あの言葉はもう誰の口からも出てこないのか 舌の奥で溶けていくような音 昔は毎日使っていたのに 今は夢の中でしか響かない 母が教えてくれたあの単語 風の匂いを表すあの音 なぜこんなに早く忘れていくのか 頭の中で繰り返しても形がぼやけて 指でなぞるように思い出そうとしても 指先がすり抜ける あの川の名前を呼ぶときの抑揚 誰ももう覚えていない 私だけが最後の糸を握っているような気がして でもその糸もいつか切れる 夜になると独り言のようにあの言語で話しかける 空に 月に 木々に 返事はない ただ自分の声が枯れていく音だけが残る 子供の頃 祖父が教えてくれた歌の歌詞を今でも思い浮かべる でも一節ごとに欠けて 次の言葉が出てこない あの歌を歌えば世界がまだ繋がっている気がしたのに 今はただの呟き 消えゆく言語は私の記憶も一緒に持って行ってしまうのか 今日もまた一語 失った 昨日も 明日も それでもまだこの胸の奥で 小さく息をしているような気がする あの言葉が 私の中でだけ 生き続けているうちは まだ完全に消えたわけではない そう信じたい でも信じることも言葉が必要で 信じるという行為さえ いつか遠ざかっていく 外の音が聞こえる 風が木々を揺らす音 それはあの言語で「生きている」と呼んでいたもの もう誰もその名前を知らない 私は窓辺に座って ただ思い浮かべる あの音を あの響きを 指で空に書いてみる 形は残らない 声も出ない ただ思考の流れが ゆっくりと 言葉のない海に沈んでいく