あなたが最初に思い出すのは、雨の匂いだ。
濡れたアスファルト。酸化した鉄。路地裏の排水溝から立ちのぼる、古い街の息。
だが、それはあなたの記憶ではない。
あなたはそれを知っている。
知っているはずなのに、胸の奥が痛む。
この雨の夜、あなたは誰かを待っていた。
いや、待っていたのはあなたではない。
あなたの脳に移植された、死者の記憶だ。
二〇四九年、東京湾岸区。
人間の記憶は、死後六時間以内であれば抽出できるようになっていた。正式名称は「残留神経記録再構築技術」。俗に、メモリ・グラフト。事故や病で記憶を失った者に、近親者や本人のバックアップ記憶を移植するために始まった技術だった。
だが、どんな技術も、いずれ犯罪と捜査に使われる。
あなたはその境界線に立つ探偵だった。
名前は、御影ユウ。
少なくとも、あなたの身分証にはそう書かれている。
脳の右側頭葉に埋め込まれたインプラントが、かすかな熱を持っていた。移植されたばかりの記憶データが、あなた自身の神経回路に馴染もうとしている証拠だ。
今回、あなたに移植された記憶の持ち主は、雨宮澪。二十九歳。記憶再構築企業「レムナント・ラボ」の主任技師。
三日前、彼女は自宅マンションの浴室で死亡していた。死因は頸動脈切断による失血死。現場は密室。凶器は見つからず、監視カメラには誰も映っていない。
警察は自殺と見ていた。
だが、彼女の父親があなたに依頼した。
「娘は自殺なんてしない。あの子は、怖がっていたんです」
そう言って渡されたのが、澪の死後四時間で抽出された記憶データだった。
あなたはそれを受け入れた。
受け入れた瞬間、あなたの中に雨宮澪が生まれた。
最初は断片だった。
白い研究室。
ガラス越しに見える無数の脳波パターン。
薄いコーヒーの味。
誰かの低い声。
「澪、君は見てはいけないものを見た」
その声を聞くたび、あなたの指先が冷たくなる。
あなたは自分の事務所で目を開ける。
窓の外にはホログラム広告が浮かんでいた。記憶修復、感情調整、人格補助。街はもう、人間の内側まで商売にしている。
机の上には三つの資料がある。
雨宮澪の死亡記録。
レムナント・ラボの社員名簿。
そして、澪が死ぬ前日に暗号化して送った一通のメッセージ。
宛先は、あなた。
送信日時は、彼女が死ぬ十二時間前。
あなたはその文章を何度も読み返す。
「御影ユウに依頼して。彼だけは、自分が誰かを知らない」
あなたは、息を止める。
自分が誰かを知らない。
そんなはずはない、とあなたは思う。
あなたは探偵だ。
五年前、事故で一部の記憶を失った。
それから街の片隅で事務所を開き、失踪者や企業犯罪を追ってきた。
好きな酒は苦いジン。眠る前には必ず窓の鍵を確認する。左手首には、事故のときについた傷がある。
それがあなたの人生だ。
そう思いたい。
だが、澪の記憶が囁く。
違う。
あなたは、その夜、レムナント・ラボへ向かう。
受付を通ると、顔認証ゲートが一瞬だけ赤く点滅した。警備員が不審そうにこちらを見る。あなたは探偵許可証を見せ、雨宮澪の調査だと告げる。
「警察の方はもう調べていきましたよ」
「警察では見えないものを見るのが仕事でね」
あなたの口から自然に出た言葉に、自分で少し驚く。
それはあなたの癖ではない。
澪の記憶の中で、誰かが同じ言葉を言っていた。
――警察では見えないものを見るのが、私たちの仕事です。
声の主は、白衣を着た男。
名札には「玖条 仁」とある。
レムナント・ラボ創設者。記憶移植技術の第一人者。
あなたは玖条のオフィスに案内される。
壁一面の窓から、湾岸の高層都市が見えた。灰色の海の上に、無数のネオンが滲んでいる。
玖条仁は、記憶の中より老けていた。白髪交じりの髪を後ろに流し、笑みだけが異様に若い。
「御影さん。お噂はかねがね」
「雨宮澪は自殺ではない」
あなたは単刀直入に言う。
玖条は眉一つ動かさない。
「根拠は?」
あなたは答えようとして、喉が詰まる。
根拠は、あなたの中にある。
澪の恐怖。澪の焦燥。澪が最後に見た、血のように赤い警告画面。
だが、それを言えば、移植記憶を証拠として使ったことになる。法的には、他人の記憶は証拠能力を持たない。なぜなら記憶は再生のたびに改変されるからだ。
あなたは沈黙する。
玖条は静かに笑う。
「記憶は真実ではありませんよ、御影さん。人は覚えているものを信じる。しかし、信じた瞬間にそれは変質する」
その言葉が、あなたの内側で反響する。
澪が同じ言葉を聞いた。
この部屋で。
死ぬ二日前。
あなたは玖条の目を見る。
「彼女は何を見た?」
玖条は少し首を傾ける。
「あなた自身に聞いてみてはどうですか」
瞬間、頭の奥で何かが開く。
あなたは研究室にいる。
いや、澪が研究室にいる。
深夜二時。誰もいないはずの地下記憶保管庫。澪はアクセスログの異常を追っていた。削除された患者データ。改竄された移植履歴。そこに、一つの名前があった。
御影ユウ。
あなたの名前。
画面には、五年前の移植記録が表示されている。
対象者:個体番号 M-17
移植元:雨宮――
記憶がそこで途切れる。
あなたはオフィスの床に膝をついていた。呼吸が荒い。玖条が机越しに見下ろしている。
「拒絶反応ですね。無理をしない方がいい」
あなたは立ち上がろうとする。だが足が震える。
今、あなたは選ばなければならない。
ここで玖条に掴みかかり、真実を吐かせるか。
それとも一度退き、澪の記憶をさらに深く潜るか。
あなたの怒りは前者を選びたがる。
あなたの恐怖は後者を拒む。
なぜなら、潜れば戻れなくなるかもしれないからだ。
他人の記憶を深く辿るほど、自我境界は薄くなる。
澪の悲しみがあなたの悲しみになる。
澪の愛があなたの愛になる。
澪の死が、あなたの死になる。
それでも、あなたは退く。
真実は、暴力ではなく記憶の底にある。
事務所に戻ると、あなたは椅子に体を沈め、インプラントを手動で開放する。医師なら止める行為だ。だが、あなたには医師がいない。止めてくれる者もいない。
あなたは目を閉じる。
雨宮澪の記憶へ落ちていく。
そこは、白い病室だった。
ベッドに横たわる少年がいる。年齢は十七ほど。頭部には神経接続ケーブル。左手首に新しい傷。
あなたはその傷を知っている。
自分の手首を見る。
同じ場所に、同じ形の傷。
澪が泣いている。
少年の手を握りしめている。
「ユウ、聞こえる?」
少年は答えない。
澪の背後で玖条が言う。
「彼の脳はほとんど空白だ。事故の衝撃で自己記憶が壊れている。だが、身体は生きている」
澪は振り返る。
「だからって、実験台にするなんて」
「違う。救うんだよ」
玖条は優しく言う。
「彼に、君の記憶の一部を移す。幼少期、言語、生活感情、倫理判断。人格の骨格だけだ。君は彼の姉のような存在だった。もっとも適合率が高い」
姉。
その言葉が、あなたの中で砕ける。
雨宮澪は、あなたの姉だった。
いや、血縁上の姉ではない。
孤児院で共に育ち、同じ姓ではなかったが、互いを家族と呼んだ人。
あなたが忘れていた、あなたの最初の味方。
澪は拒んだ。
だが、あなたを失いたくなかった。
あなたの空白になった脳に、彼女は自分の記憶の断片を差し出した。
その結果、あなたは生き延びた。
御影ユウという名前で。
だが、記録には続きがあった。
玖条は澪の同意範囲を超えて、別のデータを移植していた。
過去に死亡した捜査官、犯罪心理学者、交渉人。
あなたという人間は、複数の記憶データから再構築された探偵だった。
だからあなたは、人の嘘を見抜けた。
だからあなたは、知らない街の路地を知っていた。
だからあなたは、ときどき鏡の中の自分が他人に見えた。
あなたは叫びたくなる。
自分は誰だ、と。
だが声を出したのは澪だった。
「玖条先生、あなたはユウに何をしたんですか」
玖条は答える。
「可能性を与えた」
「違う。あなたは人を継ぎ接ぎにした」
「人間とは元々そういうものだよ。親の言葉、友人の仕草、死者の教訓。すべて他人から移植された記憶でできている」
澪は震える手で端末を操作する。
「公表します」
玖条の顔から笑みが消える。
記憶が乱れる。
走る足音。
非常灯。
地下保管庫。
澪の荒い息。
背後から近づく靴音。
そして、浴室。
澪は自宅に逃げ帰った。暗号化したデータをあなたに送った。だが送信直後、部屋の照明が落ちた。
暗闇の中、鏡に誰かが映る。
あなたは身構える。
そこにいたのは、玖条ではない。
御影ユウ。
あなた自身だった。
いや、違う。
澪の記憶の中に現れたあなたは、無表情で、濡れたコートを着ていた。目に光がない。右手には薄い透明な刃。
澪が言う。
「ユウ……?」
あなたの姿をした男は答えない。
刃が走る。
血が白い浴槽を染める。
澪の視界が傾く。
呼吸ができない。
喉が熱い。
最後に見えたのは、あなたの顔。
あなたは目を覚ます。
事務所の床に倒れていた。頬が濡れている。涙か汗か分からない。
あなたが澪を殺した。
その可能性が、部屋の空気を重くする。
あなたにはアリバイがない。事件当夜の記憶は曖昧だ。酒を飲んで寝たと思っていた。だが、その記憶は本当にあなたのものか?
あなたは洗面所へ行き、鏡を見る。
そこには疲れた探偵がいる。
だが一瞬、別の顔が重なる。
少年の顔。
澪に手を握られていた少年。
それから、無表情の殺人者。
あなたは鏡に額を押しつける。
「俺は誰だ」
答えは返らない。
そのとき、端末が鳴る。
送信者不明。
「真実を知りたいなら、最初に目覚めた場所へ」
添付された座標は、五年前に閉鎖されたレムナント・ラボ旧研究棟だった。
あなたは行く。
夜の旧研究棟は、海風に腐食されていた。窓は割れ、廊下には砂が積もっている。地下へ降りるたび、頭痛が強くなる。ここを知っている。あなたはここで目覚めた。澪の声を聞いた。玖条の手を見た。
地下三階。
記憶移植室。
そこに玖条仁が待っていた。
「来ると思っていました」
あなたは銃を向ける。手が震えている。
「俺が澪を殺したのか」
玖条は答えない。
「答えろ」
「半分は正しい」
あなたの指が引き金にかかる。
玖条はゆっくりと端末を操作した。古い投影機が起動し、空中に映像が浮かぶ。
事件当夜の記録。
雨宮澪の部屋に入ったのは、たしかに御影ユウだった。
だが、あなたではない。
映像の中の男は、あなたと同じ顔をしている。だが動きが違う。無駄がなく、機械のように正確だった。
「何だ、これは」
「あなたのバックアップです」
玖条は言う。
「五年前、君の再構築実験は一度失敗した。だが、その失敗データから別個体を作る試みが行われた。身体は培養義体。記憶は君の初期転写データ。人格は未完成だったが、命令には従った」
あなたは言葉を失う。
「澪が殺されたのは、彼女がその存在に気づいたからだ」
「誰が命令した」
玖条は微笑む。
「私ではない」
「嘘だ」
「私は研究者です。怪物を作った罪はある。だが、殺せとは命じていない」
彼の視線が、あなたの背後へ向く。
あなたは振り返る。
暗闇の奥に、もう一人のあなたが立っていた。
同じ顔。
同じ背丈。
同じ左手首の傷。
だが、その目には幼い空白があった。
彼は言う。
「澪を返して」
あなたは銃を構える。
彼も、あなたと同じように構える。
「お前が殺したんだろ」
「違う」
もう一人のあなたは首を振る。
「澪は、僕を見て泣いた。僕をユウと呼んだ。だから僕は思った。僕がユウなら、あなたはいらない」
その声は、子供のようだった。
「玖条に言われた。記憶は椅子取りゲームだって。一つの名前に座れる人間は一人だけだって」
あなたの胸が痛む。
怒りではない。
哀れみでもない。
もっと醜い感情。
恐怖だ。
目の前の彼が偽物なら、自分は本物でいられる。
だが、彼もあなたの記憶から生まれたのなら。
あなたもまた、誰かの記憶から生まれたものにすぎないのなら。
どちらが御影ユウなのか。
あなたは選ばなければならない。
撃てば、真実は単純になる。
彼は殺人者で、あなたは探偵だ。
澪の仇を討ち、事件は終わる。
だが撃たなければ、あなたは認めることになる。
自分の輪郭が曖昧であることを。
記憶が所有物ではなく、共有された傷であることを。
御影ユウという名前が、たった一人のものではないことを。
指が震える。
澪の記憶が蘇る。
病室で、彼女は眠るあなたに言っていた。
「ユウ、もし目が覚めたら、覚えていなくてもいい。私のことも、昔のことも。でも、誰かを傷つける人にはならないで」
その言葉は、あなたのものではない。
だが今、あなたを支えている。
あなたは銃を下ろす。
もう一人のあなたが戸惑う。
「なぜ撃たない」
「澪が望まない」
「澪は僕を見て怯えた」
「違う」
あなたは一歩近づく。
「澪は、お前を見て泣いたんだ。怪物だからじゃない。救えなかったと思ったからだ」
彼の顔が歪む。
その瞬間、玖条が動いた。
非常用端末に手を伸ばす。施設の焼却システムを起動するつもりだ。証拠も、あなたも、もう一人のあなたも、すべて消すために。
あなたは叫ぶ。
もう一人のあなたが先に駆けた。
銃声。
玖条の肩が裂ける。端末が床に落ちる。だが警報は鳴り始めた。赤い光が地下室を染める。
「三分後、施設全域を焼却します」
機械音声が告げる。
あなたは玖条の端末を拾い、データを抽出する。澪が見つけた改竄記録。あなたの再構築履歴。義体実験。殺害命令のログ。
命令者の欄に、玖条仁の名前はない。
そこにあったのは、レムナント・ラボの親会社、国家公安記憶管理局。
つまり、事件は一企業の犯罪ではない。
国家が、記憶から探偵を作り、失敗作に殺人を命じた。
あなたは笑いそうになる。
真実とは、いつも重すぎる。
出口へ走る途中、もう一人のあなたが立ち止まる。
「僕は行けない」
「来い」
「外に出たら、僕は殺人者だ」
「ここに残れば死ぬ」
彼はあなたを見る。
「あなたは探偵なんだろ。なら、僕が誰かを調べてくれ」
あなたは手を伸ばす。
彼はその手を取らない。
「澪の最後の記憶、持っている?」
あなたは頷く。
「なら、僕も少しは彼女の中にいられる」
扉が閉まり始める。
あなたは叫ぶ。
だが彼は微笑む。
初めて、あなたと違う顔で。
炎が地下を呑み込む直前、彼は言った。
「御影ユウを、頼む」
地上に出たとき、雨が降っていた。
あなたは濡れた路上に膝をつき、端末を握りしめていた。証拠は残った。玖条は救急搬送され、やがて証言するだろう。国家公安記憶管理局の名は、朝までに全世界へ流れる。
事件は終わった。
そう言えるはずだった。
けれど、あなたの中では何も終わっていない。
澪の記憶がある。
死んだ捜査官の直感がある。
犯罪心理学者の冷静さがある。
交渉人の言葉がある。
そして、地下で消えたもう一人のあなたの眼差しがある。
それら全部が、あなたを見ている。
あなたは事務所に戻る。
机の上には、澪の父親から預かった写真がある。孤児院の庭で笑う二人の子供。少女が少年の肩に手を置いている。
あなたはその写真を見ても、まだ完全には思い出せない。
だが、胸が痛む。
それで十分なのかもしれない。
翌朝、あなたは報告書を書かない。
代わりに、古い録音機を起動する。
「雨宮澪殺害事件、調査記録」
あなたは自分の声を聞く。
少しだけ、澪に似ている気がする。
少しだけ、あのもう一人のあなたにも似ている。
あなたは続ける。
「犯人は、御影ユウの記憶から作られた義体個体。だが、彼だけが犯人ではない。彼を作り、命じ、捨てた者たちがいる」
言葉が止まる。
次に何を言うべきか、あなたは迷う。
自分は本物だと言うべきか。
自分もまた移植された記憶の集合体だと告白すべきか。
それとも、そんな区別には意味がないと結論づけるべきか。
あなたは、あなた自身に問う。
記憶が他人のものなら、痛みも偽物なのか。
思い出せない愛は、存在しなかったことになるのか。
誰かから受け継いだ優しさで誰かを救ったとき、それは借り物の善意なのか。
答えはない。
だが、探偵の仕事は答えを所有することではない。
問い続けることだ。
あなたは録音機に向かって言う。
「私の名前は、御影ユウ」
少し間を置く。
「この名前が誰のものだったとしても、今、この声で事件を追う者の名だ」
窓の外で雨が止む。
街のホログラムが朝日に薄れていく。記憶を売る広告も、感情を修復する宣伝も、白い光の中で輪郭を失う。
あなたはコートを羽織る。
端末には、すでに新しい依頼が届いている。
差出人不明。件名だけが表示されている。
「あなたの最初の記憶について」
あなたは笑う。
恐ろしくて、懐かしくて、逃げ出したくなる。
それでも扉へ向かう。
なぜなら、あなたは探偵だからだ。
そして探偵とは、失われたものを探す者だ。
たとえ最後に見つかるのが、自分自身であったとしても。