第五章 最後の配達

雨音が止んだ。

私は濡れた制服の袖で顔を拭いながら、最後の手紙を胸ポケットから取り出した。宛先は書かれていない。差出人の名前もない。ただ、薄茶色の封筒がわずかに震えている私の手の中で、重みを持っていた。

「これで、終わりです」

目の前の老人は何も言わなかった。車椅子に深く身を沈め、閉じた瞼がかすかに動いた。呼吸は浅く、規則的だった。

私は手紙を老人の膝の上にそっと置いた。配達証明書にサインをもらう必要はない。これが最後だから。

振り返ると、廊下の奥から看護師が小走りでやってくる。彼女の顔には安堵と困惑が入り混じっていた。

「あの、すみません。面会時間はとっくに——」

「大丈夫です。もう帰ります」

私は郵便局の制服の襟を正した。この制服を着るのも、今日が最後だ。

病院を出ると、夕焼けが街を橙色に染めていた。自転車に跨り、ペダルを漕ぎ始める。風が頬を撫でる。三十年間、毎日同じように走った道。明日からは、もう走ることはない。

ポケットの中で、スマートフォンが震えた。局長からの着信だった。私は自転車を止め、電話に出た。

「配達、完了しました」

『そうか』局長の声は感慨深げだった。『長い間、ご苦労様でした』

電話を切り、私は空を見上げた。一羽の鳥が、夕焼けの中を横切っていく。まるで紙飛行機のように、ゆっくりと、確実に。

第四章 紙飛行機

朝の配達を終えて局に戻ると、局長が待っていた。

「実は、君に相談がある」

局長室に通された私は、差し出されたお茶を両手で受け取った。湯気が眼鏡を曇らせる。

「来月で、うちの郵便局は閉鎖される」

予想はしていた。この一年で、配達する手紙の数は半分以下になっていた。メールやSNSに押され、手紙を書く人はもうほとんどいない。

「でも、一つだけ頼みたいことがある」局長は机の引き出しから、薄茶色の封筒を取り出した。「これを、最後に配達してほしい」

封筒には宛先も差出人も書かれていなかった。

「これは?」

「三十年前の手紙だ」局長は遠くを見るような目をした。「ずっと配達できずにいた」

私は封筒を手に取った。紙は経年劣化で少し黄ばんでいたが、糊付けはしっかりしていた。

「宛先は?」

「市立病院の緩和ケア病棟。301号室」

局長は立ち上がり、窓の外を見た。子供たちが公園で紙飛行機を飛ばしている。風に乗って、高く、遠くへ。

「あの人は、もう長くない。でも、意識はまだある。この手紙を——」局長の声が震えた。「届けてやってくれ」

第三章 約束

三十年前の夏。

私はまだ新人配達員で、この街のことをよく知らなかった。先輩の田中さんが、配達ルートを教えてくれていた。

「ここは気をつけろ」田中さんは地図の一角を指差した。「この家の犬は、配達員を見ると吠えまくる」

笑いながら自転車を走らせていると、道端で泣いている少女を見つけた。七、八歳くらいだろうか。手には折れた紙飛行機を握りしめていた。

「どうしたの?」

田中さんが自転車を止め、しゃがみ込んだ。

「紙飛行機が、木に引っかかっちゃった」

少女が指差す先を見ると、大きな楠の枝に白い紙飛行機が引っかかていた。

「よし、取ってやろう」

田中さんは郵便バッグを私に預け、木に登り始めた。器用に枝を渡り、紙飛行機を取ると、ゆっくりと降りてきた。

「はい、お嬢ちゃん」

「ありがとう!」少女は満面の笑みを浮かべた。「これ、おじいちゃんへの手紙なの」

紙飛行機を広げると、たどたどしい字で「おじいちゃん、だいすき」と書かれていた。

「手紙は、ちゃんと封筒に入れて送らないと届かないよ」田中さんは優しく言った。「今度、郵便局に持っておいで。俺が必ず届けてやるから」

少女は嬉しそうに頷いた。

その後、少女は本当に郵便局にやってきた。小さな手紙を、丁寧に封筒に入れて。でも——

「すみません」窓口の職員が困った顔をした。「宛先が書かれていないと、配達できないんです」

少女の目に涙が溜まった。

「おじいちゃんの家、知らないの」

田中さんは少女の頭を撫でた。

「大丈夫。いつか必ず届ける。約束だ」

第二章 引き継ぎ

田中さんが病に倒れたのは、それから五年後のことだった。

病室のベッドで、田中さんは私に郵便バッグを託した。中には、いつもの配達物に混じって、あの薄茶色の封筒が入っていた。

「あの子の手紙、まだ届けられていない」田中さんの声は枯れていた。「すまないが、引き継いでくれないか」

私は頷いた。

「必ず届けます」

でも、手がかりは何もなかった。少女の名前も知らない。祖父の居場所も分からない。ただ、「おじいちゃん、だいすき」という言葉だけが、封筒の中で待っていた。

それから二十五年。

私は街のあらゆる家を訪ね、老人たちに聞いて回った。紙飛行機を飛ばしていた少女の話。孫からの手紙を待っている祖父の話。

手がかりはなかった。少女も、今ではもう三十代。どこかで家庭を持ち、あの日のことなど忘れているかもしれない。

でも、約束は約束だ。

第一章 偶然の再会

郵便局閉鎖の発表があった日、一人の女性が窓口にやってきた。

「すみません、配達員の田中さんという方は、まだいらっしゃいますか」

私は振り返った。三十代半ばの女性は、どこか見覚えのある優しい目をしていた。

「田中は、二十五年前に亡くなりました」

女性の顔が曇った。

「そうですか…… 実は、子供の頃にお世話になったことがあって」

「紙飛行機の?」

思わず口を突いて出た言葉に、女性は目を見開いた。

「覚えていてくださったんですか!」

それからの話は早かった。女性——かつての少女は、今では看護師として市立病院で働いていた。そして、つい最近になって、長年音信不通だった祖父が、その病院の緩和ケア病棟に入院していることを知ったという。

「認知症が進んでいて、私のことも分からないんです。でも」女性は涙を拭った。「あの手紙、まだ持っていてくださったなら——」

私は頷いた。局長は、何も知らずに最後の配達を私に託した。でも、これは偶然ではない。田中さんが、どこかで見守っていてくれたのだ。

「明日、届けます」

「本当ですか」女性は深く頭を下げた。「三十年越しの、配達ですね」

窓の外で、子供たちが紙飛行機を飛ばしている。風に乗って、空高く舞い上がる白い機体が、夕日に照らされて金色に輝いていた。

おすすめの記事