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 古書店の奥に眠っていた錆びた郵便箱を、七瀬雪は雨上がりの午後に見つけた。木目の隙間に緑青が澱み、裏蓋には「1909」とだけ刻まれている。不燃ごみ行きの運命を変えたのは、投函口からこぼれ落ちた一通の封筒だった。
 宛名──「七瀬雪 様」。差出人印は「東京市本郷区 白銀廉」。消印は明治四十二年六月。
 自身の名が百年以上前に書かれているという事実が、雨の匂いと混じって胸を震わせた。


一通目

「拝啓 時空の向こうの雪様
 あなたがこの手紙を受け取る頃、空はどんな色でしょう。私は今、蝉の声より速く心臓が鳴っています。あなたに届くかどうかも判らぬまま、この古びた箱に想いを託します。もし返事を頂戴できるなら、再び蓋を閉じてください。
 明治四十二年六月十五日 白銀廉」

 あり得ない、と理性は告げた。だが感情は、不可思議が孕む予感の甘さに抵抗できない。雪は筆ペンを取り、震える手で返事を書いた。


二通目

「廉様
 こちらは令和六年。雨雲はガラス張りの高層を鏡にして虹を映します。あなたの時代と私の時代をつなぐのは、この錆びた箱だけなのでしょうか。再び蝉が鳴く頃、箱を開けます。
 令和六年六月十五日 七瀬雪」

 翌日、本棚を動かして箱を元の場所に戻すと、夕立が店の庇を叩いた。閉店後、恐る恐る蓋を開くと、そこには新しい便箋が挟まっていた。


封書の往還

 手紙は雨季のリズムで往復し、雪は古書を棚差しする合間に、廉の綴る息遣いを読む。
・万国博覧会の電気自動車に心を奪われた話
・寺町の珈琲店で初めて砂糖を入れた瞬間の驚き
・三丁目の本屋で漱石の新刊を立ち読みし、番頭に睨まれた顛末

 活字の向こうで笑う青年が、百年の距離を縮めていく。雪もまた、コンビニの朝食や動画配信のコメディ、地下鉄の満員地獄を描写した。廉は「未来の籠詰めは人も車両も混み合うのですね」と返し、達筆の楷書に小さな茶目っ気を滲ませた。


避けられぬ岐路

 四カ月目、廉の手紙には焦燥が滲んでいた。

「来年大震災が来るという学友の噂を耳にしました。雪様、あなたの時代の書物に、その是非は載っていますか」

 雪は震えた。彼が生きるのは関東大震災の十四年前。しかし彼が本郷にいる頃、別の大惨事──1910年の「桜田川堤防決壊」で学生寮が流された事実を、彼女は検索で知る。未来からの警告を送ることで歴史を変えてよいのか。逡巡の末、雪はインクを置いた。

「廉様
 あなたの学寮がある川沿いは、来年の大雨で危険に晒されます。どうか信じて、避難してください」

 封を閉じると、雨が再び店の硝子を濡らしていた。


残響

 三日、四日と箱は沈黙した。五日目、ようやく届いた封筒は、薄い血痕で染まっていた。

「雪様
 避難の折、友を救おうとして怪我を負いましたが、命に別状はありません。あなたの言葉がなければ私も友も川に呑まれていたでしょう。恩を返す手立ては未来に残します。どうか、あなたもまた無事でいてください」

 雪は泣きながら便箋を畳み、額に当てた。歴史はわずかに歪み、しかし世界は崩れなかった。時間は手紙という細い管を通り、静かに修復された。


贈与

 冬、廉から小包が届いた。封蝋を割ると、真鍮と象牙で組まれた万年筆が現れた。軸には極小の歯車が嵌め込まれ、キャップを回すと微かな蒸気が漏れ、懐中時計のように時を刻む音がした。
 添え状が挟まっている。

「これは私の卒業研究『時間共振機構(Chrono-Resonator)』の試作品です。インクを込めた瞬間、最も強く想う人の時間に波長を合わせる、と仮定しています。もし私がそちらへ行けなくとも、筆跡があなたの時に直接刻まれるかもしれない」

 雪はインク壺にペン先を沈め、白紙に文字を走らせた。すると、乾くより速く紙面が淡く光り、行間が揺らいだ。驚きで手を離した瞬間、万年筆が霧散し、紙だけが残った。そこには雪の筆致とは異なる、見覚えのある楷書が刻まれていた。

「雪様へ
 私は無事、遠い未来の朝を歩いております。東京駅の赤煉瓦は修復が終わり、あなたの世代の人々が写真を撮っています。時が繋がった証として、この紙をあなたに託します。駅前の銀杏が色づいたら、ぜひ来てください。
 大正九年十月十五日 白銀廉」


銀杏の約束

 十一月、雪は古書店を休み、東京駅へ向かった。丸の内口の銀杏並木は黄金に染まり、風が吹くたび旋回する葉が、時間の粒子のように舞った。
 彼女は駅舎を見上げ、濃い翡翠色の空に目を細める。足元には一枚の便箋が転がっていた。拾い上げると、百年前と変わらぬ廉の筆跡が揺れている。

「雪様
 一歩遅れましたが、翠雨は必ず再び降ります。その時、あなたと相対する未来を信じています。
 白銀廉」

 雪はポケットから自分の万年筆──廉の技術で作られたもう一本──を取り出し、便箋の余白に書いた。

「廉様
 私はここにいます。雨がやむまで、何度でも手紙を書き続けます。
 七瀬雪」

 空が泣き始めた。柔らかい翠の雨粒が、百年の時差をひとつずつ埋めるように、銀杏の葉を濡らしていった。

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