広告

郵便局の片隅、誰も近寄らない区画に、その金庫はあった。

「タイムカプセル・ポスト」と書かれた古びたプレートが、もう何十年もそこに掲げられている。私がこの局に配属されてすぐ、先輩に教えられた。

「あれはな、未来に届ける手紙を預かる金庫なんだ。指定された日付まで開けない。鍵は局長が代々引き継いでる」

二〇二五年の春、私は局長になった。そして引き継ぎの書類の中に、一通の指示書を見つけた。

『二〇二五年五月十八日、開封。差出人・宛先ともに「咲」。』

その日は、ちょうど今日だった。


金庫を開けると、変色した封筒が一通、ぽつんと入っていた。消印は一九五五年。七十年前だ。宛名には震えた字で「未来の咲へ」とだけ書かれている。

不思議なことに、この手紙には受取人の住所も連絡先も記されていない。ただ「咲」という名前だけ。

私の名前も、咲という。

職務上、宛先不明の手紙は中身を確認することが許されている。私は手袋をはめ、慎重に封を切った。


『未来の咲へ。

突然こんな手紙を書いてごめんなさい。私は今、十七歳。あなたと同じ名前の女の子です。

私には不思議な力があります。眠ると、未来の誰かの夢を見るのです。いつも同じ女の子。名前は咲。郵便局で働いている。私はその子のことを、なぜか自分のことのように感じるのです。

だから手紙を書きました。この手紙が、七十年後のあなたに届くように。

咲、あなたは今、迷っていませんか。

夢の中であなたを見るたび、あなたはいつも何かを諦めようとしていました。絵を描くことを。子どもの頃から好きだったはずなのに。』

私は手紙を取り落としそうになった。

絵。私が高校生のときに諦めた夢。郵便局に就職を決めたあの日、もう描かないと決めたはずの。

なぜ、七十年前の少女がそれを知っているのか。


『おかしなことを言っていると思うでしょう。でも私は確信しています。あなたの夢を見続けてきたから。

私はもうすぐ死にます。胸の病で、お医者さんは長くないと言いました。だから、自分にできなかったことを、せめて夢の中の咲に託したいのです。

私は絵描きになりたかった。けれど女が絵で身を立てるなんて、と笑われ、許されませんでした。戦争もあって、画材すら手に入らない時代でした。

咲。あなたが生きている時代は、きっと違うでしょう。女の子でも、好きなことを諦めなくていい時代でしょう?

だったらお願い。私の分まで、描いてください。

この手紙と一緒に、私の絵を一枚入れておきます。下手くそだけど、私が一番好きだった景色です。』

封筒の底に、小さく折りたたまれた紙があった。広げると、それは色あせた水彩画だった。

海辺の町。坂道の上から見下ろす港。夕暮れの空が、オレンジと紫に滲んでいる。

その景色に、私は見覚えがあった。私の祖母が生まれ育った町だ。子どもの頃、何度も連れて行ってもらった、あの港町。


手紙の最後には、こう書かれていた。

『もし叶うなら。いつか私の名前を、あなたの描く絵のどこかに、こっそり書いてくれたら嬉しいです。

そうしたら、時を超えて、私たちは一緒に絵を描いたことになるから。

七十年後の咲へ。あなたの人生が、絵の具みたいに鮮やかでありますように。

一九五五年五月十八日 咲』

私は局長室で、しばらく動けなかった。

祖母の名前を、私は思い出していた。咲。私は祖母から名前をもらったのだ。

祖母は若い頃、病で亡くなった姉がいたと、一度だけ話してくれたことがある。絵が好きな人だった、と。

その姉の名前も――咲だったのではないか。


確かめる術はもうない。祖母も他界した。けれど、もうそれはどうでもよかった。

私は翌週、辞表は出さなかったけれど、絵を描くことを再開した。仕事帰りに画材店へ寄り、安い水彩絵の具とスケッチブックを買った。手が震えた。十年以上、筆を握っていなかった。

最初に描いたのは、あの港町だった。手紙に入っていた絵を頼りに、私はもう一度あの景色を訪ねた。

坂の上に立つと、七十年前と同じ夕暮れが、海を染めていた。

私は筆を取った。

完成した絵の片隅に、私は小さく二つの名前を並べて書いた。

「咲、そして咲」

時を超えて、私たちは確かに、一緒に絵を描いた。

風が吹いて、潮の匂いがした。隣に誰かがいるような気がして、振り返った。

誰もいなかった。けれど、あたたかかった。

「ありがとう」と、私は海に向かって呟いた。

返事の代わりに、夕日が一段と鮮やかに、空を染め上げた。まるで、七十年前の誰かが、絵の具を一筆、足してくれたみたいに。


その日から、私は描き続けている。

下手でもいい。誰に笑われてもいい。だって私の絵には、もう一人の咲が宿っているから。

そして時々、思う。

いつか私も、誰かに手紙を書こう。七十年後の、まだ見ぬ誰かへ。

迷っているあなたへ。諦めかけているあなたへ。

——大丈夫。あなたの人生が、絵の具みたいに鮮やかでありますように。

その願いは、時を超えて、きっと届くから。

(了)

おすすめの記事