月曜日の朝だけ、アパート一階の郵便受けに、見知らぬ手紙が届く。
差出人の名前はない。封筒はいつも少し黄ばんでいて、糊の端が乾きすぎたように波打っている。宛名は、間違いなく私の名前だった。
三沢灯里さま
達筆でも悪筆でもない、ただ静かな字。最初に見つけたとき、私は管理会社からの古い通知かと思った。けれど封を切ると、中には便箋が一枚だけ入っていて、こう書かれていた。
来週の月曜日、青い傘を持って出かけてください。
持っていなければ買ってください。
たぶん、あなたは濡れずに済みます。
変な手紙だと思った。
その日は晴れていたし、天気予報も一週間ずっと晴れマークだった。私は手紙をゴミ箱に捨てかけて、なぜかやめた。理由はない。ただ、その「たぶん」という言葉が、妙に正直だったからだ。
私は駅前の雑貨屋で、青い傘を買った。
そして一週間後の月曜日、空は昼過ぎに急に暗くなった。会社を出る頃には、雨が世界の輪郭を滲ませるほど激しく降っていた。
「三沢さん、傘あるの?」
同僚に聞かれて、私はバッグから青い折りたたみ傘を取り出した。
「珍しいね。いつも忘れるのに」
「……今日は、なんとなく」
傘を開くと、ビニールに当たる雨音が、まるで誰かの拍手みたいに聞こえた。
それから毎週月曜日、手紙は届いた。
今日の昼は、コンビニの卵サンドを選ばないでください。
その日、卵サンドを買った同僚が腹痛で午後を棒に振った。
右の靴紐を結び直してから階段を降りてください。
言われた通りにすると、足元で紐がほどけていることに気づいた。もしそのままだったら、駅の階段で転んでいたかもしれない。
今日は母に電話をしてください。
用件はなくてもいいです。
私は三か月ぶりに母に電話をした。母はいつも通り明るかったが、最後に少しだけ声を震わせて、「灯里の声、聞きたかったの」と言った。翌日、母が軽い脳梗塞で病院に運ばれた。幸い大事には至らなかった。
手紙は、私を大きく救うわけではなかった。
宝くじの番号を教えてくれることも、世界の危機を告げることもない。ただ、雨を避け、腹痛を避け、少しだけ後悔を減らしてくれる。人生の裾を、そっと持ち上げてくれるような手紙だった。
私は差出人を探そうとした。
郵便局に問い合わせても、「通常郵便なので追跡はできません」と言われた。防犯カメラを見せてほしいと管理人に頼んだが、「個人情報がどうとかで難しいねえ」と断られた。月曜の朝に郵便受けの前で張り込んだこともある。けれど、私が見張っているときに限って、手紙は届かなかった。
そして次の週、封筒の中にはこう書いてあった。
待ち伏せはしないでください。
寒いでしょう。
私はぞっとした。
でも、怖いとは少し違った。
相手は私を見ている。なのに、悪意は感じない。むしろ、毛布をかけるような気配があった。
春になり、桜が散って、夏が来た。
月曜日の手紙は続いた。
白い服はやめたほうがいいです。
ミートソースが跳ねます。
これは外れた。私は白いブラウスを着ていかなかったが、その日の昼食は蕎麦だった。手紙も間違えるのだと知って、少し笑った。
次の駅で降りてください。
いつもと違う道に、猫がいます。
私は一駅手前で降りた。商店街の裏道に、片目の茶トラ猫がいた。猫は私を見るなり、当然のように足元へすり寄ってきた。
首輪には小さな札がついていた。
迷子です。見つけた方はご連絡ください。
電話をすると、十分もしないうちに若い男性が息を切らして現れた。
「ミカン!」
彼は猫を抱きしめ、それから私に何度も頭を下げた。
「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます。三日も帰ってこなくて」
「いえ、たまたま通っただけなので」
「たまたまでも、助かりました」
彼はそう言って笑った。
それが、伊月奏太との出会いだった。
奏太は近所の小さな時計修理店で働いていた。祖父の代から続く店だという。私はその日以来、ときどき店の前を通るようになった。ショーウィンドウには古い腕時計や懐中時計が並び、秒針たちはそれぞれ違う調子で時間を刻んでいた。
「時計って、不思議ですよね」
ある日、私は店内で言った。
「同じ一秒なのに、時計によって聞こえ方が違う」
奏太は作業台から顔を上げて笑った。
「人によって時間の感じ方が違うのと似てますね」
「修理すると、時間も直るんですか?」
「直るのは時計だけです。時間は、だいたい手遅れです」
「夢がない」
「でも、時計が直ると、手遅れだった気持ちが少しだけ動き出すことはあります」
私はその言葉を、ずっと覚えている。
奏太と会うようになってから、手紙の内容は少し変わった。
今日は時計屋には寄らないでください。
髪がはねています。
「余計なお世話」と私は便箋に向かってつぶやいた。
でも、鏡を見ると確かに右側の髪が鳥の巣みたいになっていたので、その日は寄らなかった。
次に会うとき、彼は新しい眼鏡をかけています。
似合うと言ってあげてください。
本当は少し不安がっています。
私は言われた通り、「眼鏡、似合ってますね」と言った。
奏太は耳まで赤くなった。
「……ありがとうございます。誰にも気づかれなかったらどうしようかと」
「猫は気づいたんじゃないですか」
「ミカンは僕の顔より餌皿を見ています」
そんなふうに、私たちは少しずつ近づいた。
映画を見た。夜の川沿いを歩いた。くだらないメッセージを送り合った。奏太は笑うとき、先に目尻が下がる。私はそれを見るたび、胸の奥がやわらかくほどけていくのを感じた。
手紙は相変わらず月曜日に届いた。
けれど、ある秋の朝、封筒を開くと、いつもより長い文章が入っていた。
十月二十一日、彼と会わないでください。
理由は聞かないでください。
できれば、電話もしないでください。
あなたが傷つきます。
その日は、奏太と水族館へ行く約束をしていた。
私は便箋を握りしめたまま、しばらく動けなかった。
手紙は何度も私を助けてくれた。小さな不幸を遠ざけてくれた。だからこそ、その警告を無視するのは怖かった。
でも、同時に腹が立った。
私の人生は、誰かの添削済み原稿ではない。雨を避けることと、人に会わないことは違う。
私は奏太にメッセージを送った。
今日、予定通りで大丈夫ですか?
すぐに返事が来た。
大丈夫です。楽しみにしてます。
私は手紙を引き出しにしまい、水族館へ向かった。
奏太は駅前で待っていた。紺色のコートを着て、手には小さな紙袋を持っていた。
「おはようございます」
「おはよう。紙袋、何ですか?」
「あとで渡します」
彼は少し緊張しているようだった。
水族館は平日なのに混んでいた。青い光の中を、魚たちが静かに泳いでいた。大水槽の前で、奏太は長いあいだ黙っていた。
「灯里さん」
「はい」
「僕、来月から京都に行くことになりました」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
「京都?」
「祖父の知り合いの工房で、古い時計の修復を学ばないかって。ずっと迷ってて。でも、行こうと思います」
「……そう、なんですね」
「一年か、二年か。もっとかかるかもしれません」
魚の群れが、光の角度を変えて銀色にひるがえった。
私は手紙の言葉を思い出した。
あなたが傷つきます。
確かに傷ついた。心の表面を薄く切られたようだった。
奏太は紙袋から、小さな箱を取り出した。
「これ、直しました」
中に入っていたのは、私の腕時計だった。以前、電池が切れたまま引き出しに入れていたものを、彼に見せたことがある。亡くなった父が就職祝いにくれた時計だった。
「部品が古くて、少し時間がかかりました。でも、動きます」
秒針が、静かに進んでいた。
「料金は?」
「いりません」
「だめです。払います」
「じゃあ」
奏太は一度息を吸った。
「帰ってきたら、また会ってくれますか」
私は時計を見つめた。
時間は、だいたい手遅れだと彼は言った。でも、今はまだ、何かが手遅れになる前だった。
「会います」
私が答えると、奏太は泣きそうな顔で笑った。
「よかった」
その夜、家に帰ってから、私は引き出しの手紙を全部出した。
最初の青い傘から、今日の警告まで。便箋を日付順に並べると、一年分の月曜日が机の上に広がった。
そして初めて、私はあることに気づいた。
筆跡が、私の字に似ている。
完全に同じではない。少し大人びていて、少し癖が強い。でも、「灯里」の「里」の最後のはらい方、「たぶん」の丸み、「ください」の右上がり。どれも、見覚えがあった。
私は震える手で、古いノートを開いた。学生時代の日記。そこに書かれた自分の文字と、便箋の文字を見比べる。
似ている。
まるで、未来の私が書いたみたいに。
馬鹿げていると思った。けれど、一度そう思うと、もう他の可能性が見えなかった。
次の月曜日、手紙は届かなかった。
その次の月曜日も、そのまた次も。
奏太は京都へ行った。駅のホームで別れるとき、彼は「時間って遠距離に弱いですね」と言った。
「でも、時計は離れてても同じ時刻を指せますよ」
私がそう返すと、彼は嬉しそうに笑った。
私たちは毎日のように連絡を取った。けれど、季節がひとつ過ぎ、ふたつ過ぎると、連絡の間隔は少しずつ開いた。忙しさ、疲れ、遠慮。そういう小さな埃が、言葉の上に積もっていく。
ある冬の夜、奏太からメッセージが来た。
ごめん。しばらく連絡できないかもしれない。
仕事で余裕がなくて。
私は返信を書いて、消して、また書いた。
わかった。体に気をつけて。
本当は、行かないでと言いたかった。
でも、言えなかった。
それから半年、私たちはほとんど話さなくなった。
手紙も届かなかった。
人生は予告なしに進む。雨も降るし、卵サンドでお腹を壊す日もある。靴紐につまずくこともある。私は手紙のない月曜日に慣れていった。
二年後、母が再び倒れた。
今度は重かった。私は会社を休み、病院へ通った。母は言葉をうまく出せなくなり、代わりに私の手を何度も握った。
ある日、母は震える指で、紙にゆっくり文字を書いた。
すきなひとに
すきと
いいなさい
私は泣きながら笑った。
「お母さん、急に何」
母は困ったように眉を下げ、それから私の手の甲を軽く叩いた。
その一週間後、母は眠るように亡くなった。
葬儀の日、私のスマートフォンに奏太から着信があった。私は出なかった。出られなかった。
彼からメッセージが届いた。
お母様のこと、聞きました。
何もできなくてごめんなさい。
もし迷惑でなければ、会いに行きたいです。
私は返事をしなかった。
悲しみは、人を正直にするとは限らない。むしろ、意地悪にすることもある。私は「今さら」と思った。「どうしてあのとき連絡をくれなかったの」と思った。自分だって何も言わなかったくせに。
それきり、奏太とは途切れた。
五年が過ぎた。
私は三十五歳になり、別の町へ引っ越した。仕事も変えた。父の時計は今も動いている。電池を替えるたび、奏太の指先を思い出した。
ある月曜日の朝、新しいマンションの郵便受けに、黄ばんだ封筒が入っていた。
心臓が止まりそうになった。
宛名は、やはり私の名前だった。
中には一枚の便箋。
今日、午後三時に古い商店街へ行ってください。
時計屋はもうありません。
でも、彼はいます。
私は仕事を早退した。
昔よく歩いた商店街は、半分ほどシャッターが下りていた。奏太の店があった場所は、カフェになっていた。窓際には観葉植物が置かれ、古い看板の跡だけが壁にうっすら残っている。
午後三時。
向かいの歩道に、男の人が立っていた。
少し痩せた。髪も短くなった。けれど、目尻が先に下がる笑い方は変わっていなかった。
「灯里さん」
「……奏太さん」
七年ぶりだった。
私たちはカフェに入った。会話はぎこちなかった。天気の話、仕事の話、ミカンが十六歳まで生きた話。肝心なことは、互いに避けた。
コーヒーが冷めた頃、奏太が言った。
「ずっと、謝りたかったんです」
「何を?」
「連絡をしなくなったこと。逃げました。余裕がないって言えば許されると思ってた。でも本当は、灯里さんの人生を待たせるのが怖かった」
私はカップを見つめた。
「私も、逃げました。母のことで連絡をくれたとき、返事しなかった」
「責めるつもりはありません」
「私が、私を責めてるんです」
沈黙が落ちた。
それは重い沈黙ではなかった。七年分の埃が、ようやく光の中で見えるようになっただけだった。
奏太は鞄から、小さな包みを出した。
「これ、まだ持っていてくれたらと思って」
包みの中には、古い懐中時計があった。
「祖父のものです。壊れていたんですが、直しました。灯里さんに渡したかった」
「どうして私に?」
「時間が戻らないことを、いちばん教えてくれた人だから」
私は懐中時計を受け取った。
蓋を開けると、内側に小さな傷があった。針は止まっている。三時十二分。
「あれ、動いてない」
奏太が慌てて覗き込む。
「おかしいな。今朝は動いてたのに」
その瞬間、店の外で強い風が吹いた。カフェのドアが開き、誰かが入ってくる。冷たい空気と一緒に、紙片が一枚、床を滑って私の足元へ来た。
便箋だった。
黄ばんだ、見覚えのある紙。
私は拾い上げた。
ここから先は、自分で決めてください。
でも、ひとつだけ。
手紙は、書いた人の時間を少しだけ連れていきます。
使いすぎると、戻れなくなります。
だから私は、もう書けません。
どうか、今のあなたの言葉で。
文字は震えていた。
私の字だった。
その夜、私は眠れなかった。
懐中時計は三時十二分で止まったままだった。裏蓋を開けると、中に薄く畳まれた紙が入っていた。奏太も知らなかったらしい。
紙には、短い説明があった。
祖父が残したもの。満月の夜、止まった時計に手紙を挟み、送りたい月曜日を強く思って投函すると、その手紙は過去の自分に届く。ただし送れるのは、自分自身へだけ。そして、一通につき、送り手の時間が少し失われる。
最初は数分。何度も使えば数時間、数日、数年。
最後には、手紙を書くための「今」そのものがなくなる。
私はようやく理解した。
あの手紙を書いていたのは、未来の私だ。
青い傘を持たせた私。母に電話をさせた私。奏太と会うなと言った私。傷つくことを知っていた私。
でも、彼に会わせたのも、私だった。
未来の私は、後悔を消したかったのだろうか。
それとも、後悔してもなお、私に選ばせたかったのだろうか。
数日後、奏太から連絡が来た。
また会えますか。
私はスマートフォンを握りしめた。
昔の私なら、返事を何度も書き直しただろう。相手の気持ちを測り、自分の傷を数え、正解を探しただろう。
でも、正解なんて届かない。
届くのは、月曜日の郵便受けに入る、少し不完全な手紙だけだ。
私は返信した。
会いたいです。
それから、まだ好きです。
送信ボタンを押したあと、世界が少しだけ静かになった。
すぐに既読がついた。返事はなかなか来なかった。十分、二十分、一時間。私はその間に洗濯物を畳み、夕飯の米を研ぎ、父の時計の秒針を見た。
ようやくスマートフォンが震えた。
僕もです。
ずっと。
私は声を出して泣いた。
それは、悲しいからではなかった。時間が戻らないことが、初めて少しだけ嬉しかったのだ。
翌週の月曜日、郵便受けに封筒はなかった。
その代わり、私は文房具屋で便箋を買った。黄ばんでいない、真新しい白い便箋。青いインクのペンも買った。
夜、机に向かい、私は手紙を書いた。
宛先は、過去の私ではない。
未来の私でもない。
三沢灯里さま
雨に濡れる日があります。
卵サンドでお腹を壊す日もあります。
靴紐につまずく日もあります。
好きな人に会って傷つく日もあります。でも、それで大丈夫です。
あなたは全部を避けなくていい。
避けられなかったものの中にも、ちゃんと宝物があります。月曜日を怖がらないでください。
郵便受けが空でも、あなたの時間は進んでいます。
私は封をして、引き出しにしまった。
送らない手紙。
時を超えない手紙。
けれどそれは、これまで受け取ったどの手紙よりも、確かに私を未来へ運んでくれる気がした。