生体時間取引法が施行されてから、世界は「二つの時間」に分裂した。
流れる時間の速さは誰にとっても平等だが、残された時間の価値は、持てる資産によって決定される。
坂本(さかもと)は、地方都市・灰ヶ崎(はいがさき)にある「東日本バイオ・イクイティ・バンク」の窓口で、事務的にキーボードを叩いていた。
灰ヶ崎は、かつて日本を支えた巨大な製鉄所と炭鉱の街だ。しかし、産業が衰退した今は、大気汚染の微粒子が常に空を灰色に染める、見捨てられたスラムに近い。この街の主な輸出品は、もはや鉄鋼でも石炭でもない。若者たちの「時間」だった。
「次の方、どうぞ」
坂本が呼びかけると、低いパーテーションの向こうから、一人の青年が入ってきた。
名前は湊(みなと)、二十歳。首元に薄汚れた作業着の襟が見える。指先は機械油で黒く染まり、爪の間には消えない汚れが入り込んでいた。
「時間を、売りたいんですけど」
湊は、絞り出すような声で言った。
「はい。査定ですね。身分証と、事前健康診断のデータをこちらのスロットに」
坂本は慣れた手つきで処理を進める。彼自身、この灰ヶ崎の出身だ。かつてこの窓口の反対側に座り、自分の時間を売り払って都会の大学へ行く学費を作った。だから、目の前の青年がどれほどの絶望と、あるいは「これで人生を変えられる」という浅はかな希望を抱いてここに立っているか、痛いほど理解できた。
画面に湊のステータスが表示される。
- 氏名:立花 湊(たちばな みなと)
- 年齢:20歳
- 遺伝的推定自然寿命:58歳
- 現在の健康評価:C-(慢性呼吸器軽度疾患あり)
「推定自然寿命が五十八歳……」
坂本は内心でため息をついた。
一般に、恵まれた環境で育った都心の富裕層であれば、遺伝的・環境的要因から自然寿命は八十五歳から九十歳と判定される。しかし、灰ヶ崎のような公害指定地域で生まれ育ち、劣悪な労働環境に身を置く者の寿命は、最初から二十年以上も短い。
「立花さん、現在の法律では、売却後の残存余命が『最低十五年』を下回る取引は禁止されています。あなたの推定寿命は五十八歳。つまり、あなたが売却できる上限は、最大で二十三年となります。今回は、何年分の売却をご希望ですか?」
「十五年」
湊は、迷わずに言った。
「十五年分を、一括で。それだけあれば、一千五百万円にはなりますよね?」
「いえ」
坂本は静かに首を振った。
「それは『標準レート』の場合です。査定基準はお読みになりましたか? 提供者の健康状態、学歴、遺伝病リスク、そして『居住地域の環境指数』によって、一年あたりの買取単価は変動します。灰ヶ崎地区の居住者は、環境指数が最低ランクの『E』に指定されているため、基本単価から四割の減額となります。さらに呼吸器に疾患の兆候がある。あなたの十五年は、総額で約七百万円にしかなりません」
「七百万……?」
湊の顔から血の気が引いた。
「そんな、少なすぎる! ネットの掲示板には、十五年売れば家が建つって書いてあったぞ!」
「それは港区や渋谷区の、遺伝子デザイナーチャイルドとして生まれた一等市民の価格です。彼らの『一年』は、病気になりにくく、知能指数も高いため、買い手にとって非常に価値が高い。ですが、ここの空気の中で育ったあなたの『一年』は、彼らにとって『質の低い時間』とみなされます。移植後の定着率も低い。だから、市場価値が下がるのです」
坂本は冷徹に事実を告げた。これがこの世界の現実だった。
命の価値は平等などではない。吸ってきた空気、食べてきたもの、親の年収によって、一秒の値段すらも差別化されている。
「七百万じゃ足りないんだ……」
湊は頭を抱え、デスクに額を擦りつけんばかりにうなだれた。
「妹が、心臓の病気で。都心の専門病院に入院させるには、デポジットだけで一千万円必要なんです。この街の医者には、もう手の施しようがないって言われた。俺の時間があいつの薬になるなら、いくらでも出すって約束したのに……。だったら、二十年売る。二十年なら、九百万を超えるか?」
「二十年売れば、あなたの残された時間は、数年分の誤差を考慮すると、三十代後半で尽きることになります。本当にいいんですね?」
「構わない! この街でダラダラと這いずり回って、五十過ぎまで泥水をすするだけの寿命なんて、一文の価値もない。あいつを救えるなら、俺の身体なんてどうなったっていい!」
湊の瞳には、狂気的なまでの自己犠牲の光が宿っていた。
坂本は胸の奥がチリチリと痛むのを感じた。かつて自分も、同じような熱病に浮かされていた。自分は「奨学金」という名の借金を踏み倒すために、十年を売った。その結果、三十五歳の今、坂本の残存寿命はあと三年もない。心臓の鼓動が、年々、不規則に、そして弱くなっていくのを自覚している。
「分かりました。二十年の売却手続きを進めます。買い手(バイヤー)とのマッチングを行いますので、少々お待ちください」
坂本がシステムを操作すると、即座にマッチングが成立した。
買い手は、東京の高級住宅地に住む長谷川(はせがわ)という七十四歳の男性だった。元不動産タイクーンで、総資産は数百億円。彼はこれまでに、地方の若者から計四十年の寿命を買い取り、本来ならとっくに死んでいるはずの肉体を繋ぎ止めていた。
「マッチング完了です。買い手側から、即時決済の承認が降りました。明日、都内のクリニックにて、時間抽出手術を行います」
「ありがとう、ございます……」
湊は、まるで自分の死刑宣告書を受け取るかのような表情で、承諾書にサインした。
その震える指先を見ながら、坂本はただ、淡々と事務処理を終えた。
翌月、坂本は業務出張で東京の本社へ向かった。
本社のビルは、灰ヶ崎の錆びついた風景とは対極にある、ガラスと大理石でできた天空の城だった。
そこで坂本は、偶然にも「長谷川」の名前をロビーのデジタル芳名板に見つけた。バイオ・イクイティ・バンクの超大口顧客(VIP)として、その長寿を祝う式典が催されていたのだ。
坂本は、好奇心に抗えず、式典会場の隅に紛れ込んだ。
ステージの上には、車椅子に乗った老人がいた。それが長谷川だった。
七十四歳。しかし、その肌には不自然なツヤがあり、目は爛々と輝いている。若者から吸い上げた生命力が、老いた肉体の中で不気味に脈動しているようだった。
長谷川の傍らには、ニュースキャスターがマイクを向けていた。
「長谷川様、今回、また新たな『時間』を統合され、さらに二十年の余命を得られました。今のお気持ちは?」
長谷川は、補聴器をつけた耳を傾け、しわがれた声で、しかし傲慢に笑った。
「素晴らしい気分だ。科学と自由市場の勝利だよ。私のように、社会に莫大な富を還元し続ける人間が長く生きる。これこそが社会の最適化だ。地方で何も生み出さずに、ただただ福祉を食いつぶすだけの若者に、だらだらと余命を浪費させるなど、それこそ国家的な損失だからね。彼らも、自分の無価値な時間を私に売ることで、初めて社会の役に立てたのだから、感謝しているはずだよ」
会場から、温かい拍手が沸き起こった。
出席している富裕層たちは、誰もその言葉に疑問を抱いていないようだった。彼らにとって、貧困層の寿命は「資源」であり、「家畜の肉」や「地中の鉱物」と同列のものに過ぎないのだ。
坂本は、吐き気を催して会場を後にした。
「無価値な時間」だと?
湊が、妹を救うために差し出したあの二十年は、彼にとって唯一無二の、たった一つの命だった。それを、この老人たちは「最適化」という言葉でコーティングし、自らの延命のための燃料として消費している。
灰ヶ崎に戻る新幹線の中で、坂本はスマートフォンで湊のその後の経過を調べた。
バンクのデータベースには、顧客の「売却後生存確認」のログが残っている。
画面に表示されたステータスを見て、坂本は息を呑んだ。
- 氏名:立花 湊
- ステータス:死亡(享年21歳)
- 死因:急性心不全(時間抽出手術後の拒絶反応、および過労による)
湊は、手術を終えて七百万円を受け取った後、すぐに妹の転院手続きを行った。しかし、自身の肉体が急激な「時間の喪失」に耐えきれず、わずか半年後に心臓が止まったという。
さらに、備考欄には残酷な追記があった。
『提供者の死亡により、未消費の抽出時間(約十九年半)は、バイヤー(長谷川氏)に無償で一元回収されました』
湊が命を賭して売った時間は、結局、長谷川の肉体の中で何事もなかったかのように燃焼され続ける。そして、妹の治療費として支払われた七百万円も、都心の病院を通じて、巡り巡って長谷川のような富裕層が所有する医療法人の利益へと還元されていく。
貧しい者は、命を売ってもなお、その金さえもシステムに回収される。
搾取の完璧な永久機関。
坂本は窓の外を見た。
新幹線が、次第に灰色の空へと近づいていく。
自分の胸に手を当てると、トク、トク、と、頼りない鼓動が聞こえた。あと三年。いや、このペースなら、二年持てばいい方だろう。
自分たちが売ったのは、ただの時間ではない。
「未来の可能性」そのものだ。
しかし、その可能性を買う金がなければ、今日を生きることすら許されない。
駅に降り立つと、灰ヶ崎の、あの鉄錆と二酸化硫黄が混ざった空気が出迎えた。
坂本は深く息を吸い込んだ。肺の奥がツンと痛む。
明日もまた、窓口には誰かがやってくるだろう。子供の学費のため、親の介護のため、借金返済のため、あるいは、ただ「この街から逃げ出したい」というだけの理由で。
そして自分は、彼らの命に「格安の値段」をつけ続けるのだ。
この、灰色に染まった、終わりのないシステムの中で。