日記:四月十七日 午前六時十二分
目覚めた瞬間、私はコーヒーを淹れた。
いや、違う。
私は紅茶を淹れた。
それも違う。
私はベッドから起きなかった。
三つとも正しい。三つとも今朝の記憶として、同じ重さで頭の中に沈んでいる。舌の上には苦いコーヒーの跡があり、同時にアールグレイの柑橘の香りが残っていて、さらに何も飲まずに乾いた喉の痛みもある。
量子記憶、と東雲博士は呼んだ。
「あなたは選ばなかった選択肢も忘れない。観測されなかった世界線の記憶を、脳が保持している」
そう言われた時、私は笑った。
ただの疲労です、と言った。
昨日の私はそう言った。
しかし昨日の私は、博士の説明を受け入れて泣いた。
昨日の私は研究所を飛び出して、二度と戻らないと叫んだ。
昨日の私は博士を抱きしめて「治してください」と頼んだ。
全部、覚えている。
どの私が今日ここにいるのか、もう分からない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがある。
昨夜、私は誰かを殺した。
殺さなかった私もいる。
逃げた私もいる。
通報した私もいる。
血を拭いた私もいる。
それなのに、洗面台の排水口からは、まだ鉄の匂いがする。
監視カメラ記録:四月十七日 午前六時十二分
対象:被験者番号Q-07/氏名:三枝灯
場所:第二居住棟 403号室 寝室
06:12:03 対象、ベッド上で覚醒。
06:12:21 対象、上体を起こす。
06:12:49 対象、両手で顔を覆う。
06:13:10 対象、寝室を出る。
06:14:02 キッチンに入室。
06:14:08 対象、電気ケトルに水を入れる。
06:14:33 対象、マグカップを一つ取り出す。
06:14:41 対象、インスタントコーヒーの瓶を手に取る。
06:14:46 対象、瓶を戻す。
06:14:52 対象、紅茶缶を手に取る。
06:14:58 対象、紅茶缶を戻す。
06:15:07 対象、マグカップを棚に戻す。
06:15:31 対象、何も飲まずに洗面所へ移動。
06:16:04 対象、洗面台の排水口を凝視。
06:16:46 対象、嘔吐反応。吐瀉物なし。
06:17:12 対象、「まだある」と発言。
映像上、洗面台および排水口に血液反応は確認されない。
日記:四月十七日 午前八時三十五分
博士が来た。
来なかった。
いや、ドアベルは鳴った。私は開けた。博士は白衣ではなく、灰色のスーツを着ていた。
けれど別の記憶では、ドアベルは鳴らず、私はベッドの下に隠れていた。さらに別の記憶では、博士はすでに部屋の中にいて、テーブルの向こうで私の日記を読んでいた。
「昨夜のことを覚えていますか」
博士はそう尋ねた。
その声を聞いた瞬間、私は思い出した。
昨夜、実験室には私と博士と、もう一人いた。
名前は思い出せない。
顔は思い出せる。
けれど、その顔が毎回違う。
若い男だった。
老女だった。
私自身だった。
「選択肢の総和は、人格の輪郭を壊します」と博士は言った。
「あなたは、すべてを記憶しているのではない。すべてのあなたが、同じ頭蓋骨の中で目を覚ましているのです」
私は博士を責めた。
私は博士に縋った。
私は博士の首に手をかけた。
覚えている。
博士はここにいる。
博士は死んでいる。
博士は私を殺そうとしている。
私はどれを選んだのだろう。
監視カメラ記録:四月十七日 午前八時三十五分
対象:被験者番号Q-07/氏名:三枝灯
場所:第二居住棟 403号室 玄関・リビング
08:35:11 玄関チャイム作動。
08:35:29 対象、玄関前へ移動。
08:35:44 対象、ドアスコープを確認。
08:36:03 対象、ドアを開ける。
訪問者:東雲怜司博士。
服装:灰色スーツ。
所持品:黒革鞄、研究所IDカード。
08:36:21 東雲博士、入室。
08:36:48 対象、リビングの椅子に着席。
08:37:04 東雲博士、対面に着席。
08:37:32 東雲博士、対象に対し発話。音声一部不明瞭。
復元音声:
東雲博士「昨夜のことを覚えていますか」
08:38:10 対象、両耳を塞ぐ。
08:38:26 対象、「あなたは死んだ」と発言。
08:38:39 東雲博士、「私はここにいます」と発言。
08:39:02 対象、笑う。
08:39:14 対象、泣く。
08:39:31 対象、東雲博士の首元へ手を伸ばす。
08:39:34 東雲博士、対象の手首を軽く押さえる。
08:39:41 対象、抵抗なし。
08:40:05 東雲博士、鞄から録音機を取り出す。
日記:四月十七日 午前十時二分
録音を聞かされた。
自分の声だった。
『被験者Q-07、三枝灯。第四十二回干渉実験後の自己報告を開始します』
私はそんな風に話さない。
もっと早口だし、語尾も曖昧だ。
でも録音の中の私は、まるで論文を読み上げるように落ち着いていた。
『選択後の分岐記憶は定着。短期記憶ではなく、エピソード記憶として保存されている。私は、ドアを開けた記憶と開けなかった記憶を同時に保持している』
録音の私は笑った。
『おそらく、私は自由意志の死体置き場になった』
博士が停止ボタンを押した。
「ここから先を聞きますか」
私は頷いた。
私は首を振った。
私は録音機を叩き壊した。
三つの記憶のうち、実際に部屋に響いたのは、たぶん沈黙だった。
でも耳の奥では、壊れた録音機の破裂音が何度も鳴っていた。
博士は言った。
「昨夜、あなたは実験室で一人の人間を殺したと主張しています」
私は、はい、と答えた。
「しかし記録上、昨夜実験室にいたのは、あなた一人です」
その瞬間、私は理解した。
殺したのは他人ではない。
私は、選ばなかった私を殺したのだ。
監視カメラ記録:四月十七日 午前十時二分
対象:被験者番号Q-07/氏名:三枝灯
場所:第二居住棟 403号室 リビング
10:02:00 東雲博士、録音機を再生。
10:02:08 録音音声開始。
録音内容:
「被験者Q-07、三枝灯。第四十二回干渉実験後の自己報告を開始します」
「選択後の分岐記憶は定着。短期記憶ではなく、エピソード記憶として保存されている」
「私は、ドアを開けた記憶と開けなかった記憶を同時に保持している」
「おそらく、私は自由意志の死体置き場になった」
10:03:12 東雲博士、録音停止。
10:03:18 東雲博士、「ここから先を聞きますか」と発言。
10:03:25 対象、応答なし。
10:03:47 東雲博士、「昨夜、あなたは実験室で一人の人間を殺したと主張しています」と発言。
10:03:59 対象、「はい」と発言。
10:04:08 東雲博士、「しかし記録上、昨夜実験室にいたのは、あなた一人です」と発言。
10:04:31 対象、硬直。
10:04:59 対象、「私は私を殺した」と発言。
10:05:12 東雲博士、沈黙。
10:05:40 対象、「だから死体がない」と発言。
備考:
前夜二十三時から本日一時までの第一実験棟記録に、第三者の入室は確認されていない。
日記:四月十七日 午後一時四十四分
研究所へ戻った。
戻らなかった。
部屋に鍵をかけて、博士を追い返した。
窓から飛び降りた。
逃げて駅まで走った。
タクシーに乗った。
警察に行った。
全部、ある。
けれど手元には研究所の入館証がある。
だから、少なくともこの手は研究所へ戻ったのだろう。
廊下は白すぎる。
壁も床も天井も、記憶を反射しているみたいに白い。私は歩きながら、無数の足音を聞いた。右に曲がった私、左に曲がった私、立ち止まった私、引き返した私。足音だけが重なって、私の後ろからついてくる。
実験室の扉の前で、博士が言った。
「最後の実験を行います」
「治るんですか」
私はそう聞いた。
聞かなかった。
聞く前に博士を殴った。
膝から崩れ落ちて祈った。
博士は、どの私にも同じ答えを返した。
「観測します」
観測。
それはつまり、確定させるということだ。
「あなたの中に残る可能性の波を、一つに収束させます。成功すれば、あなたは一つの過去だけを持つ」
「失敗すれば?」
博士は目を伏せた。
「あなたは、すべての過去になります」
私は笑った。
それはもう失敗しているのと何が違うのだろう。
監視カメラ記録:四月十七日 午後一時四十四分
対象:被験者番号Q-07/氏名:三枝灯
場所:第一研究棟 廊下B
13:44:02 対象、東雲博士とともに廊下Bへ進入。
13:44:19 対象、歩行速度低下。
13:44:33 対象、背後を振り返る。
13:44:41 背後に人物なし。
13:44:58 対象、右壁面に触れる。
13:45:11 対象、「うるさい」と発言。
13:45:20 東雲博士、「何が聞こえますか」と発言。
13:45:33 対象、「私の足音」と発言。
13:46:07 対象、実験室Q前に到着。
13:46:22 東雲博士、認証端末にIDカードを提示。
13:46:26 扉解錠。
13:46:44 対象、入室を拒む動作。
13:46:58 東雲博士、「最後の実験を行います」と発言。
13:47:10 対象、「治るんですか」と発言。
13:47:22 東雲博士、「観測します」と発言。
13:47:49 対象、自発的に実験室Qへ入室。
日記:四月十七日 午後二時二十分
椅子に座らされた。
座らなかった。
拘束された。
自分でベルトを締めた。
博士の手を払いのけた。
博士に「お願いします」と言った。
頭に電極が貼られ、視界の端でモニターが瞬いた。脳波。心拍。分岐干渉率。見慣れない数字が並び、どれも私のものだと主張していた。
博士はガラス越しの操作室に入った。
スピーカーから声がした。
「三枝さん。これから、いくつか質問をします。答えは一つだけ選んでください」
私は頷いた。
「あなたは今朝、何を飲みましたか」
コーヒー。
紅茶。
何も。
喉が裂けるほど迷った。どれか一つを選べば、ほかの私は死ぬ。そんな気がした。
でも、もう死んでいる。
死んでいるのに、まだ私の中で喋っている。
「何も飲んでいません」
そう答えた瞬間、舌からコーヒーの苦味が消えた。紅茶の香りも消えた。乾いた喉だけが残った。
私は泣いた。
私は泣かなかった。
いや、泣いた。
涙は一つしか流れなかった。
監視カメラ記録:四月十七日 午後二時二十分
対象:被験者番号Q-07/氏名:三枝灯
場所:第一研究棟 実験室Q
14:20:03 対象、実験椅子に着席。
14:20:21 対象、自ら右手首拘束ベルトを装着。
14:20:29 東雲博士、左手首拘束ベルトを装着補助。
14:21:10 頭部電極接続完了。
14:21:42 東雲博士、操作室へ移動。
14:22:05 東雲博士、マイクを通じて発話。
「三枝さん。これから、いくつか質問をします。答えは一つだけ選んでください」
14:22:18 対象、頷く。
14:22:33 質問一。
東雲博士「あなたは今朝、何を飲みましたか」
14:22:36〜14:23:41 対象、無言。心拍上昇。
14:23:42 対象、「何も飲んでいません」と発言。
14:23:43 分岐干渉率、72.3パーセントから48.9パーセントへ低下。
14:23:51 対象、右眼から涙を一滴流す。
14:24:02 対象、「ごめん」と発言。
日記:四月十七日 午後二時四十八分
質問は続いた。
「今朝、博士は部屋に来ましたか」
来た。
「あなたは録音機を壊しましたか」
壊していない。
「研究所へはどう来ましたか」
博士の車で。
答えるたびに、頭の中の部屋が片づいていった。
棚に詰め込まれた無数の日記が、一冊ずつ燃えていくようだった。私は楽になった。軽くなった。薄くなった。
そして最後の質問が来た。
「昨夜、実験室で何がありましたか」
私は息を止めた。
記憶が開いた。
昨夜、私は実験室で目を覚ました。
目の前には、もう一人の私がいた。
彼女は言った。
「あなたが残るの?」
私は答えた。
「分からない」
彼女は笑った。
「じゃあ、私が選ぶ」
そして彼女は、非常停止用のメスを握った。
私に向けた。
自分に向けた。
博士に向けた。
何も握らなかった。
すべてが重なった。
血が出た。
出なかった。
叫んだ。
静かだった。
でも、今なら分かる。
あの部屋にいた「もう一人の私」は、可能性ではなかった。
博士が作った複製でも、幽霊でもなかった。
あれは、未来の私だった。
すべての選択肢を記憶した果てに、すべての過去になってしまった私。
時間の向こう側から、まだ一つでいられる私を殺しに来た。
違う。
助けに来た。
どちらだ。
どちらを選べばいい。
スピーカーが沈黙している。博士も待っている。
私は答えなければならない。
「昨夜、実験室で何がありましたか」
私は口を開いた。
監視カメラ記録:四月十七日 午後二時四十八分
対象:被験者番号Q-07/氏名:三枝灯
場所:第一研究棟 実験室Q
14:48:09 質問八。
東雲博士「昨夜、実験室で何がありましたか」
14:48:11 対象、呼吸停止に近い状態。
14:48:26 対象、前方の空間を凝視。
14:48:42 対象、「いる」と発言。
14:48:49 東雲博士、「何が見えますか」と発言。
14:48:57 対象、「私」と発言。
14:49:03 実験室内温度、二度低下。
14:49:06 映像ノイズ発生。
14:49:08 対象の正面、約二メートル地点に人影らしき歪みを確認。
14:49:09 歪みは対象と同一の輪郭を示す。
14:49:10 分岐干渉率、48.9パーセントから測定不能へ移行。
14:49:12 東雲博士、非常停止操作を試行。反応なし。
14:49:16 対象、「あなたが残るの?」と発言。
14:49:19 対象、直後に異なる声色で「分からない」と発言。
14:49:23 対象、さらに異なる声色で「じゃあ、私が選ぶ」と発言。
14:49:27 拘束ベルト解除。原因不明。
14:49:31 対象、立ち上がる。
14:49:33 歪み、対象と重なる。
14:49:34 映像、白飛び。
14:49:35 音声記録に多数の発話が重複。
解析可能な語句:
「殺した」
「助けた」
「まだ選べる」
「もう選んだ」
「私を忘れて」
「私を残して」
14:49:41 映像復旧。
実験椅子上に対象なし。
床面に血液なし。
拘束ベルト破損なし。
室内扉、施錠状態継続。
14:49:44 操作室内、東雲博士が椅子から立ち上がる。
14:49:51 東雲博士、「三枝さん」と発言。
14:50:03 対象からの応答なし。
日記:四月十七日 午後二時五十分
私はここにいる。
私はここにいない。
この日記を書いている手は、私のものだ。
しかし、どの私のものかは分からない。
博士は私を探している。監視カメラは空の椅子を映している。記録上、私は消えたことになるのだろう。
でも、私は消えていない。
私は、選ばれなかった朝のコーヒーの中にいる。
紅茶の湯気の中にいる。
飲まれなかった水の底にいる。
開けられたドアの向こうにいる。
開けられなかったドアの内側にいる。
壊れなかった録音機の磁気にいる。
壊れた破片の鋭い光にいる。
私は、すべての過去になった。
恐ろしいことに、それは死ではなかった。
もっと広い何かだった。
一つの道を歩く苦しみから解放され、無数の道そのものになること。
だけど博士。
もしこれを読んでいるなら、覚えていてください。
私はあなたを殺した。
私はあなたを殺さなかった。
私はあなたを愛していた。
私はあなたを憎んでいた。
私は助けを求めた。
私は助けを拒んだ。
そして今、私は一つだけ選びます。
あなたの背後に立つことを。
監視カメラ記録:四月十七日 午後二時五十分
対象:被験者番号Q-07/氏名:三枝灯
場所:第一研究棟 実験室Q・操作室
14:50:12 東雲博士、操作室から実験室Qへ入室。
14:50:27 東雲博士、実験椅子周辺を確認。
14:50:49 東雲博士、床面を確認。
14:51:03 東雲博士、監視カメラに向かって発言。
東雲博士「被験者Q-07が消失した。空間転移、あるいは観測収束の失敗による非局在化の可能性がある」
14:51:21 東雲博士、操作室へ戻る。
14:51:36 東雲博士、机上のノートを発見。
14:51:44 ノートには手書き文字あり。筆跡は対象と一致。
記載内容:
「あなたの背後に立つことを」
14:51:52 東雲博士、背後を振り返る。
14:51:53 背後に人物なし。
14:51:55 映像ノイズ発生。
14:51:56 東雲博士の背後、約三十センチ地点に人影らしき歪みを確認。
14:51:57 歪みは被験者Q-07と同一の輪郭を示す。
14:51:58 東雲博士、口を開く。音声なし。
14:51:59 映像、白飛び。
14:52:00 記録終了。
日記:四月十八日 午前六時十二分
目覚めた瞬間、私はコーヒーを淹れた。
今度は、それだけだった。
苦い。
とても苦い。