に一度だけ教えてくれた。
館長の顔色が変わった。
「やめなさい」
遅かった。
作業室の窓は、美術館の中央展示室に面している。その日は冬季競売の内覧日で、下の広間には貴族、商人、記者、役人が集まっていた。
私は窓を開け、彫刻を掲げた。
朱色の炎が、冬の光を受けて燃えた。
広間からどよめきが上がる。
何十人もの目が、油壺を持つ男の顔を見た。閂を下ろす指を見た。燃える家を見た。窓辺の子どもを見た。
リナは椅子の上で首を傾げていた。
「きれい」
彼女はそう言った。
それは残酷なほど無垢な声だった。
*
私は彫刻師の資格を剥奪された。
館長は私を訴え、叔父は逮捕され、その後、獄中で自分の記憶を売ろうとして拒否された。火事の記憶は多くの人々の中に焼きつき、誰もそれを忘れられなくなった。彼がどれだけ否認しても、王都中の人間が同じ光景を語った。
法は変わらなかった。
記憶は依然として商品だった。貧しい者は大切な朝を売り、富める者は他人の悲しみを蒐集した。美術館は一時閉鎖されたが、半年後には再開した。館長は更迭され、新しい館長が同じ白い手袋をつけた。
私だけが、記憶に触れることを禁じられた。
黒曜石の鑿は没収され、右手の親指には銀の焼印を押された。彫刻師であった証ではない。彫刻師であってはならない証だ。
それから私は、町外れで小さな修復屋を始めた。
割れた茶碗、欠けた人形、錆びた燭台。忘れても構わないような物ばかりが持ち込まれる。けれど人々はそれを捨てられず、私の店に置いていく。
ある春の日、リナが訪ねてきた。
彼女は以前より少し背が伸び、首筋の火傷跡を隠さずにいた。手には、小さな木箱を持っている。
「あなたを覚えていません」
開口一番、彼女は言った。
「そうでしょうね」
「でも、あなたが私から何かを奪って、何かを残した人だと聞きました」
私は返事に迷った。
彼女は木箱を開けた。中には、焦げた扉の金具が入っていた。
「実家の跡から見つかったそうです。これを直せますか」
「直して、どうするの」
「持っていたいんです」
「何の金具か、覚えていないのに?」
リナは微笑んだ。
「覚えていないからです」
私は金具を受け取った。黒く歪み、片側が溶けている。直せるようなものではなかった。
「これは、元には戻らない」
「はい」
「磨くことならできる。錆を落として、形が残る程度に」
「お願いします」
彼女は店の隅に並ぶ修復品を眺めた。
「記憶って、全部あったほうがいいんでしょうか」
私は金具を布の上に置いた。
「わからない」
「私は、夜に眠れるようになりました。火を見ると少し怖いけど、理由は知りません。両親の顔も、声も、最後のことも、何も覚えていません」
彼女は窓の外を見た。
「でも、誰かが私の代わりに覚えているんですよね」
「大勢が」
「それは私の記憶ですか」
答えられなかった。
記憶は誰のものなのだろう。
体の中にある間は、その人のものだ。取り出され、彫られ、展示され、買われた途端に、値札のものになる。見た者の心に焼きつけば、今度は群衆のものになる。
では、忘れた本人には何が残るのか。
空洞だけか。
リナは自分の胸に手を当てた。
「ここに穴がある気がします。でも、穴があるから風が通るんです。たぶん、私はその風で息をしている」
私は、彼女を見た。
記憶を失った人間は空っぽになるのだと思っていた。けれど空洞にも形がある。失ったものの輪郭が、見えない彫刻のように残ることがある。
「金具は、一週間後に」
「ありがとうございます」
彼女は頭を下げて、店を出ていった。
扉の鈴が鳴る。春の光が床に伸びる。
私は作業台に向かい、焦げた金具を布で拭いた。黒い煤が少しずつ落ち、下から鈍い銅色が現れた。
記憶は湿った石の匂いがする。
けれど、忘却は風の匂いがするのかもしれない。
私はもう、他人の記憶を彫れない。
それでも欠けたものを見つめ、その輪郭をなぞることはできる。失われたものを元に戻すのではなく、失われたまま、持てる形に整えることはできる。
窓辺に置いた空の棚に、春風が入り込んだ。
そこには何も飾られていなかった。
けれど私は、その何もなさが、長い時間をかけて削り出された彫刻のように見えた。