■ 海洋調査AI:HARP-9 観測ログ
日付: 2066年10月12日
観測地点: 北緯24度11分、東経141度52分(マリアナ海溝北東プレート境界)
深度: 4,120メートル
水圧: 41.5メガパスカル
海底地形スキャンにより、自然の露頭とは明らかに異なる規則的な直方体群を感知。音響測深の反射パターンは、高密度の炭酸カルシウム、および加工された石英ガラスの存在を示している。
特筆すべきは、対象エリアの熱水噴出孔周辺に形成された、巨大な三次元格子の構造体である。これは「本棚」または「書架」と形容されるべき垂直な棚状の建築群に酷似している。
構造物の隙間から、堆積物に覆われた半有機物質の集積堆積物を複数検出。
分光分析結果:セルロース、リグニン、および未知の結合剤(おそらく深海熱水噴出孔付近の古細菌から抽出された多糖類)。
これらは地上における「書籍」の劣化遺物である可能性が極めて高い。
これより、有人潜水艇『ネレウスII』による第一フェーズ潜行調査を支援する。
■ 潜水士アーサー・コリンズの日誌
日付: 2066年10月14日
ステータス: 潜水艇『ネレウスII』船内
窓の外は完全な虚無だ。潜水艇の強力なハロゲンライトが闇を切り裂くと、そこに現れたのは「死んだ巨大魚の骨」のような都市だった。
いや、魚の骨ではない。それは高さ五十メートルはあろうかという、白い石材でできた無数の柱だ。柱と柱の間には、蜂の巣のように細かく区切られた棚が、見渡す限り広がっている。
「これが、テティスか」
思わず口に出していた。
地上では、テティスはただの都市伝説だった。二十一世紀半ばの混乱期、世界中の検閲と書物廃棄の嵐から逃れるために、狂った学者たちが深海に築いたとされる、秘密の図書館都市。
船体がゆっくりと、一つの「書架」に近づく。ライトの光の中に、奇妙なものが浮かび上がった。
水中で、何千もの、いや何万もの「四角い影」が、不気味なほど整然と並んでいる。
それは本だ。石の棚に、ぎっしりと詰め込まれている。
水深四千メートルの水圧で押し潰され、泥と塩の中に凝固した、人類の記憶の残骸がそこにある。
ロボットアームを慎重に操作し、棚から一つ、堆積物に埋もれた塊を回収した。触れた瞬間、粘土のように崩れてしまいそうなほど、それは脆く見えた。
■ 劣化した蔵書の断片(カタログ番号:TTS-0091-B)
媒体: 特殊処理された合成耐水紙(端部が炭化および水和により半透明化)
解読できた文字列:
……我々は(判読不能)の火から、言葉を避難させねばならなかった。
地上の図書館が焼かれ、データベースが一行のコードによって消去される時代において、
最も安全な避難所は、人類の光が届かない暗黒の底である。
このテティスにおいて、我々は紙を(解読不能)の抽出物で処理し、
高圧下でも分解されない特殊なインクを開発した。
水は敵ではない。水は保護者である。
地上を支配する愚者たちは、この深海の重圧をくぐり抜けて、
我々の「自由」を焼き払いに来ることはできないのだから。
本日、第一陣として、約四十万冊の「禁書」が深度三千のドームへ搬入された。
学術、哲学、詩、そして(以下、泥の沈着により判読不能)
……我々はここで、静かに息を潜め、世界の熱が冷めるのを待つ。
■ 海洋調査AI:HARP-9 観測ログ
日付: 2066年10月18日
観測地点: テティス中央ドーム跡地
深度: 4,150メートル
『ネレウスII』が回収したサンプルの非破壊X線CTスキャンを完了。
サンプル内部の構造は、極限まで圧縮された紙葉の積層を示している。
使用されているインクは、一般の炭素系インクではなく、超微細な磁性酸化鉄(マグネタイト)の粒子を揮発性油に分散させたものであることが判明。
この組成は、周囲の水圧が変化しても、紙の繊維に磁気的に吸着し続ける特性を持つ。
構造解析により、テティス都市全体のレイアウトが判明。
中心部には「核(コア)」と呼ばれる直径二百メートルの球体構造が存在。
周囲を取り囲む書架群は、同心円状に配置されており、その形状は「アンモナイトの殻」または「巻貝の螺旋」に酷似している。
この構造は、深海の潮流を効率的にいなし、堆積物が特定の書架に偏って積もるのを防ぐ流体力学的設計に基づいていると推測される。
現在、中心部の「核」付近で、異常な電磁シグナルを検出。
微弱だが、不規則なパルス。人工的なソースである可能性を排除できない。
■ 潜水士アーサー・コリンズの日誌
日付: 2066年10月20日
ステータス: テティス中央ドーム「核」の入り口
AIのHARPが「歌」を感知したと言い張る。
もちろん、本当の歌ではない。海底から微弱な電磁波が流れていて、それがAIの受信機を揺らしているのだ。
私たちは現在、都市の「核」と呼ばれる巨大な球体の前にいる。
ドームの天井は、数百年前に起きたであろう地殻変動によって崩落しており、巨大な石の梁が、図書館の心臓部を押し潰すように横たわっている。
潜水艇のライトで照らすと、崩れた外壁の隙間から、内部が見えた。
そこには棚ではなく、巨大な「シリンダー」が何本も並んでいた。ガラスと銅でできた、巨大なドラムだ。
ドラムの表面には、極小の文字が刻まれた金属プレートが、鱗のようにびっしりと貼り付けられている。
これこそがテティスの真の書庫――人類が残した知識のマスターデータベースなのだろう。
不気味なのは、ドラムの周囲を、半透明の深海エビや、奇妙な形をした盲目の魚たちが群れをなして泳いでいることだ。
まるで彼らが、この沈黙した知識の番人であるかのように。
私はロボットアームを伸ばし、崩れた天井の隙間に潜り込ませた。
ドラムから剥がれ落ち、海底の泥に半ば埋もれていた一枚の銅製プレートを回収する。
触ると、スーツの手袋を通してすら、その「冷たさ」が伝わってくるようだった。
■ 劣化した蔵書の断片(カタログ番号:TTS-1040-C)
媒体: 刻印された銅合金製プレート(酸化銅の青緑色の膜に覆われている)
解読できた文字列:
【テティス行政記録:避難計画フェーズIV】
日付:[記録抹消]
記録者:主席司書 ヘレナ・サーストン
地表の戦争は終結しなかった。それどころか、大気圏外からの運動エネルギー弾の直撃により、
地殻プレートに想定外の歪みが生じている。
テティスが位置するマリアナ海溝北東部において、
観測史上最大規模のマグニチュード(判読不能)の地震が発生した。
ドームの構造維持システムに回復不能な亀裂が発生。
海水が、時速(判読不能)リットルの速度で居住区に流入している。
地上の生存者からの通信は完全に途絶えた。地表は灰と電磁嵐に覆われている。
私たちには、もう帰るべき場所がない。
だが、嘆く必要はない。
私たちは最初から、この知識を地上の人間に返すために集まったのではない。
私たちは、次の「知性」のために、これらを残すのだ。
海水は冷たく、そして静かだ。
水がドームを満たすとき、私たちの肉体は失われるが、
このシリンダーに刻まれた「ゲノム、歴史、数学、星々の地図」は、
深海という名の、最も安定したフリーズドライの中に保存される。
都市の電力をすべて、中央データベースの「磁気送信機」に転送する。
我々の生きた証を、地球の磁場を通じて、宇宙へ、あるいは未来の深海へ向けて、
ループ再生し続けるのだ。
水が、ここまで来ている。
本が濡れる。しかし、それは破壊ではない。
浸透である。
私たちは、地球の血液の中に、すべてを溶かすのだ。
■ 海洋調査AI:HARP-9 観測ログ
日付: 2066年10月24日
観測地点: テティス中央ドーム「核」内部
深度: 4,160メートル
『ネレウスII』が回収した銅製プレートの解析、および中央シリンダーから放射されている電磁パルスのデコードプログラムを実行。
パルスパターンは、単なるノイズではない。
これは、テティスに収蔵されていた全書籍の「目次」を、二進法に変換して超長波で送信し続けているものである。
送信されているデータの中に、生物学的なデータを発見。
テティスの設立者たちは、単に本を沈めただけではない。
彼らは、深海の特殊な環境下で繁殖する「古細菌」の遺伝子配列を書き換え、そこに文字情報をコードしていた。
堆積物から検出された半有機物質――これは、本を「食べて」繁殖し、その表面にインクを固定化すると同時に、自らの遺伝子の中にその本の「内容」を記憶する、人工的に設計された生物(バイオ・アーカイブ)の死骸である。
テティスは、死んだ図書館ではなかった。
それは、現在も海底で自己増殖し、知識を書き換え、保存し続けている「生きた書架」である。
周囲を泳ぐ深海生物たちも、この古細菌を摂取することで、何らかの形でその遺伝子的影響を受けている可能性がある。
■ 潜水士アーサー・コリンズの日誌
日付: 2066年10月28日
ステータス: 調査終了、浮上中(水深1,200メートル)
私たちはテティスを去る。
回収したプレートと、いくつかの書籍の断片、そしてAIが記録したテラバイト規模のデコードデータを持って。
最後の潜水で、私は信じられないものを見た。
メインシリンダーの影、光の届かない最も深い泥の中に、一冊の本が、開かれた状態で落ちていた。
それは石化もせず、崩れてもいなかった。
その頁は、深海の暗闇の中で、かすかに「発光」していたのだ。
無数の発光細菌が、文字の形に沿って、青白く、静かにまたたいていた。
私には、その文字が読めそうだった。いや、実際には読めなかったが、頭の中に直接、波の音が響くような感覚がした。
「私たちは、あなたたちの祖先だ。あるいは、あなたたちの未来だ」
そう書かれているように思えた。
地上に戻れば、私たちはこの発見を学会に発表し、テティスの歴史を教科書に書き加えるだろう。
だが、私にはわかっている。
私たちが持ち帰ったのは、あの巨大な図書館の、ほんの一滴の雫に過ぎない。
テティスは今も、冷たい海底で、人間が決して触れてはならない神聖さをもって、静かにその頁をめくり続けている。
潮の流れが、その本葉をめくるたびに、深海の生物たちはその言葉を飲み込み、自らの血肉としているのだ。
私たちは、本当に彼女たちを「救い出し」たのだろうか?
それとも、彼女たちの静かな永眠を、ただ邪魔しただけなのだろうか。
ヘルメットのシールド越しに見つめた、あの青白い光が、いまだに私の網膜から消えない。