あなたは、その図書館を三十九歳の誕生日に見つける。
見つける、というより、迷い込む。会社帰り、雨を避けようとして、いつもは閉まっているはずの路地に入る。古い煉瓦塀の間に、細い階段が地下へ続いている。看板はない。ただ、濡れた石段の横に、小さな真鍮のプレートがあり、そこにこう刻まれている。
「読む者は、時を返す」
あなたは笑う。疲れているのだと思う。誕生日なのに残業で、誰からの電話にも出ず、コンビニの袋には冷めた弁当と缶ビールが一本。戻るべきだ、と頭ではわかっている。
けれど、階段の奥から紙の匂いがする。
古い本の、少し甘くて、少し埃っぽい匂い。あなたが子どものころ、町の図書館で夏休みの午後を過ごしたときの匂い。母が迎えに来るまで、あなたは児童書の棚の前に座り込み、ページをめくる音だけを聞いていた。あのころ、時間は減るものではなく、どこまでも広がるものだった。
あなたは階段を下りる。
扉は重い木製で、触れると温かい。押し開けると、鈴の音が鳴る。中は、想像したより広い。地下にあるはずなのに、天井は高く、上の方は霧のような闇に溶けている。棚が迷路のように続き、ランプの灯が本の背表紙を琥珀色に照らしている。
受付には、白髪の女性が座っている。年齢はわからない。七十歳にも見えるし、二十歳にも見える。目元だけがひどく若く、声だけがひどく古い。
「初めてですね」
あなたは頷く。
「ここは貸し出しをしていません。読むだけです」
「本屋ですか」
「図書館です」
女性は細い指で、カウンターに置かれた砂時計をひっくり返す。砂は上へ落ちていく。
「一冊読み終えるごとに、あなたの年齢は少し戻ります」
あなたは、また笑いそうになる。けれど笑えない。図書館の静けさが、それを冗談にさせてくれない。
「どのくらい?」
「本によります。短いものなら一日。長いものなら一年。あなたが本当に読んだなら、です」
「本当に?」
「文字を目で追うだけではだめです。物語の中へ入り、誰かの痛みを痛み、誰かの喜びを喜ぶこと。読み終えたとき、あなたの一部が変わっていなければ、時は返りません」
あなたは缶ビールの入った袋を握りしめる。
「戻りすぎたら?」
女性は、あなたをまっすぐ見る。
「戻りすぎる人は、たいてい最後に、自分の名前を読めなくなります」
意味がわからない。
けれどあなたは、棚へ向かう。
最初に手に取ったのは、薄い青い表紙の短編集だった。題名は『雨の日に帰る人』。あなたは窓際の席に座る。外などないはずなのに、そこには雨に濡れる街灯が見える。あなたはページを開く。
物語は、父親の葬儀に遅刻した男の話だった。彼は電車の中で傘を忘れ、駅で花を買い損ね、斎場に着くころには式は終わっている。誰にも責められないことが、かえって彼を苦しめる。最後、男は父の家へ行き、空の仏壇の前で、子どものころ父が作ってくれた不格好な紙飛行機を見つける。
あなたは、読みながら父のことを思い出す。
あなたの父は、まだ生きている。だが、もう何年もまともに話していない。電話をかけるたびに小言を言われる気がして、あなたは忙しさを理由に避けてきた。父があなたを怒っているのか、心配しているのか、本当はわからない。
短編を読み終えると、指先が少し軽くなる。
受付の女性が近づいてきて、あなたに鏡を差し出す。そこに映るあなたの目尻から、一本だけ皺が消えている。
「三十八歳と三百六十四日です」
女性が言う。
あなたは息をのむ。
次の週、あなたはまた図書館へ行く。
その次の週も、その次の夜も。やがて、あなたは毎晩のように階段を下りるようになる。仕事の疲れよりも、本の続きが気になり、誰かの人生を読み終えたあとの静かな震えが欲しくなる。
あなたは冒険小説を読み、三ヶ月若返る。老女の手紙で綴られた恋愛小説を読み、半年戻る。戦争で兄を亡くした少年の記録を読み、一年失う。いや、得る。あなたは自分がどちらの言葉を使えばいいのかわからなくなる。
鏡の中で、あなたの頬は締まり、白髪は黒へ戻っていく。階段を上がるたび、雨の街は少し違って見える。コンビニの照明が眩しく、駅の階段を駆け上がっても息が切れない。会社の後輩があなたに「最近、雰囲気変わりましたね」と言う。
あなたは笑ってごまかす。
三十六歳になるころ、あなたは父に電話をかける。父は三度目の呼び出しで出る。
「どうした」
昔と同じ声だ。少し枯れて、少し強がっている。
あなたは用意していた言葉を忘れる。ただ、「今度、そっちに行ってもいい?」と言う。
電話の向こうで、父はしばらく黙る。それから、「来るなら昼にしろ。夜は目が疲れる」と答える。
そのぶっきらぼうな優しさに、あなたは泣きそうになる。
図書館に通ううち、あなたは一人の少年を見るようになる。
彼はいつも詩集の棚のそばにいる。年は十七、八に見える。黒い髪が目にかかり、手には分厚い本を抱えている。ある夜、あなたが同じ棚で本を探していると、彼が言う。
「あなた、急いでるね」
「若返るのが?」
「忘れるのが」
あなたは黙る。
少年は本を棚へ戻す。
「ここに来る人は、たいてい何かを取り戻したがる。でも、取り戻すってことは、どこかへ戻るってことだ。戻った先に、今の自分を連れていけるとは限らない」
「君は?」
「僕は、進みたくないだけ」
少年は笑う。その笑顔は若いのに、ひどく疲れている。
受付の女性によれば、彼はもう五十年ここにいるという。
「五十年?」
「外では、ほとんど時間が進んでいません。彼自身が進むことを拒んでいるからです」
「そんなことができるんですか」
「本ばかり読んで、自分のページをめくらなければ」
あなたは少年を見る。彼は詩集を開き、同じ行を何度も読んでいる。まるで、その一行にしがみつけば、明日が来ないと信じているように。
あなたは、その日から少し怖くなる。
それでも読むことをやめられない。
三十四歳。三十二歳。三十歳。
あなたは若返るにつれて、周囲から奇妙な目で見られるようになる。古い友人に会えば、「写真より若い」と言われる。健康診断では医師が首を傾げる。父の家へ行くと、父はあなたを見て「お前、ちゃんと飯を食ってるのか」と言う。若返ったことに気づいたのかもしれない。気づいていないふりをしているのかもしれない。
父と食べる昼食は、焼き魚と味噌汁だった。食卓の向こうで、父の手が震えている。あなたは初めて、その手が昔より小さくなったことに気づく。
あなたが若返る間に、父は老いている。
その事実は、どんな悲劇小説よりも深くあなたを刺す。
あなたは図書館で、長い長い本を見つける。黒い革表紙で、題名はない。開くと、最初のページにこう書かれている。
「あなたが失敗したすべての日」
あなたは読むべきではないとわかる。
けれど、読んでしまう。
そこにはあなたの人生が書かれている。中学二年の冬、親友に言えなかった謝罪。大学時代、夢を諦める理由にした小さな嘘。母が入院した夜、仕事を優先したこと。恋人に「平気」と言われ、本当に平気なのだと信じたふりをしたこと。父の不在着信を見て、明日でいいと思った日。
一ページめくるごとに、あなたは若返る。
二十九歳。二十七歳。二十五歳。
身体は軽くなるのに、胸は重くなる。あなたは何度も本を閉じようとする。しかしページには、まだ読んでいないあなたがいる。読まなければならない気がする。誰かに裁かれるためではなく、あなた自身が、あなたを見捨てないために。
最後の章は、まだ起きていない出来事だった。
そこには、父の葬儀の日のあなたがいた。あなたは斎場に間に合う。花も買う。喪主として挨拶をする。けれど、棺の中の父に、結局一番言いたかったことを言えないまま火葬場へ向かう。
あなたはページを握りしめる。
「これは未来ですか」
受付の女性は、いつのまにか隣に立っている。
「可能性です」
「変えられる?」
「読んだなら」
あなたは本を閉じる。鏡を見る。
そこにいるのは、二十二歳のあなたに近い顔だった。肌は若く、目は鋭く、けれど瞳の奥だけが三十九年分の疲れを知っている。あなたは恐ろしくなる。若さとは、何も知らないことではなかったのか。では、知りすぎた若さは、いったい何なのか。
少年が詩集の棚からあなたを見ている。
「もうやめた方がいい」
「君に言われたくない」
「だから言うんだ」
少年は、あなたに一冊の薄い本を差し出す。白い表紙で、題名は『はじめて歩いた日』。
「これを読むと?」
「たぶん、あなたは子どもになる」
あなたは本を受け取らない。
少年は続ける。
「僕は読んだ。何度も。小さくなれば、悲しいことが遠くなると思った。でも、遠くなるのは悲しみだけじゃない。約束も、顔も、声も、全部遠くなる」
あなたは尋ねる。
「君は何歳なの」
少年は笑う。
「わからない。数える言葉を、どこかの本に置いてきた」
その夜、あなたは何も読まずに帰る。
外は雨ではなかった。空は冬の星で澄んでいる。あなたはスマートフォンを取り出し、父に電話をかける。夜は目が疲れると言っていたから、電話も迷惑かもしれない。だが、呼び出し音を聞きながら、あなたは思う。明日でいい、という言葉ほど、人を過去へ縛るものはない。
父が出る。
「どうした」
あなたは言う。
「今度じゃなくて、明日行く」
「急だな」
「話したいことがある」
父は咳払いをする。
「なら、昼にしろ」
「うん」
電話を切る直前、あなたは慌てて言う。
「父さん」
沈黙。
あなたは、長年胸の奥に引っかかっていた言葉を、ようやく口にする。
「いつも、ありがとう」
電話の向こうで、父は何も言わない。けれど、息を吸う音が少し震えている。
翌日、あなたは父の家へ行く。父は相変わらず無愛想で、味噌汁は少し薄い。あなたは食卓で、子どものころ借りた本の話をする。父が雨の日に迎えに来てくれたこと。帰り道、あなたが濡らさないように本を胸に抱えていたこと。父が自分の肩を濡らして、傘をあなたに傾けていたこと。
父は「覚えてない」と言う。
けれど、耳が赤い。
あなたは笑う。若返った身体で、三十九歳の心で、ようやく子どものように笑う。
その夜、あなたは最後にもう一度だけ図書館へ行く。
受付の女性は、あなたが来ることを知っていたように砂時計を置く。砂は上にも下にも落ちず、真ん中で静止している。
「読むのをやめます」
あなたは言う。
「よろしいのですか。まだ戻れますよ。青春にも、幼年にも、生まれる前の静けさにも」
「戻りたい日はいくつもあります」
あなたは棚を見上げる。そこには、あなたが読まなかった無数の人生が眠っている。
「でも、帰りたいのは今です」
女性は微笑む。
「では、返却を」
「貸し出しはしていないんじゃ?」
「あなたがここで読んだものです」
あなたは意味がわからず、自分の胸に手を当てる。すると、そこから小さな本が現れる。手のひらに収まるほどの本。表紙には、あなたの名前が書かれている。
開くと、最初のページに、あなたが三十九歳の誕生日に階段を下りたことが書かれていた。次のページには、父に電話をしたこと。少年と話したこと。読んだ本に泣いたこと。若返りながら、老いていく人を見つめたこと。
最後のページは白紙だった。
受付の女性が言う。
「これから先は、読むのではなく、書く時間です」
あなたは頷く。
そのとき、詩集の棚の方から少年が歩いてくる。彼は迷ったように、あなたの前で立ち止まる。
「外って、まだ朝になる?」
あなたは答える。
「なるよ」
「雨は?」
「降る」
「本屋は?」
「たぶん、ある」
少年は少し考えてから、抱えていた詩集を受付に置く。手が震えている。彼の影が、ランプの下でほんの少し伸びる。まるで止まっていた時計の針が、ためらいながら動き出すように。
あなたは扉を開ける。
階段の上から、夜明けの薄い光が差し込んでいる。あなたは振り返らない。振り返れば、また読みたくなるとわかっているからだ。
外へ出ると、街はまだ眠っている。空は青くなりかけていて、遠くで新聞配達のバイクが走る音がする。あなたの身体は二十二歳のままだ。だが、ポケットの中のスマートフォンには、父からの短いメッセージが届いている。
「今日は魚を買っておく」
あなたは笑う。
背後で、石段が消える音がする。振り向くと、そこにはただの煉瓦塀があるだけだった。真鍮のプレートも、木の扉も、紙の匂いもない。
あなたは歩き出す。
若さは、戻る場所ではなかったのだと、あなたは思う。
それは、これから間違えるための余白だ。謝るための声だ。会いに行くための足だ。まだ読んでいない誰かの痛みを、今度は本の中ではなく、目の前で受け止めるための時間だ。
あなたは朝の光の中で、自分の手を見る。
その手は若い。けれど、皺の消えた手のひらには、ページをめくり続けた感触が残っている。失ったものも、取り戻したものも、すべてそこにある。
あなたはもう、逆向きには歩かない。
今日という、まだ白紙のページへ、あなたは足を踏み出す。