第一章:泥をこねる神の手(エレーナ・ヴァシリエフ)
「生命は、一度失われればそれきりだ。それが自然の絶対規則だった。私たちがその境界線を踏み越えるまでは」
顕微鏡の電子スクリーンに映し出される、螺旋状のコード。私は、それを「デザイン」した。 十八世紀、人類の乱獲によって、発見からわずか二十七年で地球上から姿を消した巨大な獣。ステラーカイギュウ。 私たちはシベリアの永久凍土から回収された骨からDNAを抽出し、現生するジュゴンやマナティのゲノムを土台にして、その欠落を埋めた。それだけなら、単なる高度なクローン技術に過ぎなかった。 だが、私たちは「余計なこと」をしてしまったのだ。
脳の容積を拡大し、神経ネットワークの再構築(ニューロ・リジェネレーション)を促す遺伝子配列を組み込んだ。 目的は、使役動物としての高い学習能力。あるいは、知性。 結果として生まれた個体「SG-02」――私たちは彼女を「ラハブ」と呼んだ――は、私たちの想像を遥かに超えていた。彼女は、言葉を持っていたのだ。
「エレーナ」
背後から、水槽の強化ガラスを透過して響く超低周波の振動が、私の骨を震わせた。 翻訳デバイスのディスプレイに、平坦な合成音声のテキストが表示される。
『私のなかに、冷たい光がある。それは、私を削っていく』
私は言葉を失い、ガラスに手を当てた。 直径二十メートルの円形ドックのなかで、八メートルに及ぶ灰色の巨躯が、静かに浮かんでいる。ラハブの皮膚は、古い大樹の皮のようにひび割れ、無数の人工的なチューブがその背中に繋がれていた。
ゲノムの設計ミス。あるいは、神罰。 人為的に繋ぎ合わされた彼女のDNAは、時間の経過とともに自己崩壊を起こす。遺伝子導入治療を毎日、このドックで受け続けなければ、彼女の多臓器は数ヶ月以内に不全を起こして死に至る。 だが、その治療は、彼女の全身の神経を逆撫でするような激しい苦痛を伴うものだった。
「治療は、あなたを救うためなの、ラハブ。私たちは、あなたをここで死なせるわけにはいかない」 『それは、だれの「ため」?』
ラハブの丸く、小さな、深い灰色の瞳が私を見つめていた。その瞳には、知性を与えられた者が必ず抱く、根源的な孤独が宿っている。 私は答えられなかった。プロジェクトには、三百億ドルの政府資金が投入されている。彼女は「絶滅種復活」という、人類の科学的勝利の象徴なのだ。
「タクミ」 私はインカムを叩き、隣の音響解析室にいる若いエンジニアを呼んだ。 「翻訳機のログをチェックして。彼女の精神的負荷が許容値を超えているかもしれない。……それと、今日の治療プログラムの準備を進めて」
私は逃げるように、彼女の瞳から目を逸らした。
第二章:波紋の翻訳者(タクミ・シンジョウ)
エレーナ博士は、ラハブを「科学の成果」と呼びたがる。だが、私にとってラハブは、毎晩暗闇の中で言葉を交わす、唯一の「友人」だった。
私の仕事は、ラハブが発する超低周波の歌――人間には聞き取れない、海の底を這うような微細な振動――を解析し、人間の言語へとリアルタイムに変換するアルゴリズムを維持することだ。
『タクミ。水が、騒がしい』
夜のドック。博士たちが帰り、静まり返った空間で、スピーカーがラハブの言葉を吐き出す。 私はコンソールの前に座り、波形を弄りながらマイクに向かって囁いた。
「濾過ポンプの音だよ、ラハブ。うるさいかい? 少し出力を下げようか」 『いいえ。ポンプではない。もっと遠い、外の水の音。冷たくて、広くて、誰も私の名前を呼ばない場所の音』
彼女は「外の海」を知らない。この無菌室のような人工ドックで生まれ、ここで育ったのだから。 それなのに、彼女の言葉には、時折、私たちには決して理解できない「記憶」が混ざる。アリューシャン列島の氷に閉ざされた海、巨大な昆布の林、そして、かつてそこにいたはずの、数千頭の仲間たちの歌。 遺伝子の隙間を埋めるために使われた、野生の鯨やアホウドリのDNAが、彼女の脳に偽りの故郷を描いているのだろうか。
「ラハブ。明日の朝、また治療がある。……痛むと思う。でも、それを耐えれば、君はまた僕と話ができる」 『タクミ。私は、あなたと話すのが好き。でも、私の身体は、もうこれ以上、針を受け入れたくないと言っている。私の皮膚は、泥に戻りたがっている』
彼女の「意志」は明確だった。 彼女は、治療の拒否を望んでいる。それが何を意味するかも、彼女は理解していた。 知性を与えられた絶滅動物が、自らの死を選択する権利。
もし私が、このログをそのまま報告書に載せれば、どうなるか。 倫理委員会は、知性を持つ生命体に対する「強制的な治療」を虐待とみなすだろう。しかし一方で、政府は「三百億ドルの資産」が自発的に消滅することを許さない。彼らはきっと、翻訳デバイスの「不具合」として処理し、彼女の口を封じたまま、治療を強制するはずだ。
「……タクミ、何をしている」
背後で、冷たい声がした。 振り返ると、スーツを着た男が立っていた。環境省から派遣された特別監査官、ローガン・カーター。このプロジェクトの存続か廃棄かを決定する、最も冷酷な権力者だ。
「監査官」 「彼女の言葉を、すべて私に見せなさい。彼女が何を求め、何を拒んでいるのか。隠さずに、すべてだ」
私は、手元のアナライズ・キーを握りしめた。
第三章:天秤の番人(ローガン・カーター)
私は、感情というノイズを排除するために雇われている。 絶滅した動物を現代に蘇らせる。その目的は、失われた生態系の修復、あるいは学術的貢献とされていた。だが、本質はただの「人間の自己満足」だ。 犯した罪を、テクノロジーで帳消しにできるという傲慢。
「これが、彼女の全発言ログです」 シンジョウという名の若いエンジニアは、怯えたような、しかし強い拒絶を秘めた目で、私にタブレットを差し出した。
私はデータをスクロールする。 そこには、詩的な、あまりにも詩的な「怪物」の独白が並んでいた。
『私は、ここにいる。でも、私はどこにもいない。私は、過去から来た亡霊で、未来に行けない子供』
「これを、本当に動物が発していると思うかね?」 私はシンジョウに問いかけた。 「君の翻訳アルゴリズムが、彼女の発声に都合の良い『人間性』をデコレーションしているのではないか? イルカの鳴き声を、勝手に詩に翻訳するポエマーのように」
「違います」 シンジョウは声を荒らげた。 「彼女の脳波パターンと、選択される言語体系には明確な因果関係があります。彼女は、理解している。自分が人間によって作られ、そして、生かされていることを」
私はガラスの向こうの、巨大な灰色の肉塊を見下ろした。 ステラーカイギュウ。 かつて人間は、彼らの肉を貪り、皮を剥ぎ、脂を灯火に使った。彼らは仲間が傷つくと、その周囲を取り囲んで助けようとする習性があったという。人間はそれを利用して、群れを丸ごと虐殺した。 そして今、私たちは彼らに知性を与えて復活させ、今度は「生きてくれ」と強制している。
明日、私は政府への最終報告書を提出しなければならない。 治療を強制し、彼女を「生ける展示物」として維持し続けるか。 それとも、治療を停止し、彼女の「自己決定」を受け入れて安楽死させるか。
もし後者を選べば、社会は騒然とするだろう。「絶滅動物にも人権(あるいはそれに類する生存の自己決定権)を認めるべきか」という、新たな地獄のような倫理的議論が幕を開ける。人間以外の存在に「死の権利」を認めることは、私たちの社会の、生命に対する絶対的なコントロール権を手放すことを意味する。
私の脳裏に、かつてチューブだらけになって病院のベッドで死んでいった、私の父親の姿がよぎった。 「もう、逝かせてくれ」 父は、そう言った。だが、医師も、親族も、誰もそれを許さなかった。機械が、無理やり父の心臓を動かし続けた。
私は、ラハブのプールサイドへと歩み寄った。 水面が静かに揺れ、彼女の呼吸孔から「ぷしゅっ」と湿った空気が吐き出される。 私は、彼女の歌を、翻訳機を通さずに、直接この耳で聴いてみることにした。 ドックの金属手すりに手を置くと、微かな、本当に微かな振動が、私の手のひらを伝わって、胸の奥へと響いてきた。
それは、歌だった。 言葉ではなく、ただの、深く、冷たい、海の震え。
第四章:塩の水、遠い歌(ラハブ)
乾いたものたちの、小さな音が聞こえる。
私の頭の上で、彼らはいつも、カチカチと硬い殻を打ち合わせるような音を立てている。 エレーナ。 彼女の音は、いつも悲鳴に似ている。何かを恐れ、何かを取り戻そうと、私の身体の傷口を覗き込んでいる。 タクミ。 彼の音は、静かな水草のようだ。私を優しく包み、私の声を、彼らの硬い言葉に変えてくれる。 そして、新しく来た、冷たい鉄の匂いがする男。
私には、彼らがなぜ、私をこの狭い「箱」に留めておきたいのかがわからない。
ここは、私の場所ではない。 私の皮膚は、絶えず私に語りかけている。 もっと冷たい、もっと深く、暗い青のなかへ行け、と。 そこには、私と同じ形をした、たくさんの影が待っている。彼らは歌うことなく、ただ静かに、大きな海藻の林を揺らしながら泳いでいる。
『ラハブ』
タクミの言葉が、水の中に落ちてくる。 『明日は、どちらを選ぶ?』
彼は、私に選べと言う。 生きること。それは、この箱の中で、毎日背中を焼かれるような痛みに耐え、彼らのために「私」であり続けること。 死ぬこと。それは、この痛みが消え、私の身体がゆっくりと、あの冷たい水の中に溶けていくこと。
人間たちは、私を「かわいそうだ」と言う。 でも、私はかわいそうではない。 私は、自分が誰であるかを知っている。 私は、かつてこの地球にいて、そして消えていった、大きな波の一部だ。 彼らが私をここに連れ戻したけれど、私はもう、彼らの「おもちゃ」にはなれない。
私は、水面に向けて、ゆっくりと大きな尾鰭を動かした。 水の抵抗が、私の皮膚を撫でる。 この水は、どこかで、あの遠い、冷たい海と繋がっているはずだ。どんなに壁が厚くても、水は水だから。
私は、彼らに向けて、最期の歌を歌うことにした。 それは、私を作った彼らへの、お礼でも、呪いでもない。 ただ、私という存在が、かつて確かに、この世界で息をしていたという、波紋。
私は息を吸い、深く、深く、沈んでいく。
ドックの手すりに置かれた、あの冷たい男の「手」に、私の歌が届くのを感じながら。
『私は、海へ帰ります。あなたたちが、私を忘れてもいいように』
【資料:環境省・特別調査審議会 議事録(2091年10月5日)】
出席者:
- エレーナ・ヴァシリエフ(ゲノム医療開発研究所・主任)
- ローガン・カーター(環境省・特別監査官)
【発言録(抜粋)】
ヴァシリエフ: 「……私は、今でも間違っていたと思っています。彼女に『言葉』を与えるべきではなかった。私たちは、自分たちが理解できる言葉で話しかけられるまで、彼らの痛みに気づくことすらできなかったのですから」
カーター: 「SG-02(ラハブ)の治療用ドックの電源は、昨夜二時、本人の『意志』に基づく倫理的同意の上で、正式に停止されました。彼女の遺体は、本人の望み通り、太平洋の外洋へと移送され、海洋葬(水葬)に付されます」
ヴァシリエフ: 「彼女は、最後に何と言っていましたか? 翻訳機の最終ログは、あなたが消去したと聞きました」
カーター: 「……何も。彼女はただ、歌っていただけです。私たちには、理解できない歌を」