あなたが最初にそれを見たのは、雨の降る夕方だった。
駅前の横断歩道で、信号が青に変わるのを待っていた。傘の群れが黒い花のように開き、車のヘッドライトが濡れたアスファルトに長く伸びていた。
あなたはスマートフォンを見ていた。特に何かを読んでいたわけではない。ただ、画面を見ているふりをしていた。誰とも目を合わせたくなかったからだ。
そのとき、向かい側の歩道に、一人の女が立っているのに気づいた。
白いブラウスに、紺色のスカート。濡れている様子はない。傘も差していない。それなのに、髪から水が滴ることもなく、肩が雨粒で暗くなることもなかった。
女はあなたを見ていた。
まばたきもせず、口も動かさず、ただ、あなたを見ていた。
信号が青になった。
周囲の人々が一斉に歩き出す。傘がぶつかり、靴音が水たまりを叩き、車の列が止まる。その流れの向こうで、女だけが動かなかった。
あなたは歩きながら、もう一度スマートフォンの画面に目を落とした。
見てはいけない、と思った。
理由はわからなかった。ただ、あの女をもう一度見たら、自分の中の何かが戻れなくなる気がした。
横断歩道の真ん中まで来たとき、あなたは我慢できずに顔を上げた。
女はいなかった。
代わりに、あなたのすぐ隣に立っていた。
傘も差さず、濡れもせず、肩が触れそうな距離で。
あなたは声を上げそうになった。しかし周囲の誰も反応しなかった。会社員も、学生も、ベビーカーを押す母親も、全員が女の脇を当然のように通り過ぎていく。
まるで、そこには何もないように。
女の顔は青白かった。目は黒く、深く、穴のようだった。唇はわずかに開いていた。
そして、あなたにだけ聞こえる声で言った。
「見えたのね」
あなたは走った。
駅に入り、改札を抜け、階段を駆け下り、ちょうど停まっていた電車に飛び乗った。息を切らしながら振り返ると、ホームには誰もいない。白いブラウスの女もいない。
電車の扉が閉まる。
あなたは安堵した。
その瞬間、窓ガラスに映ったあなたの肩越しに、女が立っていた。
車内に悲鳴はなかった。誰も見ていなかった。誰も知らなかった。女は吊り革の隙間に立ち、揺れる電車の中でまったく揺れず、あなたの反射の中だけで微笑んでいた。
それから、あなたの生活は少しずつ壊れていった。
女はいつも見えるわけではなかった。
朝、洗面所の鏡に映るあなたの背後。
コンビニの冷蔵ケースのガラス。
夜の窓。
消えたテレビの黒い画面。
水面。
磨かれたスプーン。
そういう、こちらと向こうを曖昧にするものの中に、女は現れた。
直接振り向いてもいない。
けれど反射の中では、いつもそこにいる。
最初は女だけだった。
やがて増えた。
交差点のガードレールに、顔の半分が潰れた少年が座っていた。誰も気にしない。あなたが目を向けると、少年は折れた首を傾け、嬉しそうに笑った。
古いビルの非常階段には、焦げたスーツの男が立っていた。黒い皮膚から煙のようなものが立ちのぼっていたが、火の匂いはしなかった。
スーパーの精肉売り場には、腹を押さえた老婆がいた。指の間から黒い液体がこぼれているのに、床は汚れなかった。
あなたは悟りたくなかった。
でも、悟ってしまった。
彼らは死者だった。
いや、正確には死者そのものではない。
誰かの記憶に焼きついた最後の姿。死の瞬間にこの世へこびりついた染み。時間が流れても剥がれ落ちず、生者の目の端にだけ残るもの。
残像。
あなたには、それが見えるようになっていた。
理由を探した。
病院へ行った。眼科では異常なしと言われた。精神科では疲労だと言われた。薬を飲んでも、残像は消えなかった。
寺にも行った。神社にも行った。占い師にも会った。霊媒師と名乗る男は、あなたの話を聞くなり顔色を変え、金はいらないから帰ってくれと言った。
帰り際、その男は小さな声で言った。
「見えるだけなら、まだいいんです」
あなたは聞き返した。
男は玄関の扉を閉めかけたまま、あなたを見ないで言った。
「向こうが、あなたを見始めたら終わりです」
あなたは笑おうとした。
冗談にしたかった。
でも、その日の夜、部屋の電気を消したあと、窓ガラスに映る暗い室内の中で、十数人の残像があなたを見ていた。
全員が、あなたを見ていた。
白いブラウスの女もいた。
彼女だけが少し前に出て、あなたの耳元に口を寄せるようにした。
実際には何も触れない。
なのに、あなたの耳たぶに冷たい息がかかった。
「もうすぐ、混ざるわ」
その日から、残像は反射の中だけではなくなった。
あなたの部屋の隅に立つようになった。
職場の廊下を歩くようになった。
寝床の足元に座るようになった。
彼らは誰にも見えない。あなた以外には。
同僚があなたの隣を通り過ぎるとき、その肩に、首の折れた少年の顔が重なっていた。上司があなたに資料を渡すとき、その背後から焦げた男の腕が伸びていた。母から電話がかかってきたとき、スマートフォンの黒い画面に、老婆があなたの代わりに耳を当てていた。
あなたは眠れなくなった。
眠ると夢を見る。
夢の中で、あなたはいつも横断歩道に立っている。雨が降っている。向かい側に白いブラウスの女がいる。信号が青になる。あなたは歩き出す。
けれど、何度歩いても向こう岸に着かない。
車は止まっている。人々はあなたの横を通り過ぎていく。傘の下の顔はみんな空白で、穴のような目だけが開いている。
そして女が言う。
「あなたも、こっちに来るの」
ある朝、あなたは自分の影が薄くなっていることに気づいた。
寝不足のせいだと思った。
けれど昼になっても、夕方になっても、影は戻らなかった。街灯の下に立つと、足元に落ちる黒い形が、あなたのものではないように遅れて動いた。
一歩踏み出す。
影が半拍遅れてついてくる。
手を上げる。
影は少し迷ってから手を上げる。
そして夜、部屋で蛍光灯の下に立ったとき、影があなたより先に動いた。
あなたは固まった。
床の上の黒い形が、ゆっくり首を上げるように伸びた。人の輪郭になり、壁を這い上がり、やがてその中から白い顔が浮かび上がった。
白いブラウスの女だった。
「あなたの場所、あいたわ」
あなたは玄関へ走った。
靴も履かずに外へ飛び出し、階段を駆け下りた。アパートの廊下には、残像たちが並んでいた。少年、男、老婆、知らない顔、知らない死に方。全員があなたを見ていた。
誰も追ってこない。
ただ道を開ける。
それがいちばん怖かった。
あなたは駅へ向かった。人の多い場所に行けば助かると思った。生きている人間の中に紛れれば、あれらは近づけない気がした。
駅前の横断歩道。
あの日と同じ雨。
傘を持っていないあなたの髪と服は、たちまち濡れた。冷たい雨が首筋を伝い、息が白くなる。
信号は赤だった。
向かい側に、あなたがいた。
あなた自身が、こちらを見て立っていた。
濡れていない。
傘も差していない。
あなたと同じ顔で、あなたと同じ服を着て、しかし雨粒ひとつ受けずに立っていた。
その隣に、白いブラウスの女がいる。
女はあなたに向かって微笑んだ。
「ほら。もう見えるでしょう」
信号が青になる。
人々が歩き出す。
あなたは動けない。
向こう側のあなたが、歩き出す。
一歩、また一歩。
横断歩道の白線の上を、まっすぐこちらへ来る。
あなたは叫ぼうとした。しかし声が出ない。喉の奥に冷たい泥が詰まったようだった。
周囲の人々は気づかない。あなたと同じ顔をした何かが歩いてきても、誰も見ない。誰にも見えない。
向こう側のあなたが、目の前に立つ。
その顔には、あなたの知らない笑みが浮かんでいた。
「代わって」
そう言われた瞬間、背中を押された。
誰が押したのかはわからない。
ただ、あなたの体は車道へ倒れ込んだ。
急ブレーキの音。
誰かの悲鳴。
雨の匂い。
ヘッドライト。
鈍い衝撃。
それから、すべてが遠くなった。
あなたは立ち上がる。
痛みはない。
雨も冷たくない。
目の前で人だかりができている。誰かが救急車を呼んでいる。誰かが口元を押さえて泣いている。道路には、あなたが倒れている。
いや、倒れているのはあなたの体だ。
頭の下に黒い水たまりが広がっている。
あなたはそこへ駆け寄ろうとする。
しかし、足が動かない。
振り返ると、横断歩道の向こうで、あなたと同じ顔をした何かが傘も差さずに立っている。そいつはもう濡れている。肩に雨粒を受け、髪から水を滴らせ、呼吸をしている。
生きている。
あなたの体で。
白いブラウスの女が、あなたの隣に立つ。
今ならわかる。
彼女の顔は、恐ろしいほど穏やかだ。長い時間、誰かがこちらへ来るのを待っていた顔だ。
「最初はみんな、生きている人にしか見えないの」
女は言う。
「でもね、見つめ返されたら、少しずつ薄くなる。生きている場所から剥がれていく。そして、あいた場所に、私たちが入る」
あなたは周囲を見る。
少年も、焦げた男も、老婆もいる。
彼らはあなたを歓迎するように立っている。
あなたは叫ぶ。
自分の体を返せ、と。
誰か助けて、と。
しかしあなたの声は雨音にすらならない。
誰にも届かない。
ただ一人、信号待ちをしている若い会社員が、ふとこちらを見た。
彼はあなたと目が合った。
あなたは息を呑む。
彼の手からスマートフォンが滑り落ちる。
彼には、あなたが見えている。
濡れもせず、影もなく、横断歩道の真ん中に立ち尽くすあなたが。
白いブラウスの女が、あなたの肩に手を置く。
その手は冷たくない。
もう、あなたも冷たさを感じないからだ。
女が囁く。
「次は、あなたが呼ぶ番よ」
会社員は青ざめた顔で後ずさる。
あなたは違うと言いたい。
逃げてと言いたい。
見ないでと言いたい。
けれど口が勝手に動く。
あなたの意思とは別に、唇が開く。
そして、あなたは彼にだけ聞こえる声で言う。
「見えたのね」