第一章 研究者・神谷理沙の視点
私が彼女に初めて「おはよう」と言われたのは、復活から四百七十二日目の朝だった。
正確には、「言われた」というより、「投げかけられた」と表現するべきかもしれない。マンモス——私たちはコトと名付けた——の口腔構造は人類の発声に最適化されていない。彼女が発するのは、低い、地鳴りのような振動と、それに重なる高周波の旋律だ。けれどその複合音は、私たちが開発した翻訳デバイスを通すと、確かに「おはよう」になる。
私は、泣いた。
恥ずかしいことだけれど、研究室の隅で、私は声を上げて泣いた。コトは長い鼻をゆっくりと伸ばし、私の頬に触れた。その鼻先の毛は、想像していたよりも柔らかかった。
「ナキ、イタイ?」
翻訳機が、そう告げた。
ナキ——泣くこと。痛い?
彼女は、私の涙を、痛みだと理解していた。一万年前に絶滅したはずの生き物が、私の感情を、読み取っていた。
その日、私は研究日誌にこう書いた。
「コトは、知性ある存在である。それは疑いようがない。問題は——人類社会が、それを受け入れる準備ができているか、ということだ」
私の予感は、悲しいほど正しかった。
三日後、最初の抗議デモが研究所の前に現れた。プラカードには「神を冒涜するな」「自然の摂理に背くな」と書かれていた。同じ日、別のグループが反対側に立った。彼らのプラカードには「絶滅動物にも基本的権利を」と書かれていた。
コトは、窓の外のその騒ぎを、長いあいだ、見ていた。 そして、私に尋ねた。
「アレ、ナニ?」
私は、答えに窮した。
あれは何か。あれは、あなたを巡って、人間たちが争っている光景です——そう、どうやって伝えればいい?
迷いながら、私は翻訳機に向かって、こう言った。
「あれは、あなたを、どうするか、決められない人たちです」
コトは、長い時間、沈黙していた。 そして、こう返した。
「ワタシ、キメル。ワタシ、ココニ、イル」
その日のことを、私はこの後、何度も思い出すことになる。 そして、次に語るのは、あの抗議デモの中にいた一人の青年だ。
第二章 抗議者・荒木透の視点
俺は、別にマンモスが憎いわけじゃなかった。
ただ、許せなかったんだ。
俺の妹は、三歳のときに白血病で死んだ。当時、遺伝子治療の技術はまだ未熟で、適合する治療法が見つからなかった。両親は何年も、研究機関に嘆願した。「妹のための研究に予算を回してくれ」と。けれど答えはいつも同じだった。「予算がない」「優先順位が」「他の研究との兼ね合いで」。
それなのに、絶滅動物の復活には、何百億という金が注ぎ込まれている。
俺が研究所の前でプラカードを掲げていたのは、神への信仰のためじゃない。妹のための、遅すぎる怒りのためだった。
ある日、研究所から一人の女が出てきた。神谷理沙——ニュースで見たことがある、主任研究員だ。彼女は俺たちの前に立って、こう言った。
「コトに、会っていただけませんか」
俺たちは、ざわついた。仲間の一人が「罠だ」と叫んだ。けれど神谷さんは、静かにこう続けた。
「コトが、あなた方に会いたいと言っています」
その瞬間、俺の世界は、ぐらりと揺らいだ。
会いたい——絶滅動物が、人間に、会いたいと言う。 そんなことが、ありうるのか。
俺は、なぜか、手を挙げていた。
「俺が、行きます」
仲間たちは止めた。けれど俺は、行きたかった。たぶん、確かめたかったんだ。コトとかいうマンモスが、本当に「会いたい」と思える存在なのか。それとも、ただの遺伝子の塊なのか。
研究所の奥、特別棟に通された。 そこに、コトがいた。
写真で見るより、ずっと、大きかった。そして、ずっと、静かだった。
彼女は、俺を見た。
俺は、目を逸らせなかった。
その目には——なんと言えばいいのだろう——「理解」があった。俺が何者で、なぜここに立っているのか、すべてを見透かしているような、深い、深い目だった。
翻訳機を通して、彼女は言った。
「アナタ、カナシイ、カオ」
俺は、何も言えなかった。
「ダレカ、シンダ?」
——なぜわかる。
俺の頬に、涙が伝った。情けないと思った。けれど、止められなかった。
コトは、長い鼻を、ゆっくりと俺に向けて伸ばした。鼻先が、俺の肩に、そっと触れた。 それから、低い、深い音を立てた。
翻訳機は、その音を、こう訳した。
「ワタシモ、コドモ、ウシナッタ。ムカシ、ムカシ」
俺は、その場に、座り込んだ。
一万年前に絶滅した母親が、二十一世紀の青年に、子を失った悲しみを語っている。 そんなことが、ありえていいのか。 けれど、それは、起きていた。
その日、俺はプラカードを捨てた。 そして、別の場所で、別の闘いを始めることになる。
次に語るのは、たぶん、コトと同じ「復活組」の、別の一人だ。
第三章 復活動物・サーベルタイガー「リク」の視点
(※本章は、リクの発する音声を翻訳機で変換し、それを人類の言語に再構成したものである。文体は、翻訳者の補完を含む)
私は、目覚めた。
光が、まず、あった。 冷たい台の上で、私の体は、誰かに撫でられていた。
私は、知っていた。自分が、長い眠りから戻ったことを。 どうして知っていたのかは、わからない。けれど、知っていた。
人間たちは、私を「リク」と呼んだ。 それは私の名前ではなかった。けれど、彼らがそう呼びたがるので、私はそれを受け入れた。
人間は、奇妙な生き物だ。
彼らは、私を殺さない。 彼らは、私を食べない。 彼らは、私に、肉を与え、毛布を与え、水を与え、そして——「言葉」を、与えた。
最後のものが、一番、奇妙だった。
私の祖先は、言葉を持たなかった。私たちは、唸り、吠え、匂いで語り、姿勢で語った。それで、十分だった。
けれど、人間の言葉を学ぶうちに、私は気づいた。 言葉とは、「ない」ものを、「ある」ことにする道具なのだ。
「明日」という言葉。 「死んだ者」という言葉。 「もしも」という言葉。
私の祖先は、これらを知らなかった。私たちは、今しか、生きなかった。 けれど人間は、今ではないものを、言葉で、生きる。
それは、強さなのか、弱さなのか。 私には、まだ、わからない。
コトという名のマンモスと、私は、時々、話す。 彼女は、私より、ずっと、人間の言葉を、上手に使う。
ある夜、彼女は私に、こう言った。
「リク、ワタシタチハ、ニド、イキル」
二度、生きる。
私は、彼女の言葉の意味を、長く、考えた。
そして、ある日、わかった。
私たちは、一度、絶滅した。 それは、私たちの「種」としての、死だった。 けれど、今、私たちは、もう一度、生きている。 それは、私たちの「個」としての、生だ。
つまり、私たちは、種を捨てて、個になった。
これは、人間に、似ている。
人間も、種としては、いずれ滅びるだろう。 けれど、彼らは、一人一人が、個として、生きている。
だから、私たちは、似ている。
そう思ったとき、私は、初めて、人間を、「仲間」と感じた。
その夜、私は、月を見上げて、長い遠吠えをした。 それは、誰かに伝えるためではなかった。 ただ、私が、ここに、いる、ということを、宇宙に告げるためだった。
次に語るのは、私の声を聞いた、ある少女だ。
第四章 少女・佐倉ひかりの視点(小学六年)
夜、ベランダで、変な声を聞いた。
低くて、長くて、悲しいような、嬉しいような声。 お父さんは「犬じゃないか」って言ったけど、犬じゃなかった。あれは、もっと、ずっと、遠いところから聞こえてきた。
次の日、ニュースで知った。 あれは、サーベルタイガーの「リク」の声だったって。
クラスのみんなは、「怖いね」「変な世界になったね」って言った。 わたしは、何も言わなかった。 だって、わたしには、あの声が、ぜんぜん怖くなかったから。
むしろ、あの声は、わたしに似ている気がした。
わたしは、学校で、あんまり話さない。 話したいことが、ないわけじゃない。 ただ、話しても、誰も、ちゃんと聞いてくれない気がして。
でも、あのサーベルタイガーは、月に向かって、ちゃんと、声を出した。 誰も聞いてないかもしれないのに、声を出した。
わたしは、その夜、お母さんにお願いした。 「リクに、会いに行きたい」
お母さんは、最初、ダメだって言った。 でも、わたしが何回も頼んだから、最後には、研究所に申し込んでくれた。
何ヶ月か待って、ようやく、許可が出た。
研究所の中で、わたしは、リクに会った。
リクは、思ったより、ずっと、優しい顔をしていた。 牙は大きかったけど、目は、おばあちゃんの目に似ていた。
わたしは、リクに、こう言った。
「あの夜の声、聞きました」
翻訳機を通して、リクは、こう答えた。
「キイテクレタノカ。アリガトウ」
それから、リクは、こう続けた。
「キミモ、コエヲ、ダシテイイ。ダレカガ、キク」
わたしは、泣いた。 学校でも、家でも、わたしは、ずっと、声を、出していなかった。 でも、リクは、わたしに、出していいって、言ってくれた。
帰り道、わたしは、お母さんに、今までずっと話せなかったことを、話した。 学校のこと。友達のこと。さびしいこと。
お母さんは、泣きながら、聞いてくれた。
リクは、わたしを、救ってくれた。 絶滅した動物が、二十一世紀の小学生を、救うことが、ある。
そんなこと、あっていいんだろうか。 でも、それは、起きた。
最後に語るのは、たぶん、もう一度、最初の人——神谷理沙さんだ。
終章 神谷理沙の視点(再び)
コトの復活から、十年が経った。
今、世界には、十二種類の絶滅動物が、復活している。マンモス、サーベルタイガー、ドードー鳥、ステラーカイギュウ、そして——五年前に成功した、ネアンデルタール人。
最後のひとつは、最大の議論を呼んだ。けれどそれは、また別の物語だ。
コトは、今、北海道の保護区にいる。仲間が三頭、増えた。彼女は、群れのリーダーになっている。私は、年に数回、彼女に会いに行く。
先日、会いに行ったとき、彼女は私に、こう言った。
「リサ、トシ、トッタ」
私は、笑った。確かに、白髪が増えた。
「コトも、少し、トシをとったね」
「ソウ、ワタシモ、シヌ、イツカ」
私は、何も言えなかった。 復活した命にも、終わりは来る。それは、当然のことだった。けれど、改めて言葉にされると、胸が、痛んだ。
コトは、こう続けた。
「デモ、ワタシ、ニカイメ、イキタ。ジュウブン」
二回目を、生きた。十分。
私は、彼女の鼻に、額をつけた。 温かかった。一万年の時を超えて、その温かさは、確かに、私のものだった。
研究所に戻る途中、ある投書が、ニュースで流れていた。
「絶滅動物との共生は、人類に何をもたらしたか」
その答えは、まだ、誰も、出せていない。 経済的に見れば、莫大な負担だ。倫理的に見れば、未解決の問題が、山積している。 それでも、私は、こう思う。
私たちは、絶滅動物を復活させたのではない。 絶滅動物が、私たちを、復活させたのだ。
声を失っていた少女が、声を取り戻した。 怒りに燃えていた青年が、別の闘い——絶滅危惧種保護の運動——に身を投じた。 そして、私自身も、研究者として、人間として、もう一度、生まれ直した。
コトが、初めて私に「おはよう」と言ったあの朝。 あれは、彼女の復活の日ではなかった。
あれは、私たちが、人間として、もう一度、目覚めた日だったのだ。
雪が、北の保護区に、降り始めている。 コトは、雪を見上げている。
「リサ」
翻訳機が、彼女の声を、訳す。
「アシタモ、ココニ、イテ、イイ?」
私は、うなずく。
「うん。明日も、ずっと、ここにいて」
マンモスは、ゆっくりと、まばたきをした。 それは、たぶん、笑顔だった。
(了)