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その音が耳に届いたのは、よく晴れた火曜日の午後だった。

「――サ、グラ・マ……ディ、シ・テ」

佐伯康介は、オフィスのデスクでパソコンの画面を見つめたまま、思わず隣の席の同僚、高橋を振り返った。高橋は無言でキーボードを叩いている。口元は完全に閉じられていた。

「高橋、今、何か言ったか?」
「え? いえ、何も」

高橋は怪訝そうな顔で首を振った。その瞬間、再び佐伯の鼓膜を奇妙な響きが打った。

「――ロ、ク・セ……ヌ、ル・ヴィ」

高橋の口は動いていない。しかし、彼の喉の奥から、いや、彼の「頭」の方向から、掠れた、聞いたこともない言語の響きが発せられている。それは英語でも、中国語でも、あるいはヨーロッパのどの言語でもない、金属的で不自然なイントネーションを持つ未知の言葉だった。

それからの数日間、佐伯の日常は「未知の言語」によるノイズに支配されることになった。
街を歩けば、すれ違う人々から無数の「外国語」が囁きかけてくる。
「プラ・カ、オ・ル」
「ミリ、タ・フェ、ソ」
満員電車の中は、言語の異なる多国籍の市場に放り込まれたかのような、耳障りな喧騒に満ちていた。誰も口を開けていない。彼らは無表情にスマホを見つめているだけだ。しかし、彼らの「心の声」は、すべて未知の言語となって佐伯の脳に直接、流れ込んできていた。

精神科を受診したが、医師は「軽度の統合失調症、あるいは聴覚野の一時的な過敏症」と診断し、精神安定剤を処方しただけだった。薬を飲んでも、頭の中の異国語は止まらない。

限界に達した佐伯が最後に頼ったのは、大学の同期であり、音声認識と自然言語処理のスタートアップを経営している天才プログラマー、桐野玲治だった。

「脳波と聴覚野のバグ、か。面白いね」

都内の雑居ビルにある桐野のオフィスで、彼は薄暗いディスプレイの光に照らされながら、興味深そうに眼鏡の奥の目を細めた。
桐野は佐伯の症状を聞いても、決して狂人扱いはしなかった。それどころか、顎に手を当てて嬉々として分析を始めた。

「君の脳は、他人が発する微弱な電磁波や脳波を、何らかの理由で音信号として受信してしまっているんだ。だが、君自身の脳の言語野がそれを直接解釈できないから、防衛反応として『未知の言語』に変換して聴かせている。つまり、彼らの本音が、君の脳内で勝手に暗号化されている状態だ」
「治るのか、これは」
「医学的なアプローチは僕の専門外だ」桐野は不敵に微笑んだ。「だが、工学的なアプローチなら可能だ。その暗号、僕がデコード(解読)してあげるよ」

桐野は数日間の徹夜を経て、一台のスマートフォンと、耳の裏に貼り付ける極小のパッチ型デバイスを佐伯に渡した。

「パッチで君が受信している『ノイズ』の波形を拾い、スマホのアプリに転送する。アプリに搭載した僕の特製AIエンジンが、その言語の文法規則とパターンをリアルタイムで解析し、日本語に翻訳する。名付けて『バベル』。試してみてくれ」

佐伯は半信半疑で、パッチを耳の裏に貼り付け、骨伝導イヤホンを装着した。アプリを起動する。

ちょうど、オフィスに入ってきた桐野の秘書の女性が、お茶を運んできた。
彼女の口は動いていない。だが、彼女の頭部から、あの未知の言語が聞こえる。
「――リ・ラ、ファ、テ・ニ・ル」
同時に、佐伯のスマホの画面に、滑らかな日本語がタイピングされるように表示された。

『今日もこの陰気な部屋で残業か。早く帰ってビール飲みたい』

佐伯は息を呑んだ。
「翻訳された……」
「どうだ? 合っているかい?」桐野がニヤリと笑う。
「わからない。でも、彼女が言いそうなことだ」

それが、すべての始まりだった。


「バベル」の精度は凄まじかった。
オフィスに戻った佐伯は、世界が一変したのを感じた。

上司の課長が「佐伯くん、期待しているよ」と肩を叩いた。
その瞬間、イヤホンから未知の言語が流れ、スマホの画面に翻訳が表示される。
『早くこいつに面倒な案件を押し付けて、手柄だけ奪おう』

同僚の高橋が「昨日勧めてくれた店、美味しかったよ」と笑顔で話しかけてくる。
『あんな安っぽい店をよく自慢できるな。貧乏人の舌は哀れだ』

恋人の香織とレストランで食事をしている時。
「康介さんと一緒にいると、本当に落ち着く」
『早くプロポーズしてくれないかな。彼の会社の福利厚生は一流だし、実家も太いから、結婚したら仕事辞められる』

剥き出しの悪意、打算、軽蔑。
言葉の裏に隠された醜悪な本音の数々が、冷徹なテキストとなって佐伯の視界に突き刺さる。
最初はショックだった。しかし、次第に佐伯は奇妙な万能感に支配されていった。他人の本音が筒抜けであるということは、人間関係において圧倒的な優位に立てることを意味していた。

課長の企みを先回りして回避し、同僚の裏切りを未然に防ぎ、香織の求める「理想の男」を完璧に演じる。佐伯の評価は急上昇し、人生は完璧にコントロールされているように思えた。

だが、薬物のような万能感の裏で、佐伯の精神は確実に摩耗していった。
誰も信じられない。世界中の人間が、笑顔の下にナイフを隠している。
耳の裏のパッチを外すと、再びあの不気味な未知の言語だけが脳内を埋め尽くすため、彼は一時も「バベル」を手放せなくなっていた。

ある夜、香織と彼女のマンションで過ごしていた時、決定的な破綻が訪れた。

テレビを見ながら、香織が微笑みかけてきた。
「ねえ、康介。私たち、そろそろ一緒に暮らさない?」

佐伯は反射的にスマホの画面を見た。

『死ねばいいのに。早く死んで、私の自由になってよ。こいつの保険金、いくらになるかな』

佐伯の指先が、凍りついたように動かなくなった。
(保険金? 一緒に暮らし始めて、僕を殺すつもりなのか?)
香織の顔を見る。穏やかな、いつもの優しい笑顔だ。だが、佐伯の耳には、彼女の頭から発せられる「ル・シ、マ、ク・ト……」という不気味な呪詛が響き続けている。

「……康介? どうしたの、怖い顔して」
「いや、なんでもない。ちょっと体調が悪くて」

佐伯は這うようにして彼女のマンションを飛び出した。
夜の街を彷徨う。すれ違う見知らぬ人々からも、恐ろしい翻訳が次々とスマホに送られてくる。

「すみません、道を聞いてもいいですか?」と尋ねてきた老紳士。
『こいつをナイフで刺したら、どんな声を上げるだろうか』

「迷子になっちゃったの」と泣きそうな顔で立っている少女。
『バカな大人。財布を盗んでやろう』

(おかしい)
佐伯は頭を抱えた。
(世界はこんなに狂っているのか? 誰も彼もが、狂気と殺意を秘めて生きているというのか?)

恐怖と睡眠不足で視界が歪む。佐伯は深夜のオフィスビルへ向かった。桐野の元へ。このアプリのバグに違いない。言語解析のアルゴリズムが狂っているのだ。そう思わなければ、狂ってしまいそうだった。


ビルは静まり返っていた。桐野のオフィスの扉を叩くと、中から鍵が開いた。
徹夜仕事の途中だったのか、桐野は缶コーヒーを手にして、いつもと変わらない薄笑いを浮かべて佐伯を迎えた。

「やあ、佐伯。ずいぶん酷い顔をしているな。バベルは役に立っているかい?」
「桐野、おかしいんだ」佐伯は桐野の肩を掴んだ。「アプリが壊れている。街中の人間が、僕を殺そうとしているような本音を吐き出しているんだ。香織も、僕を殺して保険金を狙っているなんて……そんなはずがない!」

桐野は佐伯の手を優しく払い、ソファに座るよう促した。
「落ち着けよ、佐伯。バグなどない。僕のプログラムは完璧だ。人間というのはね、理性の皮を一枚剥げば、そんなものさ。君は今まで、綺麗事の世界に生きていただけなんだよ」

その時、佐伯の耳の奥で、桐野から発せられる「未知の言語」が聞こえた。
「――テ・ラ、ヌ、シ・ミ……」

佐伯は震える手でスマホを見た。画面が更新される。

『哀れな実験体。完全に精神が壊れたな。次はどんな嘘を吹き込んでやろうか』

佐伯は息を止めた。
心臓が警鐘を鳴らすように激しく鼓動する。
画面を見つめ、それから桐野の顔を見た。桐野は心配そうな表情で佐伯を見つめている。

(今……アプリはなんて言った?)
『次はどんな嘘を吹き込んでやろうか』?

佐伯の脳裏に、冷たい疑惑の針が突き刺さった。
「桐野、君は……今、何を考えている?」
「何をって、君の心配をしているよ。少し休んだ方がいい」

未知の言語が流れる。「――ド・ラ、ポ、キ・サ」
画面が更新される。
『この愚か者。僕の最高傑作の玩具。大学時代から君の薄っぺらい善人面が気に入らなかったんだ』

佐伯の頭の中で、ジグソーパズルのピースが急速に噛み合っていった。
「大学時代……?」
佐伯と桐野は同じゼミだった。当時、佐伯が優秀賞を取った研究論文は、実際には桐野のアイデアをベースにしたものだった。佐伯に悪気はなかったが、桐野にとっては一生の恨みだったのかもしれない。

「桐野、このアプリの仕組みをもう一度説明してくれ」
「言っただろう? 君の脳波をデコードしているんだ」
「嘘だ」

佐伯はスマホを桐野に突きつけた。
「このアプリは、翻訳なんかしていない」

桐野の眉が、ピクリと動いた。

「君は、僕が『他人の心の声が外国語で聞こえる』という奇妙な錯覚――あるいはただの幻聴を抱えて駆け込んできたのを利用したんだ。僕が耳の裏に貼っているこのパッチ。これは、脳波を送信しているんじゃない。逆に、僕の脳に『未知の言語の音信号』を送信しているんだ!」

佐伯は耳の裏のパッチを無理やり剥ぎ取ろうとした。しかし、パッチは皮膚に強力に癒着しており、剥がそうとすると皮膚が裂けるような激痛が走った。

「う、ああっ!」
「やめておけ」桐野の声が、冷淡なトーンに変わった。「特殊な医療用ナノ接着剤を使っている。無理に剥がせば、耳介神経を傷つけて一生、本当の難聴になるぞ」

桐野はゆっくりと立ち上がり、コーヒーを一口飲んだ。その表情から、先ほどまでの「友人としての心配」は綺麗に消え去っていた。

「察しがいいな、佐伯。さすがは僕のアイデアを盗んで優秀賞を取った男だ」
「やっぱり……」
「そうだよ。君が最初に聞いた『外国語』は、ただの突発性の耳鳴り、あるいは一時的な聴覚過敏だ。それを君が深読みして勝手に怯えていた。だから僕は、君に本物の『外国語』を聴かせてやることにした。そのパッチは、超指向性の骨伝導スピーカーだ。君の脳が認識しやすい特定の周波数で、僕が合成した『架空の言語』の音声を流し続けている」

「じゃあ、この翻訳画面は……」
「僕が裏で操作している、ただのチャットボットだよ」桐野はスマホを操作しながら、冷酷に笑った。「君のスマホの位置情報、マイクが拾った周囲の会話、そして君が事前に登録していた人物リスト。それらを元に、AIが『最も君を疑心暗鬼にさせるテキスト』を生成し、画面に表示していただけだ。君が絶望し、周囲を疑い、自滅していく様子を見るのは、本当に最高のエンターテインメントだったよ」

佐伯は全身の血が引いていくのを感じた。
「香織が僕を殺そうとしているというのも……全部、君が作った嘘か!」
「当然だろう? 彼女は君を心から愛していたさ。だが、君は僕の作った『偽りの本音』を信じて、彼女を捨てた。自分の手で、大切なものを壊したんだよ、佐伯」

「この、悪魔が……!」

佐伯は桐野に掴みかかろうとした。しかし、足に力が入らず、床に崩れ落ちた。パッチから絶え間なく流される高周波のノイズが、彼の平衡感覚を奪っていた。

「返せ……僕の日常を、耳を元に戻せ!」
「戻す? どうやって?」桐野は冷ややかに見下ろした。「君の脳は、もうこの『外国語』と『翻訳』のサイクルに依存してしまっている。パッチを外せば、君の脳は深刻な感覚遮断を引き起こし、今度こそ本物の精神病に陥る。君は一生、僕のデバイスなしでは生きていけない身体になったんだよ」

桐野はしゃがみ込み、ぐったりとした佐伯の耳元に口を寄せた。

「これからは、僕が君の世界の神だ。君が誰を信じ、誰を憎むか、すべて僕がこの画面を通じて決めてあげる」

佐伯の視界の中で、床に落ちたスマホの画面が、不気味に明滅している。
耳の奥では、絶え間なく、未知の言語が囁き続けていた。

「――キ、ロ・マ……デ、ス・タ」
「――キ、ロ・マ……デ、ス・タ」

アプリの画面には、ただ一行、赤い文字で表示されていた。

『もう、引き返せない』

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