広告

朝の光がカーテンの隙間から差し込む。手元に古い時計があった。針は止まっているのに、秒針だけがわずかに震える。なぜこの時計を握っているのか、思い出せない。指の関節が痛む。誰かの痛みだった気がする。

私は立ち上がり、鏡の前に立った。顔は自分のものだと思ったが、目元にしわが深く刻まれているように見えた。昨日までなかったはずのしわだ。

台所でコーヒーを淹れる。湯気が立ち上る瞬間、突然、戦場のような光景が脳裏に浮かんだ。泥と血の匂い。銃声。誰かが「生きろ」と叫んでいる。自分の声ではない。私の声ではないはずなのに、喉が震える。

コーヒーカップを置いたとき、手が震えていた。カップの底に小さな傷がある。指でなぞると、懐かしい感覚が蘇る。誰かがこのカップを割れそうに握っていた記憶。

夜になると、部屋の隅で誰かが息をしている音がする。自分以外に人はいない。息遣いはゆっくりと、まるで年老いた人のようだ。私は布団に入り、目を閉じた。

夢の中で、私は子供だった。祖父の膝の上に座っている。祖父は静かに語る。

「この家系は、死ぬときに記憶を渡す。渡された者は、生きているうちにまた渡す。誰のものか、わからなくなるまで」

祖父の声が、私の声に重なる。

朝が来た。カレンダーを見ると、日付が三日前になっている。私の手は、昨日よりさらに老けていた。爪の形が違う。誰かの爪だ。

鏡の前で、私は自分の名を呼んだ。声が二重に聞こえる。一つは若い声、もう一つは枯れた声。

「俺は……」

「私は……」

声が重なり、喉が裂けそうになる。

廊下を歩く。足音が複数重なる。私の足音、祖父の足音、曾祖父の足音。どれも同じリズムで、しかし微妙にずれている。

壁にかけられた古い写真を見る。そこに写る男の顔が、私の顔に重なる。写真の中の男が、ゆっくりと微笑む。私の口元も動く。

部屋の中央で、私は立ち止まった。頭の中に声が溢れる。

「戦争で死ぬはずだった」

「妻を失った夜に、すべてを忘れようとした」

「この家を守るために、記憶を隠した」

声は増え続け、互いに叫び合う。私の体は一つの器でしかないのに、複数の意志が押し合う。痛みではなく、圧迫感。誰かの人生が、私の人生を侵食する。

私は床に膝をついた。手が勝手に動き、引き出しを開ける。中にあった古い手帳に、震える手で文字を書きつける。

「ここに私はいる。ここに私たちはいる」

手が止まらない。文字は私のものではなく、複数の筆跡が混ざり合う。

夜が明ける。鏡の前で、私は自分の顔を見た。目元にしわが刻まれ、口元に笑みがある。声が一つになった。

「これで、ようやく渡せる」

私は時計を手に取り、針を進めた。秒針が、止まっていたところから動き出す。誰の時間か、わからないまま。

おすすめの記事