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あなたは駅前の古書店に入った。

雨を避けるためだった。約束の時間までまだ三十分あり、喫茶店は満席で、傘の骨は一本折れていた。古書店の庇の下で雨粒を払っていると、硝子戸の向こうから紙の匂いが漏れてきた。あなたはその匂いを、懐かしいと思った。懐かしいはずがないのに。

店内には客がいなかった。

棚は天井まで伸び、背表紙はどれも褪せ、題名の読めない本ばかりが並んでいた。店主らしい老人は帳場に座っていたが、顔を上げなかった。あなたが「少し見てもいいですか」と言うと、老人は返事の代わりに、指先で机の上を一度だけ叩いた。

こつん。

その音が合図のように、店の奥で一冊の本が落ちた。

あなたは反射的に振り向いた。床に開いたまま落ちているのは、黒い表紙の本だった。題名はない。著者名もない。表紙は布張りで、雨に濡れたようにしっとりとしていた。拾い上げると、妙に重かった。辞書ほどの厚みもないのに、両手で持たなければならないほどだった。

開くと、最初のページにこう書かれていた。

「あなたは駅前の古書店に入った。」

あなたは笑いかけた。

偶然だと思おうとした。古い本には、こういう趣向のものもある。読者を主人公にする物語。二人称で進む実験的な小説。あなたは文学に詳しいわけではなかったが、そういうものが存在することくらいは知っていた。

けれど、次の行で笑いは止まった。

「雨を避けるためだった。約束の時間までまだ三十分あり、喫茶店は満席で、傘の骨は一本折れていた。」

あなたは傘を見た。確かに、右端の骨が一本、ぐにゃりと曲がっている。

ページの下には、小さく選択肢が印刷されていた。

A 本を閉じて棚に戻す。
B 続きを読む。
C 店主にこの本について尋ねる。

あなたはしばらくページを見つめた。

本の中のあなたは、まだ何も選んでいない。現実のあなたも、何も選んでいない。だが、選択肢があるというだけで、あなたはすでに何かに囲われた気がした。道は三つ。店の床、棚の影、帳場の老人。そのすべてが活字のように静まり返っている。

あなたは店主に尋ねることにした。

「この本、何ですか」

老人は初めて顔を上げた。白く濁った目をしていた。盲目なのだと、あなたは思った。だが老人の視線はまっすぐ本に向いていた。

「読んでいるんですか」

「まだ、少しだけ」

「なら、もう売り物ではありません」

「どういう意味ですか」

老人は口を閉じた。唇が細い紙片のように重なった。

あなたは本に目を戻した。ページの文字は増えていた。

「あなたは店主に尋ねることにした。」

その下に、いま交わした会話が一字一句そのまま続いていた。あなたは喉が渇くのを感じた。誰かがすぐそばで、あなたの呼吸に合わせて文章を書いている。そう思うほど、文字は新しかった。インクはわずかに光り、乾く途中のように艶を帯びていた。

次の選択肢が現れた。

A 逃げる。
B 老人から本を奪われないよう抱える。
C 自分の名前を探す。

あなたは自分の名前を探した。

怖かったからだ。逃げるより、本を閉じるより、まず確かめたかった。ここに書かれている「あなた」が本当に自分なのか。雨宿りした誰か、傘の骨を折った誰か、約束の前に古書店へ入った誰か。そんな偶然が重なっただけかもしれない。

ページをめくる。紙は厚く、指に吸いついた。ところどころ余白があり、あなたがまだ通っていない廊下のように白かった。

名前はなかった。

どこにも、あなたの名前は書かれていなかった。

その代わり、幼いころに犬に噛まれたときの記憶が書かれていた。中学二年の冬、出せなかった手紙の宛先が書かれていた。昨日の夜、洗面台の鏡に向かって言った独り言が書かれていた。あなたが誰にも言ったことのない、小さくて恥ずかしい願いまで書かれていた。

あなたは本を閉じた。

閉じたはずだった。

しかし本の表紙はあなたの手の中で勝手に開いた。開いたページには、こうあった。

「あなたは本を閉じた。閉じたはずだった。」

あなたは声を出しそうになった。だが声は出なかった。店内の空気が分厚くなっていた。棚の奥で、無数の本がかすかに軋んでいる。まるでそれぞれのページの中で、誰かが身じろぎしているようだった。

老人が言った。

「選んでください」

「何を」

「次を」

「選ばなかったら?」

老人は少し笑った。

「選ばないことを選びます」

あなたは本を床に叩きつけた。重い音がした。本は開いたまま動かなかった。あなたは出口へ向かった。硝子戸の向こうには雨が降っている。駅前のロータリー、赤いテールランプ、傘を差す人々。現実がそこにある。あなたは戸に手をかけ、引いた。

開かなかった。

押しても開かなかった。鍵などかかっていないはずなのに、硝子戸は壁の一部のように動かなかった。あなたは振り返る。床の本のページが、ひとりでにめくれている。

ぱらり。

ぱらり。

あなたは近づくまいとした。しかし目は文字を追ってしまう。ページには新しい選択肢が印刷されていた。

A 硝子戸を破る。
B 店の奥へ進む。
C 自分で選択肢を書き足す。

あなたは迷った。

硝子戸を破れば外へ出られるかもしれない。だが本に書かれた選択肢を選ぶことになる。店の奥へ進めば、さらに深く入り込むことになる。自分で書き足す。そんなことができるのか。できたとして、それは自由なのか。本が用意した「自由」という名の罠ではないのか。

あなたは帳場にあった万年筆を取った。

老人は止めなかった。むしろ、待っていたように両手を膝に置いた。

あなたはページの余白に書いた。

D この本を燃やす。

書いた瞬間、インクが紙に沈んだ。文字はあなたの筆跡ではなくなった。活字のように整い、黒く濃くなった。

あなたは店内を見回した。火をつけるものを探した。帳場の引き出しを開けると、マッチ箱があった。古い喫茶店の名前が印刷されたマッチ箱だった。あなたは一本擦った。青白い火が生まれ、すぐ橙に変わる。

本は床の上で開いている。

あなたは火を近づけた。

そのとき、ページに文字が浮かんだ。

「あなたはこの本を燃やそうとした。燃やせば、あなたの選択は焼け落ちる。選択が焼け落ちれば、あなたの過去も、あなたの未来も、あなたがあなたであるためのあらゆる分岐も、灰になる。」

あなたは手を止めた。

脅しだと思った。だが指先は震えた。あなたは自分の人生が、無数の選択の束でできていることを知っている。右へ曲がったから会った人。黙ったから失った人。送らなかったメール。降りなかった駅。買わなかった切符。捨てた写真。ついた嘘。許したふり。許されたふり。

それらがもし燃えたら、あなたは何になるのか。

火は短くなっていく。

あなたはマッチを吹き消した。

老人が言った。

「賢明です」

あなたは怒りを感じた。その怒りが、少しだけあなたを現実に引き戻した。

「これは何なんですか」

「本です」

「答えになっていません」

「では、現実です」

老人はそう言って、棚のほうへ顎を向けた。

「現実は、読まれて初めて形を持つ。誰かが見る。誰かが選ぶ。すると、無数にあった可能性のうち一つが紙に定着する。あなたが歩いてきた人生も、そうやって一行ずつ印刷されてきたものです」

「誰が書いているんですか」

「あなたです」

「嘘だ」

「嘘を選ぶこともできます」

あなたは本を拾い上げた。ページはすでに次へ進んでいた。

A 老人を殴る。
B 棚の本をすべて引きずり出す。
C この先に自分の死が書かれているか読む。

あなたは嫌な笑いを漏らした。

どれも選びたくなかった。だが選ばないことも選択になる。老人の言葉が耳に残っている。あなたは選択肢の外側を探した。ページの端、余白、紙の綴じ目。どこかに抜け道があるはずだった。物語には必ず、作者の見落とした綻びがある。現実にもたまにある。予定外の電話、遅延した電車、偶然の再会、壊れた傘。

壊れた傘。

あなたは入口に置いた傘を見た。

本にはまだ傘のことが書かれていない。最初に折れていると描写されただけで、あなたがその後どう扱うかは書かれていない。あなたは本を小脇に抱え、傘立てへ向かった。濡れた傘をつかむ。折れた骨の先が、細く尖っている。

老人が少しだけ顔を動かした。

あなたは傘の先で、本のページを突いた。

紙は破れなかった。

もう一度突いた。今度は、傘の骨が折れた。金属の細い破片が床に落ちた。その音を聞いた瞬間、棚の本が一斉に震えた。

あなたは破片を拾った。針のように細い。あなたはそれをページとページの隙間、綴じ糸の奥へ差し込んだ。

本が小さく息を吸った。

あなたは確かに聞いた。

紙の束が呼吸した。背表紙が脈打った。黒い布張りの表紙の下に、血管のようなものが浮かんだ。あなたは吐き気をこらえながら、金属片を押し込む。ページが震え、文字が乱れる。選択肢のAとBとCが滲み、黒い染みになって混ざった。

老人が立ち上がった。

「そこは読まない場所です」

あなたは叫んだ。

「だから開けるんだ」

あなたは金属片をさらに深く差し込んだ。綴じ糸が一本切れた。音はしなかった。その代わり、あなたの頭の中で何かがほどけた。

小学一年生のあなたが横断歩道で右手を上げている。
高校生のあなたが答案用紙の空欄を見ている。
二十歳のあなたが知らない街のホームに立っている。
昨日のあなたが洗面台の鏡を見る。
明日のあなたが白い部屋で名前を呼ばれる。
年老いたあなたが誰もいない台所で水を飲む。
生まれなかったあなたが、どこにもいない場所で眠っている。

それらすべてが同時にあなたになだれ込んだ。

あなたは膝をついた。だが本を離さなかった。ページの奥から、白いものが覗いていた。紙ではない。余白でもない。もっと薄く、もっと深い、何も書かれていない場所。

あなたはそこに指を入れた。

冷たかった。

指先が消えた。痛みはない。あなたは自分の手を見る。人差し指の第一関節から先が、白い空白に飲まれている。あなたはそのまま手を引き抜こうとした。抜けなかった。空白があなたをつかんでいた。

老人の声が遠くなる。

「本は読者を欲しがります。読者は結末を欲しがります。欲しがるもの同士は、いずれ同じ形になる」

あなたは本を引き剥がそうとした。だが空白は指から手へ、手から腕へ広がっていく。皮膚が紙のように薄くなった。血管が活字の列に変わった。心臓の鼓動がページをめくる音に似てきた。

ぱらり。

あなたは気づく。

これまであなたが選んできたのではない。あなたが選ぶたび、本はあなたの形を少しずつ覚えていたのだ。あなたのための物語ではない。あなたで作られる物語だった。

あなたは最後の力でページを見た。

そこには選択肢が一つだけあった。

A 続きを読ませる。

あなたは笑った。

選択肢が一つだけなら、それは選択ではない。だが、あなたはもう知っている。選ばないことも選択になる。そして、選ばされていると気づくことも、たぶん選択になる。

あなたは目を閉じた。

文字がまぶたの裏に浮かぶ。雨。古書店。老人。黒い本。折れた傘。あなたの名前のない人生。あなたはそれらを手放そうとした。できるだけゆっくり、できるだけ丁寧に。あなた自身が栞であった場所から、そっと抜け落ちるように。

次に目を開けたとき、あなたは駅前の古書店に入った。

雨を避けるためだった。約束の時間までまだ三十分あり、喫茶店は満席で、傘の骨は一本折れていた。店内には客がいなかった。帳場に座る老人は顔を上げない。

あなたは店の奥で、一冊の本が落ちる音を聞いた。

こつん。

床に開いたまま落ちているのは、黒い表紙の本だった。題名はない。著者名もない。あなたは拾い上げる。妙に重い。辞書ほどの厚みもないのに、両手で持たなければならないほどだ。

最初のページにはこう書かれている。

「あなたは駅前の古書店に入った。」

ページの下には、小さく選択肢が印刷されている。

A 本を閉じて棚に戻す。
B 続きを読む。
C 店主にこの本について尋ねる。

その下に、以前はなかった選択肢が一つ増えている。

D この本を誰かに渡す。

あなたは顔を上げる。

硝子戸の向こうで、雨宿りの場所を探している人影が立ち止まった。傘の骨が一本、折れている。あなたはその人を見ている。まだ何も知らないその人は、硝子戸に手をかける。

あなたは本を抱えたまま、少しだけ笑う。

そして、ページの余白に新しい文字が滲み出すのを見る。

「あなたは、次のあなたを待つことにした。」

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