あなたは古書店の暖簾をくぐった。
理由は、自分でもよくわからない。雨宿りのつもりだった、と後になってあなたは言うだろう。けれど傘は持っていた。畳んだそれを、あなたは入口の傘立てに無造作に差し込んだ。だから、雨は理由ではない。
店主は奥のカウンターで本を読んでいた。顔は影に沈んでいて見えない。あなたが入ってきても、顔を上げなかった。
棚の間を歩くあなたの足音が、やけに大きく響いた。紙とカビと、わずかに甘い埃の匂い。あなたはその匂いが嫌いではない。むしろ落ち着く、と感じている――そう、いま、あなたは感じている。
一冊の本が、棚から半分だけ飛び出していた。
背表紙には何も書かれていない。革張りの、手のひらほどの大きさ。あなたはそれを抜き取った。なぜそれを選んだのか、と問われれば、あなたは答えられない。飛び出していたから、と言うかもしれない。けれど、本当は逆だ。あなたが手を伸ばすことを、その本は知っていた。
表紙を開く。
最初の頁に、こう書かれている。
「あなたは古書店の暖簾をくぐった。」
あなたは指を止める。
「店主は奥のカウンターで本を読んでいた。顔は影に沈んでいて見えない。」
頁をめくる手が、少しだけ震えている。あなたはそれを認めたくない。だから、めくる速度を上げる。
「一冊の本が、棚から半分だけ飛び出していた。あなたはそれを抜き取った。」
あなたは顔を上げる。店主は、まだ顔を上げない。
ここで、本は二つに分かれる。
頁の下に、二つの選択肢が記されている。古い活字で、こう。
一. あなたはこの本を棚に戻し、店を出る。 → 七頁へ
二. あなたは続きを読む。 → このまま読み進める。
あなたは、もちろん、続きを読む。
なぜなら、あなたはいま、これを読んでいるのだから。七頁を選んだあなたは、ここにはいない。別のところにいる。あるいは、どこにもいない。
「あなたは続きを読むことを選んだ。賢明だ、とは言わない。ただ、そう選んだ者だけが、ここまで来る。」
あなたは唾を飲む。喉が鳴る音を、自分で聞く。
「いま、あなたの喉が鳴った。」
本を閉じようとして、あなたは閉じられない。指がうまく動かない。いや、動かないのではない。あなたが、閉じたくないのだ。あなたはそれを知っている。本も、知っている。
頁をめくる。次の選択肢。
一. あなたは店主に声をかける。 → 十二頁へ
二. あなたは黙って読み続ける。 → 次頁へ
あなたは店主を見る。声をかけようか。「この本は何ですか」と。けれど――
声を、出してみてほしい。
出ただろうか。
おそらく、出なかった。あなたは口を開いたつもりだった。けれど、店内はしんと静まったままだ。あなたは自分の声を、しばらく聞いていない。それに、いま、気づいた。
「あなたは、自分の声を最後に聞いたのがいつか、思い出せない。」
その通りだ、とあなたは思う。思ってしまう。本がそう書いたから、そうなのか。あなたがそうだったから、本が書いたのか。順番が、もう、わからない。
あなたは黙って読み続けることを選ぶ。選ばされる。同じことだ。
「ここまで読んだあなたに、一つ、教えておくことがある。」
頁が、湿っている。あなたの指先の汗ではない。本のほうが、湿っている。生あたたかい。
「この本には、栞が挟まっている。あなたが入ってくる前から、ずっと。それを見るかどうかを、あなたは選べる。」
一. あなたは栞を探す。 → 次頁へ
二. あなたは栞を探さない。
二を選んだなら――けれど、あなたはこの行を読んでいる。だから一を選んだのだ。栞を探さなかったあなたは、この文を読めない。あなたはいま、自分が「探した側」であることを、確認している。
あなたは頁を繰る。挟まっていた。
写真だった。
色褪せた、一枚の写真。古書店の店内が写っている。棚の間に、人が立っている。本を一冊、手に持って、それを開いて、読んでいる。
その人の顔を、あなたは知っている。
毎朝、鏡で見ている。
写真の裏に、鉛筆で、薄く、こう書かれている。
「あなたは古書店の暖簾をくぐった。理由は、自分でもよくわからない。」
あなたは振り返る。
入口の暖簾が、揺れている。風もないのに。誰かが、いま、くぐってきた。
新しい客だ。雨に濡れてもいないのに、傘を傘立てに差し込んだ。棚の間を歩く。足音が、やけに大きく響く。あなたには、その音が聞こえる。けれど、その人には、あなたの足音は聞こえない。
その人が、一冊の本に手を伸ばす。半分だけ飛び出した、革張りの、手のひらほどの本に。
それは、いま、あなたの手の中にある本だ。
「あなたは、もう、選び終えている。残された選択肢は、一つだけだ。」
一. あなたは、次に来る者のために、この本を棚に戻す。
選択肢は、一つしかない。だから、あなたは選ばない。選ぶ必要がない。あなたの手は、すでに棚へ向かっている。本を、半分だけ突き出すように、差し込む。
カウンターの店主が、ようやく、顔を上げる。
その顔は、影に沈んでいて――いや。
見えてしまった。
あなたの顔だった。
店主は、何も言わずに、また本に目を落とす。読んでいる。背表紙には何も書かれていない、革張りの、手のひらほどの本を。
その最初の頁には、こう書かれている。
「あなたは古書店の暖簾をくぐった。」
あなたは古書店の暖簾を、くぐろうとしている。
理由は、自分でもよくわからない。雨宿りのつもりだ。けれど、傘は持っている。
これを読んでいるあなたは、まだ、店の外にいる。
引き返すことが、できる。いまなら。
一. あなたは暖簾をくぐる。
二. あなたは、この本を閉じる。
二を選んでほしい。
けれど、あなたは――