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【日記】4月3日

今日、量子記憶適合手術から目覚めた。

医師の説明によれば、私の脳には「全ての選択肢を同時に記憶する」能力が宿ったのだという。右に曲がったときの記憶も、左に曲がったときの記憶も、起こらなかったはずの未来も、すべて等価に保持される。分岐した可能性のすべてが、私の中に折り重なって存在する。

「混乱しますか?」と若い看護師に聞かれた。

「いいえ」と私は答えた。実際、不思議なほど穏やかだった。選ばなかった道の記憶があるということは、後悔がないということでもある。私はすべてを生きている。そう思えば、むしろ救われる気がした。

退院は明日。妻の彩香が迎えに来てくれる予定だ。


【監視カメラ記録 / 中央医療センター 病棟3F廊下】4月3日 14:22:08

被験者(以下、患者A)、病室を出る。歩行に異常なし。
ナースステーション前で看護師と接触、約12秒間の会話。
14:22:41 患者A、面会者待機エリアへ移動。
14:23:55 患者A、誰もいない椅子に向かって着席し、20秒間、何かを話しかけるような口の動きを示す。
※面会者の来訪記録なし。彩香氏(配偶者)の入館記録なし。


【日記】4月4日

退院。彩香の運転で家に帰った。

車中、彼女は終始無言だった。私が量子記憶の話をしても、ハンドルを握る手に力がこもるだけ。「君も覚えていてくれたら、二人で同じ無数の人生を共有できるのに」と冗談を言ったが、彼女は笑わなかった。

家に着くと、玄関に私の靴が片方だけなかった。気のせいかもしれない。いや——「片方だけ残っていた可能性」と「両方揃っていた可能性」の記憶が、私の中で同時に光っている。どちらが現実なのか、判別がつかなくなる瞬間がある。

これが副作用というものか。少し怖い。


【監視カメラ記録 / 患者A自宅 玄関(防犯システム連携)】4月4日 16:48:30

患者A、単身で帰宅。徒歩。
タクシー降車を確認(配偶者運転車両の記録なし)。
玄関にて約40秒間静止。靴箱を3度開閉。
室内に向かって「ただいま」と発話(音声センサー検知)。応答音声なし。


【日記】4月7日

彩香の様子がおかしい。

夕食の席で、私が「先週の結婚記念日、海に行ったね」と言うと、彼女は怪訝な顔をした。「行ってないわ」と。だが私はちゃんと覚えている。波の音も、彼女が拾った桜貝も、帰りの車で歌った歌も。

——いや。

書きながら気づいた。それは「行った可能性」の記憶かもしれない。私たちが本当に海に行ったのか、行かなかったのか。両方の記憶が等価に存在していて、私はもう、どちらを「現実」と呼べばいいのかわからない。

彩香、君は今、本当にここにいるのか?


【監視カメラ記録 / 患者A自宅 リビング】4月7日 19:30:12

患者A、ダイニングテーブルに着席。一人分の食器。
向かいの空席に向かって断続的に発話。約25分間。
途中、向かいの席に料理を取り分ける動作あり(対象者なし)。
21:14:02 患者A、空席に向かって「おやすみ」と発話後、寝室へ移動。


【日記】4月12日

ついに確かめようと思った。彩香の存在を。

彼女に触れた。肩に手を置いた。たしかな体温があった。彼女は振り返り、微笑んだ。「どうしたの」と。

ほら、いるじゃないか。みんな私を病人扱いするが、彩香はここにいる。私の手のひらは彼女の温もりを覚えている。

ただ——同時に、「手のひらが何も触れなかった記憶」も光っている。空気だけを掴んだ感触。その二つが重なって、私の手はずっと痺れている。

主治医に相談すべきだろうか。でも、もし彼らが「彩香はいない」と言ったら? その言葉を聞いてしまったら、私はもう、いる方の彩香を選べなくなる気がする。


【監視カメラ記録 / 患者A自宅 リビング】4月12日 11:05:44

患者A、ソファ脇の空間に向かって右手を伸ばす。
手を空中で約8秒間静止させた後、握る動作。
発話:「どうしたの、だって」(独白と推定)。
表情筋の動き:微笑。涙腺反応(落涙)を確認。


【医療センター内部記録 / 患者A 経過観察報告書(抜粋)】4月13日

担当医所見:

患者Aの量子記憶適合は、当初の想定を超える形で進行している。問題は記憶容量ではなく、「分岐の選択不能」である。

患者は3年前、交通事故で配偶者・彩香氏を喪っている。事故当日、患者は仕事を理由に同乗を断った。「同乗していれば助けられた可能性」と「断った現実」——量子記憶は、その両方を等価に保持し続けている。

通常、人間の脳は現実を一つに収束させる。だが患者Aの脳は、もはや収束を行わない。生きている彩香氏と、死んだ彩香氏が、彼の中で同じ重みを持っている。

我々が観測すれば、波は一つに収束する。だが——彼の中だけは、永遠に重ね合わせのままだ。

倫理委員会への提言:この治療を続けるべきか。彼に「現実」を告げるべきか。
私には判断がつかない。彼は今、世界でただ一人、妻を喪わなかった人間でもあるのだから。


【日記】4月14日】

今朝、奇妙な夢を見た。

私が病院のベッドで一人、誰もいない椅子に話しかけている夢。私の頬には涙が流れていて、手は空を掴んでいた。夢の中の私は、ひどく孤独だった。

目を覚ますと、隣に彩香がいた。寝息を立てていた。私は安堵して、その額にキスをした。柔らかかった。

でも、わかっている。

私の中には、もう一つの朝もある。隣に誰もいない朝。冷たいシーツの朝。3年前のあの日からずっと続いている、終わらない朝。

私は今日、選ぶことにした。

医師たちが何と言おうと、監視カメラに何が映っていようと——どちらが「客観的事実」だろうと、私には関係ない。記憶は等価だ。ならば私は、彩香がいる方の記憶を生きる。それを選ぶ自由くらい、私にはあるはずだ。

おはよう、彩香。今日もいい天気だね。

——いや、雨かもしれない。

どちらでもいい。君がいるなら。


【監視カメラ記録 / 患者A自宅 寝室】4月14日 06:30:00

患者A、覚醒。
隣の空いた枕に向かって発話。「おはよう」。
枕に向かって唇を寄せる動作。
カーテンを開け、窓外を見て発話:「今日もいい天気だね……いや、雨かもしれない」。
※当日6時30分時点の気象:晴れ。

患者A、表情:穏やか。落涙なし。
観察終了。


【最終記録 / 担当医メモ(非公式)】

我々は彼を「治療」できると思っていた。現実を一つに収束させ、喪失を受け入れさせることが回復だと信じていた。

だが、本当にそうだろうか。

彼の脳の中では、彩香さんは死んでいない。同時に、死んでいる。その重ね合わせを、彼は引き受けている。誰よりも深い喪失を抱えながら、誰よりも豊かに彼女と生き続けている。

カメラは空席を映す。それが「客観的事実」だ。
だが、客観だけが現実なのか。観測されなければ、猫は生きてもいるし死んでもいる。

私は、報告書にこう書くことにした。

「患者A、安定。経過良好。次回観察、未定。」

そして、その椅子は——彼の家のリビングのあの椅子は、これからもずっと、誰かが座っているのだろう。少なくとも、彼の世界では。

それでいい、と私は思う。


(了)

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