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登場人物
高瀬律子(たかせ・りつこ):三十代半ばの編集者
黒崎佳志(くろさき・よし):廃業間近の探偵
店主(仮名「鳥越」):記憶売買の「店」を営む謎の人物
小野寺保(おのでら・たもつ):律子のかつての恋人

※物語は全編、2026年6月20日午後9時——とある商店街の裏道を舞台に、3人の視点が章ごとに交錯しながら進み、各々の「同じ時間・同じ場所」での行動が描かれる。

第一章 律子の視点——午後9時00分
 遠ざかる足音。薄暗い商店街。
 高瀬律子はため息をつき、スマートフォンの画面を見直した。通知は何もない。
 「……本当に、来るのかな」
 待ち合わせ場所は、古びた提灯が吊るされた裏路地。取材で噂を掴んだ、“記憶を売買する店”を確かめるためだった。
 通りの角。ほの暗いランプの下、男がひとり静かに立ち尽くしている——黒崎探偵だ。
 「遅いな」
 律子は彼の背中に呼びかけかけてやめた。今夜、自分は“記憶”を買うつもりはない。ただ、失いたい過去にどう向き合えるのか、その手がかりだけでも知りたかった。
 ふっと路地から、古い扉が軋む音がした。
 
第二章 黒崎の視点——午後9時00分
 煙草に火を点け、煙を深く吸い込む。
 黒崎佳志は案内された店の前に立っていた。元警察官、今は探偵。だが探偵業も先行きは暗い。依頼でこの“記憶の店”を調べにきた。
 「記憶を消してくれる場所がある……そう娘が囁いたんです」
 ――数日前、年配の女が事務所を訪ねてきたのだ。「娘が“消したい過去”をここで売った、と言うんです」
 どんなトリックか、どんな詐欺か。
 黒崎は背後をちらと見る。女が一人、こちらを見ては足を止めかけ、そのまま見失う。
 ちょうどその時、小さなカランという音とともに、奥の店のガラス戸が開いた。
 
第三章 店主の視点——午後9時00分
 客が来る。足音だけでわかる。
 鳥越は、暗いカウンターの後ろで椅子に腰かけ、クラシックなレジを指で叩いた。
 「……さて、今日は三人」
 まずは作家風の女。彼女は“取材”目的。けれど探すのは、どうしても捨てきれない過去。
 続いて探偵の男。彼は客ではない、調査者だ。
 三人目は、少し遅れて現れる——律子がかつて恋した男、小野寺。
 人生で一番大切な記憶を、今日は誰が手放すのか?
 
第四章 小野寺保の視点——午後9時00分
 商店街裏、店の看板を見上げる。「記憶を売ります・買います」——冗談みたいな書体。
 小野寺は手が震えていた。律子からの呼び出しで、ここに来ると決めたのは三日前。
 「彼女ともう一度、やり直したい」
 何度願っても、昔の失敗が胸にこびりつく。
 律子の幸せそうな記憶さえ、いまは自分には痛みとなった。すべてを“売れば”、やり直せるのだろうか。

第五章 律子の視点——午後9時03分
 扉が開き、カウベルが細く澄んだ音を立てる。
 店の奥は本当に古い骨董屋のようだ。先にいた男と、カウンターの奥の店主らしき銀髪の老人が律子を見ている。
 「いらっしゃいませ」
 律子は少し緊張しつつ、名刺を差し出した。
 「取材で……」
 「過去を手放す取材ですか?」
 問われたその声音に、胸の奥の記憶がチクリと疼く。
 
第六章 黒崎の視点——午後9時03分
 女が入ってきた。どこか面差しに見覚えがある。
 黒崎はカウンターに座り直し、視線を逸らす。
 自分は今日、調査のためだけにここにいる。だが“個人の記憶の売買”がもし本当なら、それ自体が犯罪なのではないか。
 警察を辞めた理由も「忘れたい記憶」のせいだった。
 どうにも、あの女の肩越しの影が自分自身のものに重なるのだった。
 
第七章 店主の視点——午後9時03分
 律子と黒崎、同じ時間に店を満たす空気がねじれ始める。
 今日は珍しく「客」が三人になる。もうひとりの男が、数分後に現れる予定。
 カウンターの下には、美しい万年筆と、使い込まれた帳簿。
 「記憶は商品。売ることも、買い戻すこともできる。その価値は、本人にも分からないことが多い」
 鳥越は静かに二人を見比べた。
 
第八章 小野寺保の視点——午後9時05分
 店の扉を押すと、どこか懐かしい香りが流れてきた。
 律子がカウンター越しの椅子に、黒崎がうつむいて斜め向かいに。店主が微笑む。
 「三人揃いましたね」
 小野寺は律子と目を合わせる。
 「あの、律子……」
 律子も彼に気づき、立ち上がろうとした。そのとき、カウンターに並ぶ「記憶の小瓶」がガラスに光るのを見た。
 
第九章 律子の視点——午後9時05分
 小野寺保。あの日、自分の決断で傷つけてしまった人。
 律子は心臓が音を立てて高鳴るのを感じる。いま本当に欲しいのは、新しい未来か、忘却か。それとも――
 「律子、僕、全部……」
 小野寺の瞳が揺れている。
 鳥越が静かに促す声。「売りたい記憶があれば、紙に記してください」
 律子のペンが震える。
 
第十章 黒崎の視点——午後9時07分
 店は静まり返る。
 女と男は、どちらも苦しそうだ。
 黒崎は思う。「なぜ、この記憶を手放したい?」
 依頼人の娘が消したがったのも、“父と別れた日”の記憶だった。
 自分も手放せるなら、あの日の現場の血の匂いを消したい――でも、その記憶を消せば、自分はもう自分でなくなってしまう。
 
第十一章 店主の視点——午後9時08分
 三人とも、手元の用紙に何かを記し終えた。
 律子:小野寺との別れの記憶
 黒崎:警官時代最後の事件の記憶
 小野寺:律子と出会い、幸せだった記憶すべて
 鳥越はページをめくり、微笑む。
 「記憶には売り主の“痛み”が宿ります。引き取る覚悟はございますか?」
 三人の視線が絡み合う。その沈黙の奥に——記憶が、いまも確かに生きている。
 
終章 午後9時10分
 扉の外に夜の雨が降り始めた。
 誰もまだ席を立たず、ただ黙って互いの顔を見ている。
 律子の声が震えて低く響く。
 「やっぱり……私は、あの夜の記憶を売りません」
 小野寺が唇を噛む。「僕も――いま、思い出せてよかった」
 黒崎はゆっくりと立ち上がった。
 「記憶は確かに重い。でも、“消す”より、“背負う”ことからやり直したい」
 鳥越が一礼する。「ご来店ありがとうございました。記憶は商品ではない、ときのためにも」
 三人は、記憶を胸にそれぞれの夜道へ歩き出す。
 そして店の明かりが、静かに消えた。

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