序:街について
この街には夜がない、と人は言う。
正確には、夜はあるのだが、誰も眠らない。ネオンは点いたまま、コンビニのレジには客が並び、地下のバーでは誰かが二杯目を注文している。午前三時に山手線が走るわけではないが、それでも人々は移動し、会話し、何かを買い、何かを売る。
ここでは「おやすみ」という挨拶が消えて久しい。
この街で、ある女が死んだ。あるいは消えた。あるいは、最初から存在しなかった。
以下は、四人の証言である。
第一の証言:バーテンダー・神崎遼
彼女が最後に店に来たのは、火曜日の夜だった。間違いない。火曜日は私がカウンターに立つ日で、その日に限って客が少なかったから、よく覚えている。
名前は確か——百瀬さん。百瀬詩織さん。
いつもジン・リッキーを頼んだ。ライムを多めに、と。三ヶ月ほど前から週に二度は来ていて、最初の頃はノートパソコンを開いて何か書いていたが、最後の一ヶ月は何もせず、ただカウンターに肘をついて、私と話していた。
何の話? ——眠れない話だ。
「もう三年眠っていないんです」と彼女は言った。冗談だと思ったが、彼女の目を見て、そうではないと分かった。眠らない人間の目というのは、独特の濁り方をする。水槽の底に沈んだガラス玉のような。
火曜日の夜、彼女は珍しく二杯目を頼んだ。そして、こう言った。
「神崎さん、私、明日には消えていると思います」
私は笑った。笑ってしまった。今でもそのことを後悔している。
午前二時頃、彼女は店を出た。雨が降っていた。傘は持っていなかった。
——いや、待ってくれ。雨は降っていなかったかもしれない。私の記憶では降っていたが、翌日の新聞を見ると、その夜は晴れだったと書いてあった。だが、私は確かに、彼女が傘を差さずに歩き去る後ろ姿を見たのだ。
濡れた背中が、ネオンに光っていた。
そのはずだ。
第二の証言:同僚・桐谷美和
詩織のこと? あの子、本当に可哀想な子だった。
ええ、同じ編集部で三年一緒に働いたから、誰よりも知っているつもりよ。彼女、恋人と別れてから様子がおかしくて。相手は確か、社内の——いえ、これは言わないほうがいいわね。とにかく、その別れ方が酷かったみたいで。
不眠症だって本人は言ってたけど、私はそう思わない。だって、会議中に居眠りしてること、何度もあったもの。眠れないんじゃなくて、眠りたくないんじゃないかしら。
神崎っていうバーテンダー? ええ、知ってる。詩織がよく行ってたお店の人でしょう。一度連れて行かれたことがある。でも私、あの男の人、ちょっと苦手だった。妙に詩織のことを観察するような目で見るの。詩織は気づいていなかったみたいだけど。
最後に詩織と会ったのは——水曜日の朝よ。火曜日じゃない。水曜日の朝、会社のエレベーターで会って、「おはよう」って言ったら、彼女、私のことを見て、こう言ったの。
「美和さん、私のこと、覚えていてくれますか」
変なことを言う子だな、と思った。それが最後。その日の午後から、彼女は会社に来なくなった。
警察は失踪事件として処理したけれど、私は知ってる。彼女はきっと、自分から消えたんだと思う。あの街は、消えたい人間にとっては、都合のいい街だから。
——あら、私が彼女を恨んでいたかって? どうしてそんなことを聞くの。
確かに、別れた恋人っていうのは私の元婚約者だったけれど。それは、ずっと前の話よ。
第三の証言:刑事・大柴
百瀬詩織の失踪事件は、結論から言えば、未解決のままだ。
事件性は薄いと我々は判断している。本人名義の口座から、失踪の前日に三十万円が引き出されている。スーツケースが部屋から消えている。パスポートもない。これは典型的な自発的失踪のパターンだ。
ただし、奇妙な点が三つある。
一つ。証言者の供述が、ことごとく矛盾している。バーテンダーの神崎は「火曜日の夜に最後に会った」と主張するが、防犯カメラの記録では、その夜、百瀬詩織はその店に来ていない。来ていたのは、その一週間前だ。
二つ。同僚の桐谷美和は「水曜日の朝にエレベーターで会った」と証言したが、当日のエレベーターの利用記録と監視カメラには、二人が同じ時刻に乗り合わせた事実はない。桐谷は確かに出社しているが、百瀬詩織はその日、既に出社していなかった。
三つ。そして——これが一番奇妙なのだが——百瀬詩織の部屋から発見された日記には、こう書かれていた。
「私のことを覚えている人間が、私を殺すだろう。だから、私は誰の記憶からも消えなければならない」
これは犯行声明か、遺書か、あるいは妄想か。我々には判断できない。
正直に言おう。この街では、人が消えるのは珍しいことではない。眠らない街には、眠らない人間が集まる。彼らの記憶は、夜更かしのしすぎで擦り切れている。誰かを覚えているつもりで、別の誰かを思い出している。誰かを愛しているつもりで、その輪郭をなぞっているだけだ。
我々は事実だけを追う。だが、この街では、事実そのものが眠らずに動き回る。
百瀬詩織は、見つからない。
第四の証言:百瀬詩織(日記より)
九月十一日。
私は今日、神崎さんに「明日には消えている」と言った。本当のことを言うと、これは試したのだ。彼が私を引き止めるかどうか。引き止めなかった。それでいい。
九月十二日。
美和さんに会った。彼女は私を「おはよう」と呼んだ。私の名前を呼ばなかった。彼女は私の名前をもう忘れているのだ。あるいは、忘れたふりをしているのだ。彼女が私を憎んでいることを、私はずっと前から知っていた。彼の婚約者だった頃から。
九月十三日。
決めた。
この街には、眠らない人間のための場所がある。地下三階の、ある部屋。そこに入った人間は、誰の記憶からも少しずつ薄れていく。完全には消えない。ただ、輪郭がぼやけていく。バーテンダーの記憶では、私は雨の中を歩き去る女になり、同僚の記憶では、エレベーターで奇妙なことを言う女になる。刑事の記録では、矛盾した証言の集合体になる。
それでいい。
私が望んだのは、殺されないことだ。誰かに殺される前に、自分で自分を消すことだ。
——ただし、これを読んでいる人へ。
この日記そのものが、私が書いたものかどうか、あなたには分からないはずだ。筆跡は私のものに似せられる。日付は後から書き込める。事実、私が部屋を出る前に、誰かがこの部屋に入った形跡がある。机の上のペンの位置が、ほんの少し違っていた。
私は本当に、自分の意思で消えるのだろうか。
それとも、誰かが私を消したあとで、私が自分で消えたことにしているのだろうか。
この街の午前三時には、自分自身の判断さえ信用できなくなる。ネオンが瞼の裏で点滅し、自分の声が他人の声に聞こえる。
もし、私が見つかったら——いや、見つからないでほしい。
見つかった瞬間に、私は誰かの記憶の中で、確実に死ぬから。
終:街について(再び)
四つの証言は、一致しない。
バーテンダーは雨を覚えているが、その夜は晴れていた。同僚はエレベーターで会ったと言うが、記録にはない。刑事は事実を述べているが、その「事実」さえ、この街では揺らぐ。そして当の本人の日記は、本人が書いたものかどうかすら、定かではない。
百瀬詩織は、消えた。あるいは、殺された。あるいは、最初から、四人の語り手の頭の中だけに存在した、共有された幻影だったのかもしれない。
ある夜、神崎のバーに、新しい客が来る。彼女はカウンターに座り、ジン・リッキーを頼む。ライムを多めに、と。
神崎はその顔に見覚えがある気がするが、思い出せない。
「お客さん、初めてですか」
「ええ」と彼女は微笑む。「初めてです」
外では、ネオンが点いている。雨は降っていない。
降っていない、はずだ。
——この街では、誰も眠らない。だから、誰の記憶も、夢と区別がつかない。
(了)