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頭痛。それも、脳の裏側を錆びた針で執拗に突き刺されるような、鈍く、不快な痛み。それが「転写(ダビング)」の後に必ず訪れる対価であることを、あなたは嫌というほど知っている。

「……シンクロ率、八十二パーセント。安定しています。聞こえますか、先生」

こめかみに貼り付けられた冷却ジェルの冷たさと、ノイズ混じりの声が、あなたを現実の泥濘へと引き戻す。 ゆっくりと目を開けると、そこはあなたの事務所を兼ねたラボだった。ホログラムのディスプレイが青白い光を放ち、目の前には心配そうにあなたを覗き込む助手――いや、共同研究者のセーラが立っている。

「大丈夫だ。少し、視界が二重に見えるだけだ」

あなたは掠れた声で答え、シートから身体を起こした。 失われた記憶を他人の脳から抽出し、自身の神経細胞に直接書き込む「記憶再構築技術(リ・コンストラクション)」。この近未来の都市において、あなたは被害者の最期の記憶を引き受け、死者の視点から事件を解決する唯一無二の探偵だった。

しかし、その代償は安くない。他人の人生を己の脳に招き入れるたび、あなた自身のオリジナルな記憶は少しずつ、砂のように指の隙間からこぼれ落ちていく。

「今回の被験者……いえ、被害者は『アリア・レイン』。二十四歳の大学生です。三日前、廃棄された地下鉄のホームで遺体となって発見されました。外傷はなく、死因は脳組織の過熱によるショック死。警察は薬物の過剰摂取で処理しようとしていますが、彼女の父親が納得せず、隠密に回収された彼女の『メモリー・チップ』が、あなたのもとに持ち込まれました」

セーラが差し出した端末には、アリアの生前の写真が映し出されている。 明るい栗色の髪、悪戯っぽく微笑む瞳。 だが、その写真を見た瞬間、あなたの胸に奇妙な締め付け感が走った。愛おしさ、そして、臓物を握り潰されるような激しい恐怖。

(おかしい)

あなたは自分の胸を手で押さえる。あなたはアリア・レインという女性に、今この瞬間まで一度も会ったことがないはずだ。これは彼女の記憶が、あなたの脳内で勝手に感情のネットワークを構築し始めている証拠だった。

「残されたラスト・ログは、彼女が死ぬ直前の約三分間。かなりノイズが混じっています。準備ができたら、追体験を開始してください」

セーラはそう言って、あなたの選択を待った。 あなたは一瞬、躊躇する。これ以上、他人の記憶を取り込めば、自分が誰であるかという境界線がさらに曖昧になる。昨夜、自分が幼少期に過ごした実家の住所を思い出そうとして、何も出てこなかった恐怖が、まだ背中に張り付いている。

だが、あなたにはこの仕事しかない。これだけが、あなたが「自分は探偵である」と自覚できる唯一の錨なのだ。

あなたは深く息を吸い、目を閉じた。 「接続しろ、セーラ」

次の瞬間、あなたの世界は反転する。

物理的な肉体は消え去り、あなたは冷たい雨の降るアスファルトを走っていた。 息が苦しい。喉の奥が焼けるように熱い。 ヒールの高い靴が泥水を撥ね、肺が破裂しそうなほど激しく波打っている。

(逃げなきゃ。あの人から、逃げなきゃ)

それはアリアの思考だ。しかし、いまその恐怖を感じ、足を動かしているのは他ならぬ「あなた」自身だった。 背後から、規則的な足音が迫ってくる。暗い路地裏、ネオンの光が不規則に点滅し、水たまりに反射して、万華鏡のように歪んでいる。

振り返ってはいけない。そう本能が告げているのに、あなたの首は勝手に後ろを向いた。 影が迫る。 フードを深く被った人影。その顔は、ノイズに塗りつぶされて見えない。だが、その人物が右手を差し出した瞬間、あなたの視界全体に強烈なホワイトアウトが発生した。

「――っ!」

あなたの身体がシートの上で大きく跳ねた。 呼吸が荒い。額から冷たい汗が流れ落ち、首筋を伝っていく。

「先生! 大丈夫ですか!?」 セーラがあなたの肩を掴んで揺さぶる。

「……見た。男だ。フードを被った男が、彼女を追い詰めて……何かを、彼女の首筋に押し当てた」 「凶器ですね? 毒物か、あるいは物理的なデバイスか……」 「わからない。だが、その時の感覚が残っている。冷たくて、金属質の……」

言葉を紡ぎながら、あなたは自分の右手に視線を落とした。 その手の甲に、小さな火傷の痕がある。 「……あれ?」 あなたは呟いた。 「この火傷、いつできたものだったか……」 「え? 何を言っているんですか、先生。それはあなたが三年前、旧市街の火災現場から生存者を助け出した時についた傷でしょう? 私が手当てしたんですよ」

セーラは怪訝そうな顔であなたを見る。 だが、あなたの脳内では、まったく異なるビジュアルが再生されていた。 それは、理科室のような場所で、アルコールランプの炎に誤って手をかざしてしまった、十代前半の「アリア」の記憶。その時、彼女の右手には、全く同じ位置に同じ形の火傷ができていた。

ゾッとするような寒気が背筋を走る。 (この火傷は、本当に俺のものか? それとも、今取り込んだアリアの記憶が、俺の肉体の認識すら書き換えているのか?)

「先生、顔色が最悪です。今日の捜査は中止して、一度マインド・クレンジングを――」 「いや、ダメだ。アリアの記憶が薄れる前に、彼女の足取りを追う」

あなたはセーラの手を振り払い、立ち上がった。 立ち上がった瞬間、世界の重心が一瞬だけ横にズレたような感覚がした。あなたが踏み締めている床は、ラボの金属床なのか、それともアリアが最期に歩いた、あの湿ったアスファルトなのか。

あなたはアリアが最後に訪れていたとされる、ダウンタウンのバー「ネオン・サイン」へと向かった。 ネオンの光が雨に濡れた路面を照らす様は、先ほど脳内で見た記憶の光景と完全に一致している。

「いらっしゃい」 バーテンダーの男が、うつろな目であなたを迎えた。 あなたは警察の手帳(それすら、本物かどうか一瞬疑わしくなる)を提示し、アリアの写真を見せた。

「この女性に見覚えは?」 バーテンダーは写真を一瞥し、肩をすくめた。 「ああ、アリアね。常連だったよ。いつも店の隅の席で、誰かを待っているようだった。でも、三日前の夜は違ったな。男と激しく言い争っていた」 「男? どんな男だ」 「さあな。ここらじゃ珍しくない、まともなスーツを着た男さ。顔は……よく覚えていない。ただ、そいつの右手の甲に、奇妙なタトゥーがあった。ギリシャ文字の『Ψ(プサイ)』のような形だ」

『Ψ(プサイ)』――超心理学、あるいは「精神(サイケ)」を意味する記号。 その瞬間、あなたの脳裏に、凄まじい勢いで「映像」が明滅した。

それはアリアの記憶ではない。 もっと古く、もっと深い、あなた自身の――いや、「あなた」のものであるはずの記憶。 白い壁。無機質な手術台。 誰かがあなたの頭部に電極を取り付けている。 「君の記憶は、今日から『探偵』のものになる。これまでの不要なノイズはすべて消去される」 冷酷な声。その声の主の右手の甲には――『Ψ』のタトゥー。

「う、あ……っ!」 あなたは頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。 「お客さん? おい、大丈夫か?」 バーテンダーの声が遠く聞こえる。

(俺は、誰だ?) 探偵としての十数年のキャリア。数々の難事件を解決してきた実績。 それらは本当に、自分自身が経験してきたことなのか? それとも、アリアのように、誰かから「転写」された他人の人生に過ぎないのか? もしそうだとしたら、オリジナルの「あなた」はどこにいる?

激しい嘔吐感に襲われながら、あなたはバーを飛び出した。 冷たい雨が顔に打ち付ける。 あなたの足は、無意識のうちに、アリアが死んだあの廃駅へと向かっていた。脳内のアリアの記憶が、強力な磁石のようにあなたを引き寄せている。

「逃げるな」と、脳裏で声がする。 それが自分の声なのか、アリアの声なのか、それとも全く別人のものなのか、あなたにはもう区別がつかない。

暗い、湿った地下階段を下りていく。 かつて多くの人々が行き交ったであろうプラットホームは、今や崩壊し、不気味な静寂に支配されている。 線路の跡に沿って歩いていくと、奥の暗闇から、カツン、カツンと、規則的な足音が聞こえてきた。

あの、アリアを追い詰めた足音だ。

あなたは懐から銃を抜き、安全装置を解除した。手が震えている。それは寒さのせいか、それとも恐怖のせいか。 「誰だ! 出てこい!」

暗闇から姿を現したのは、傘も差さずに雨漏りの下に立つ、一人の男だった。 仕立てのいいスーツ。そして、右手の甲には、歪な『Ψ』のタトゥー。

「やはり、ここに来たか。アリアの残滓に導かれて」 男の声は、驚くほど穏やかだった。しかし、その声を聞いた瞬間、あなたの脳内のニューロンが、ちぎれんばかりに激しく振動した。 間違いない。あなたの「消された記憶」の中で、あなたに「探偵」の記憶を植え付けた男だ。

「お前が……アリアを殺したのか。そして、俺の記憶を奪ったのも、お前なのか!」 あなたの叫びは、コンクリートの壁に虚しく反響する。

男は静かに首を振った。 「言葉が正確ではないな。私はアリアを殺してはいない。彼女は『耐えられなかった』のだ。適合率が低すぎたために、脳が焼き切れた。そして、君の記憶を奪ったというのも語弊がある。私は君に、最も素晴らしい『役割』を与えたのだから」

「役割……だと?」 「君は元々、名もなき記憶喪失の男だった。生きていく価値すらない抜け殻だ。そこに、私が『一流の探偵』の記憶データを流し込み、再構築した。君がこれまでに解決した事件、君が抱いている正義感、そのすべては我が研究所が作成したプログラムに過ぎない」

男は一歩、前に踏み出した。 「だが、記憶の移植には限界がある。長期間使用すれば、自己のオリジナリティと他者のデータが衝突し、やがて精神が崩壊する。アリアは、君の『前の段階』の実験体だった。彼女は君のオリジナルな記憶の一部を一時的に保管するための『器』だったのだよ」

「……何だと?」 頭が割れるように痛む。 アリアの記憶。あの温かい家族の思い出、友達と笑い合った日々。 そして、その記憶の奥底に隠されていた、一つの「鍵」。 それらは、かつてあなたが「探偵」にされる前に、確かに持っていた「本当のあなた」の記憶の一部だった。

「アリアは、君の失われた過去そのものだ。彼女は君の記憶を返しに来ようとして、私に追われ、自滅した。……さあ、選択の時だ」

男は懐から、小さなデバイスを取り出した。それは青く光る一光のチップだった。 「このチップには、アリアの脳から完全に回収した、君の『本物の過去』がすべて入っている。これを使えば、君は本当の自分を取り戻せる。自分がどこで生まれ、誰を愛し、なぜ『探偵』に仕立て上げられたのか、すべてがわかる」

男の口元が、歪な笑みに歪む。 「ただし、それを脳に書き込めば、現在君の脳内にある『探偵』としての記憶、経験、技術、そしてセーラと共に過ごした記憶は、容量オーバーで完全に消去される。君は、優秀な探偵としての『現在の自分』を殺し、ただの凡人である『過去の自分』に戻るか? それとも、その過去を永遠に捨て、偽りの探偵として生き続けるか?」

銃を構えるあなたの視界が、激しく歪む。 セーラの顔が浮かぶ。 「先生、シンクロ率は安定しています」 あの温かい、偽りの日常。

同時に、アリアの泣き顔が浮かぶ。 「返さなきゃ。あなたの、本当の人生を……」 冷たい雨、暗い路地裏。

あなたの指が、トリガーにかかる。 この男を撃ち殺し、過去を完全に葬り去るべきか。 それとも、銃を下ろし、悪魔の差し出すチップを受け取って「本当の自分」を再構築するべきか。

どちらを選んでも、現在の「あなた」という存在は、二度と元には戻らない。

「さあ、選びたまえ」 男の問いかけが、あなたの脳内で、無限に反響し続ける。

あなたは、ゆっくりと指に力を込めた――。

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