田中浩司は、三十四歳の平凡な会社員だった。毎朝の通勤電車で、隣のサラリーマンがスマホをいじりながら「このクソ野郎、早く降りろよ」と心の中で呟いているのが、突然、聞き取れるようになった。
最初は耳鳴りかと思った。しかし、それは確かに言葉だった。ただ、どの言語でもない、奇妙に歪んだ響き。浩司がスマホを取り出して検索アプリを開くと、画面に「翻訳を開始しますか?」と表示された。指が勝手にタップしていた。
「この野郎、早く降りろよ」
瞬時に日本語に変換された文字が、視界に浮かび上がる。浩司は息を飲んだ。隣の男は、相変わらず無表情で画面を眺めていた。
その日から、浩司の日常は変わった。アプリの名前は「本音の翻訳機」。開発者は、匿名で公開された若きプログラマー、佐々木亮太という男だと噂されていた。アプリは一度インストールすると削除できず、人の本音を「外国語」として耳に届け、即座に翻訳して表示する。
上司の「君の企画、面白いね」は「また面倒な仕事押しつけられた」と翻訳された。妻の「今日も遅くまでお疲れ様」は「早く帰ってきて、子供の世話手伝ってよ」に変わった。浩司は次第に、誰ともまともに会話できなくなった。本音を知りすぎることは、信頼を溶かす毒だった。
ある夜、浩司はアプリの開発元に連絡した。匿名掲示板経由で、佐々木亮太と名乗る人物が返信してきた。
「君の声も、翻訳されているよ」
浩司は震えた。佐々木はさらに続けた。
「このアプリは、人の心を透明にするためのものだ。君は今、初めて本当の人間関係を見ている。怖いだろう?」
浩司はアプリを閉じようとしたが、指が動かない。画面に佐々木のメッセージが続き、翻訳された。
「俺は、君の妻の本音も知っている。彼女は、もう君を愛していない」
浩司はスマホを叩きつけた。画面が割れ、しかし翻訳は止まらない。妻の寝息が、突然、聞き取れた。
「この男、いつか狂う。早く離婚したい」
浩司は立ち上がり、台所へ向かった。包丁を手に取る。妻の寝室のドアを静かに開ける。
その瞬間、佐々木の声がアプリを通じて響いた。
「ようこそ、本当の世界へ」
浩司の視界が歪む。妻の寝顔が、ゆっくりと笑みを浮かべたように見えた。
翌朝、浩司の会社は彼の失踪を警察に届けた。妻は冷静に、ただ一言、答えた。
「最近、変だったんです」
佐々木亮太のアプリは、その後も世界中に広がり続けている。誰もが、誰かの本音を聞きながら、笑顔で生きている。