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母が死んだ朝、わたしは冷蔵庫のうなりを聞いていた、あれはたしか雨の音に似ているけれど雨ではなく、雨という言葉を母の言葉で何と言ったか、舌の裏を探す、歯茎の影にまだ残っているはずなのに、出てこない、出てこないものは初めからなかったみたいに静かで、でも違う、あった、母が窓を開けて、山のほうを指して、あの匂いがすると言った、その言葉、湿った土と古い木の皮と牛の背中の熱を一緒に丸めたような音、わたしは幼くて笑った、母も笑った、笑ったとき母の前歯に青菜が挟まっていた、どうしてそんなことばかり覚えているのに言葉そのものは落ちてしまうのだろう、落ちた言葉はどこへ行くのだろう、排水口か、墓の下か、あるいはまだわたしの喉に貼りついていて、ただ濡れて膨らみすぎ、発音できないだけなのか。

葬儀屋の男が標準語で、こちらにお名前を、と言ったとき、わたしは母の名を書いた、戸籍の名、学校で呼ばれ、病院で呼ばれ、銀行のカードに印字された名、けれど母にはもう一つ名前があった、家の中でだけ生きる名前、火をつけるとき、飯をよそうとき、夜中に咳をしたとき、祖母が呼んだ名前、祖母の母が呼んだ名前、わたしも昔は呼べた、呼んだ、でも最後に呼んだのはいつだったか、たぶん中学二年の冬、友だちが家に来て、母が奥からその言葉でわたしを呼び、友だちが、何それ外国語、と笑い、わたしは熱くなって、やめてよ、と言った、やめてよ、やめてよ、そのとき母の顔はふっと閉じた、戸が風で閉まるように、音もなく、その日から母はわたしの前で少しずつ標準語になった、標準語の母は薄かった、湯でのばした味噌汁みたいだった、でもわたしは安心した、恥ずかしくなかった、恥ずかしくないということは何かを殺すことなのだと、あのころ知っていれば、いや知っていたのに知らないふりをした、知らないふりも一つの刃物で、わたしはそれを毎日磨いていた。

火葬場の煙突は空に刺さっていて、煙は見えなかった、今は煙を見せないのだと誰かが言った、環境に配慮して、と、母の骨は白く、係員が箸で拾ってくださいと言い、わたしは拾った、これは喉仏です、と言われた骨を見て、ここにあの音があったのかと思う、雨、山羊、眠れ、熱い、帰っておいで、だめ、いい子、ばか、かわいい、全部ここを通った、ここで震えた、それをわたしは拾って骨壺に入れる、言葉は骨にならないのか、ならないから困るのか、骨なら拾えるのに、骨なら名前をつけて箱に入れられるのに。

家に戻ると、畳が母の形に少しくぼんでいた、嘘だ、畳はそんなに柔らかくない、でもわたしには見えた、母が座っていたところ、膝の角度、新聞の折り目、湯飲みの輪染み、テレビのリモコンの数字、八チャンネルだけ押しすぎて薄れている、台所に行くと、壁に貼られた古いカレンダー、母は今年の三月からめくっていなかった、四月も五月も来なかった、母の中では三月のまま、わたしが電話をしたのは何回だったか、忙しいと言った、また今度と言った、また今度は言葉の墓地だ、そこにはいくつもの声が埋まっている、今度聞こう、今度録音しよう、今度教えてもらおう、今度、今度、今度、墓標ばかり白く立っている。

押し入れの奥から黒いカセットテープが出てきた、ラベルに母の字で、ばあちゃん、と書いてある、ばあちゃん、祖母、わたしが七歳のとき死んだ、口元にいつも砂糖をつけていた祖母、風呂を嫌がる祖母、夜になると歌った祖母、意味のわからない歌、わからないから眠れた歌、わからないものに包まれるのは安全だった、わかるものばかりになると世界は角張る、標準語の世界は机の角みたいに膝を打つ、母の言葉は布だった、濡れた布、乾いた布、破れた布、母はそれを畳んでしまい、わたしはその箪笥に鍵をかけた。

ラジカセを探す、今の家にはもうラジカセがない、母の部屋の棚に小さな灰色の機械があった、電池の蓋が黄ばんでいる、コンセントを差す、巻き戻しのボタンを押すと、ぎゅるぎゅるぎゅる、と細い獣が走る音、再生、ざあ、ざあ、海か、雨か、テープの擦れる音か、その向こうで祖母の声、あ、と思う、声は骨より生々しい、死んでいない、いや死んでいるのに死んでいないふりがうまい、祖母が何かを言う、母が若い声で笑う、聞き取れない、聞き取れない、わたしは音量を上げる、祖母の声が割れる、母が、もう一回言って、と言う、祖母が言う、言葉の粒が転がる、丸くて、硬くて、少し湿っている、わたしの舌が勝手に動く、あ、これ、これ知ってる、でも意味が来ない、意味が遅れている、駅に置き去りにされた子どもみたいに、音だけ先に電車へ乗って行った。

テープの中で祖母は鳥の名前を並べている、たぶん、声の上がり方でわかる、母が一つずつ標準語に直している、これは雀、これは鴉、これは、これは何だろう、母が黙る、祖母が笑う、二人で笑う、わたしはその笑いを聞きながら、名前のない鳥を想像する、名前がないのではなく、わたしにない鳥、祖母の空には飛んでいて、母の空にもまだ飛んでいて、わたしの空では絶滅した鳥、その羽音がテープの磁気に絡まって、ざあ、ざあ、と鳴っている。

大学の研究者から連絡が来たのは、母の死の二週間後だった、地域言語の記録をしている者です、お母様に以前お話を伺う予定で、と丁寧なメール、予定、また今度の別名、母は約束していたのか、わたしには何も言わなかった、いや言ったかもしれない、あの人から電話が来て、と言った母に、詐欺じゃないの、とわたしは言ったかもしれない、知らない人に話さないで、と言ったかもしれない、母は、そうね、と言ったかもしれない、かもしれないの沼に足を入れると、膝まで沈む、腰まで沈む、口まで沈む、それでも息はできないのに後悔だけは肺に入ってくる。

研究者は若い女で、髪を後ろで束ね、玄関で深く頭を下げた、申し訳ありません、と何度も言う、なぜこの人が謝るのか、謝るべきなのはわたしだ、でも謝る相手は骨壺になっていて、骨壺は返事をしない、女は録音機を机に置き、もし何か資料があれば、と言った、わたしはカセットを見せる、女の目が光る、その光に腹が立つ、宝物を見つけた子どもの目、これはわたしの母の声だ、あなたの論文の材料ではない、そう思うのに、同時に、持っていって、保存して、どこか寒くて安全なサーバーに入れて、火事でも洪水でも消えないようにして、とも思う、わたしの中で二人が喧嘩する、一人は母を抱えて隠れようとし、一人は母を世界に差し出そうとする、どちらも母を失いたくないだけなのに。

その言語を話せる人は、もう何人くらいいるんですか、とわたしは聞く、女は少し黙り、流暢に話せる方は、確認できている限りでは、お母様が最後のお一人でした、と言った、最後、最後のお一人、言葉が部屋の真ん中に落ちる、重い、畳がへこむ、母が最後、母の口が閉じたとき、村も閉じた、地図にない村、川の曲がり方、雪の匂い、嫁入りの泣き方、子どもを叱る声、蛇を見たときの息の吸い方、全部、母の唇の内側に住んでいて、焼かれた、わたしは火葬場の赤いボタンを思い出す、押したのは職員だったか、親族だったか、誰でもいい、押された、炎がついた、舌が灰になった、最後のお一人、ならわたしは何なのだろう、最後の後に残ったもの、余白、誤植、発音できない注釈。

女は、断片でも覚えていらっしゃる言葉はありますか、と聞く、わたしは口を開ける、ない、と言おうとして、舌の奥がひっかかる、ひとつある、母が熱い鍋に触ったときに言う言葉、痛いではなく熱いでもなく、驚きと怒りと笑いが混じった短い音、わたしはそれを真似する、ひどい発音だと思う、女は録音機をこちらへ向ける、もう一度お願いします、と言う、もう一度、わたしは言う、音が部屋に落ちる、さっきより小さい、違う、母のとは違う、祖母のとはもっと違う、でも女はうなずく、ありがとうございます、と言う、その瞬間、わたしは泣きそうになる、ありがとうと言われるようなものではない、これは欠片だ、茶碗の破片、踏めば血が出る、でも破片にも模様は残っている。

夜、ひとりで母の布団に入る、匂いは薄い、洗剤と湿布と皮膚の甘い匂い、天井の木目が川みたいに流れている、わたしは覚えている言葉を探す、眠れ、たしか、母がわたしの背中を叩きながら言った、トン、トン、トン、三拍目が少し強い、眠れ、眠れ、標準語では命令だけど、母の言葉ではもっと丸かった、眠りが向こうから来るように呼ぶ音、子犬を呼ぶみたいに、わたしは暗闇でそれを言ってみる、間違っている、でも言う、もう一度、言う、舌が硬い、口の天井にぶつかる、息が足りない、母はどうやって言っていたのか、横向きで、少し鼻に抜けて、最後を飲み込む、そう、飲み込む、言葉は外へ出すだけではなく飲み込むものだった、家族の中で巡る汁だった、わたしはそれを吐き出して捨てたと思っていたけれど、少しは飲んでいたのかもしれない、胃の底に沈んで、今ごろ発酵しているのかもしれない。

朝方、夢を見る、母が台所にいる、若い母でも老いた母でもなく、全部の年齢の母が一度に立っている、祖母もいる、顔は見えない、二人はわたしに背を向けて話している、わたしは待って、と言う、標準語で言う、二人は振り向かない、待って、もう一回言って、雨は、鳥は、わたしの名前は、あなたの名前は、死ぬは、生きるは、忘れるは、許すは、何と言うの、母が振り向きかける、その口元から音がこぼれる、わたしは両手で受けようとする、でも音は水で、指の間から落ちる、床に落ちた音は小さな種になり、畳の目に入り込む、そこから細い芽が出る、芽は舌の形をしていて、無数に揺れる、母が笑う、祖母が笑う、わたしも笑う、笑いながら泣く、泣きながら目が覚める。

目が覚めてすぐ、忘れないうちにノートを開く、覚えている音を書く、カタカナでは足りない、ひらがなでも足りない、アルファベットでも足りない、どの文字もよそ者の靴を履いている、母の音は裸足だった、土を踏んでいた、でも書く、間違っても書く、書かなければ消える、書いても消えるかもしれない、けれど消え方が変わる、完全な闇ではなく、擦れた窓ガラスの向こうの灯りになる、わたしは雨の言葉を思い出せないまま、雨、と書き、その横に空欄を作る、空欄は穴ではなく畑だと思うことにする、いつか何かが出てくるかもしれない、出てこなくても、そこに何かが植えられていたことだけはわかる。

昼に雨が降り出す、冷蔵庫の音ではない、本物の雨、屋根を打ち、庭の草を濡らし、母の植えた葱の先に玉をつくる、わたしは窓を開ける、匂いが入る、湿った土、古い木の皮、牛はいないのに牛の背中の熱、あの朝の匂い、舌の裏が震える、もう少し、もう少しで届く、雨、雨、母の雨、祖母の雨、最後のお一人の雨、最後の後のわたしの雨、音が喉まで上がる、途中で崩れる、それでもわたしは声にする、誰にも通じない、研究者にもたぶん通じない、母なら笑って直す、違うよ、そうじゃないよ、と言う、その声が聞きたくてもう一度言う、違っていても言う、言うたびに、消えた村の戸がほんの少し開く気がする。

雨は降り続く、わたしは空欄の横に、今出たばかりの不確かな音を書く、震えた線で、母の字に似ていない字で、わたしの字で書く。

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