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第一章 ──語り手・カル

私の名はカル。沈黙を売る商人だ。

言葉が貨幣として流通するこの都市――〈饒舌府(じょうぜつふ)〉では、人々は朝起きてから夜眠るまで、ひっきりなしに喋り続けねばならない。沈黙は罪であり、無言は破産を意味する。声帯から零れ落ちる音節のひとつひとつが市場で値を持ち、人々は他人より多く、より美しく、より速く喋ることで富を積む。

そんな世界で、私だけが逆を売る。

「静寂を、ひと匙」

私の店には、瓶詰めにされた沈黙が棚いっぱいに並んでいる。安物は雑踏の隙間にできる一瞬の間。中級品は深夜の図書館に降りる静けさ。そして最高級品――〈完全な静寂〉は、この世にただ一壜しか存在しない。

それがいくらで売れるか、私はもう覚えていない。

おかしな話だが、記憶を辿ろうとすると、霧がかかる。私はいつからこの商売を始めたのか。誰から〈完全な静寂〉を仕入れたのか。思い出そうとすればするほど、頭の中で誰かが消しゴムをかけているような感覚に襲われる。

ただ確かなことがひとつ。

客が来るたび、私は少しずつ、自分を失っている。


第二章 ──語り手・カル

私の名はカル。沈黙を売る商人……だったはずだ。

今朝、客が来た。喉を病んだ老女だった。彼女は震える手で、ありったけの言葉を差し出した。生涯をかけて貯めた、孫の名を呼ぶための言葉だったという。

「もう、疲れたのです」と彼女は言った。「ほんの少しでいい。何も喋らなくていい時間が欲しい」

私は中級品の壜を渡した。彼女は栓を抜き、ふっと肩の力を抜いて、目を閉じた。静寂が彼女を包んだ数秒間――彼女の顔から、すべての皺が消えたように見えた。

代金として受け取った言葉を、私は帳簿に記した。だが奇妙なことに、帳簿の前のページが、ところどころ白紙になっている。私が書いたはずの取引が、消えている。

そして、私はふと思った。

――私には、孫がいたのではなかったか。

いや、違う。私は商人だ。家族などいない。そう、いない。いないはずだ。なのに、なぜ胸の奥がこんなに痛むのだろう。

棚の奥で、〈完全な静寂〉の壜が、ほのかに光っていた。それを見るたび、私は安心する。あれさえ売らなければ、私は私でいられる。

そう信じていた。


第三章 ──語り手・カル?

私の名は……なんだったか。

商人、であることは覚えている。沈黙を、売る。そう、沈黙を。

今日、最後の客が来た。黒い外套の男だった。顔は見えない。声も、出さない。彼は無言で、ある言葉を一語だけ、台の上に置いた。

その言葉は、私自身の名前だった。

「これと引き換えに」と、男は初めて口を開いた。その声は、私自身の声によく似ていた。「〈完全な静寂〉を頂きたい」

私は震えた。なぜなら気づいてしまったからだ。

私が客から受け取り続けてきた「言葉」――それは貨幣などではなかった。それは客たちの記憶であり、名であり、存在そのものだった。沈黙を売るたびに、私は誰かの「在った証」を奪っていた。そして自分の記憶を代金として支払っていた。商売の本質を忘れるように、私は自ら仕組んでいたのだ。罪の重さに耐えられなくなるたびに。

帳簿の白紙のページ。消えた取引。失われた孫。それは私が「忘れることを買った」記録だった。

「君は何者だ」と私は問うた。

男は外套を脱いだ。そこにいたのは、若き日の私だった。まだ何も奪っていない、清らかな顔をした私。

「私は、君が最初に沈黙を売った相手だ」と若い私は言った。「君は私に〈完全な静寂〉を売り、その代金として私の未来を――つまり君自身の罪の記憶を受け取った。だから君は永遠に償いを終えられない。忘れては奪い、奪っては忘れる。その輪の中にいる」


第四章 ──語り手・無名の者

名前は、もうない。

私はかつて商人だった、らしい。誰かがそう言った。鏡の中の、私と同じ顔をした若者が。

彼は言った。「〈完全な静寂〉を渡してくれ。最後の客は、いつも君自身なんだ。それを売れば、君はやっと自由になる。すべてを忘れて、無に還れる」

私は棚の奥から、最後の壜を取った。それは温かかった。

栓に手をかけたとき、店の隅で、あの老女の声が聞こえた気がした。「何も喋らなくていい時間が欲しい」――いや、違う。私が欲しかったのは、沈黙ではなかった。

ほんとうに欲しかったのは、誰かに「赦される」ことだった。

私は壜を、若者に渡さなかった。

代わりに、自分で栓を抜いた。

〈完全な静寂〉が、世界に解き放たれた。饒舌府のすべての音が、止まった。市場のざわめきも、人々の途切れない言葉も、貨幣の音も、何もかも。

そして私は理解した。完全な静寂とは、無ではない。それは――他者の声に、ようやく耳を傾けられる空白のことだ。喋り続ける世界では、誰も、誰の言葉も聞いていなかった。

静けさの中で、私は初めて、奪ってきた人々の声を聞いた。老女の祈り。客たちの嘆き。そして、若き日の自分の、震える願い。

「ごめんなさい」

それは私が生涯で一度も売らず、一度も使わなかった、たったひとつの言葉だった。


終章

饒舌府には、もう沈黙商會はない。

ただ、人々が時折ふと口をつぐみ、隣にいる者の言葉に耳を傾けるようになった。彼らはそれを「商人の置き土産」と呼んだ。

最も高価な静寂は、奪うことでも売ることでも手に入らない。

それは――自分の声を止めて、他者の声を聞こうとする、その一瞬の中にだけ、無償で宿る。


――了

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