月曜日 くもり、午後から小雨
本日の空は、朝のうち薄い雲に覆われるでしょう。
午後三時ごろより、小雨。傘をお持ちください。
洗濯物は室内へ。
忘れものを取りに戻ると、少し遅れます。
朝六時ちょうど、町の全員の携帯にその予報は届いた。
差出人の欄には、ただ「天気」とだけあった。
気象庁のアプリでも、自治体の防災メールでもない。誰が登録した覚えもないのに、町に住む者なら老人の折りたたみ携帯にも、小学生の見守り端末にも、商店街のレジ横に置かれたタブレットにも、同じ文面が浮かび上がった。
最初にそれを不気味がったのは、駅前のパン屋の店主、三枝だった。
「忘れものを取りに戻ると、少し遅れます、だってさ」
妻の遺影に向かって、三枝は声を出して笑った。
笑ってから、しばらく黙った。
三枝の妻は三年前、雨の日に死んだ。駅へ向かう途中、踏切の前で倒れた。買い物袋の中には、三枝が店に忘れていた伝票綴りが入っていたという。
その朝、三枝は店の鍵を開けてから、エプロンを忘れたことに気づいた。家に戻ろうとして、予報の最後の一文を思い出した。
忘れものを取りに戻ると、少し遅れます。
「遅れたっていいだろ」
そう言って店を出かけたが、踏切の警報音が遠くから聞こえた途端、足が止まった。
結局、三枝はエプロンなしで店を開けた。白いシャツに粉をつけながらパンを並べた。
午後三時、小雨が降った。
そのころ駅前では、信号待ちをしていたトラックがスリップし、歩道の縁石に乗り上げた。けが人はいなかった。ただ、そこは三枝がいつもなら家から店へ戻るときに通る角だった。
夕方、濡れた傘を持った客が口々に言った。
「よく当たるねえ、あの予報」
三枝は「そうですね」とだけ答えた。
閉店後、彼は店の奥で古いエプロンを見つけた。妻が縫い直してくれた紐のところに、小さく青い糸で名前が刺繍されていた。
それは彼の名前ではなく、妻の名前だった。
火曜日 晴れ、風強し
本日はよく晴れるでしょう。
ただし海沿いでは昼前から強い風。帽子や紙片を飛ばされないようご注意ください。
伝えそびれた言葉は、軽いものから飛んでいきます。
重いものほど、手の中に残ります。
中学校二年の真帆は、朝の教室でその文面を読んだ。
「なにこれ、ポエム?」
隣の席の梨央が笑いながら見せてきた画面も、真帆のものと同じだった。
クラスでは予報の話で持ちきりだった。昨日の事故未遂のこともあって、誰も完全には馬鹿にできない。
昼前、体育の授業で校庭に出ると、本当に風が強くなった。
白線を引くための石灰が舞い、体操服の袖がふくらみ、女子たちの悲鳴と笑い声が空へ巻き上がった。
真帆のポケットから、一枚の紙が飛んだ。
それは、昨日の夜に書いた手紙だった。
宛名は「お母さんへ」。
けれど真帆の母は、去年の冬に死んでいる。末期の病室で、真帆は最後まで「寂しい」と言えなかった。母は苦しそうだったから。父は廊下で泣いていたから。自分が泣いてはいけないと思ったから。
手紙には、たいしたことは書いていない。
数学の小テストが悪かった。
お父さんの作る味噌汁は薄い。
新しい制服は少し肩がこる。
お母さんの声を忘れそうで怖い。
風に乗った紙は、校庭の端の金網を越え、プール脇の桜の木に引っかかった。
真帆が追いかけるより先に、用務員の佐伯が脚立を持ってきてくれた。
七十近い佐伯は、昨年妻を亡くしている。校内では無口な人で通っていた。
「大事なもんか」
佐伯が手紙を差し出しながら聞いた。
真帆はうなずいた。
「出す相手、いないんですけど」
佐伯はしばらく空を見た。雲ひとつない青だった。
それから、校舎裏にある古い百葉箱を指さした。
「あそこ、昔は気温を測ってた。今は誰も使わん。入れといたらどうだ」
「届きますか」
「さあな」
佐伯は笑わなかった。
放課後、真帆は百葉箱の中に手紙を入れた。
中にはすでに、折りたたまれた紙がいくつもあった。
「ごめん」
「先に逝くなよ」
「犬の散歩、まだ慣れない」
「退院したら行くって言った店、ひとりで行ってきた」
真帆は自分の手紙をその上に重ね、扉を閉めた。
帰り道、携帯が一度だけ震えた。
通知はなかった。けれど画面の端に、水滴のような光が一瞬だけ浮かんで消えた。
水曜日 朝霧、のち晴れ
夜明けから午前八時にかけて濃い霧が出ます。
見通しの悪い道では、速度を落としてください。
白いものの中に立ち止まると、昔の声がよく聞こえます。
返事は一度だけで構いません。
タクシー運転手の大野は、その予報を読んで舌打ちした。
霧の日は客が増える。
駅まで歩くのを嫌がる者、病院へ急ぐ老人、学校へ遅れそうな子ども。けれど視界が悪いぶん神経を使う。
朝七時半、大野は川沿いの道を走っていた。
後部座席には、黒い喪服の女が座っていた。
「火葬場までお願いします」
女はそう言ったきり黙っていた。膝の上には白い布で包んだ小さな箱があった。
大野はバックミラーを見ないようにした。余計なことを言わないのが仕事だ。
霧は橋の上でいっそう濃くなった。
白い壁の中を、車はゆっくり進んだ。
そのとき、助手席の足元から声がした。
「左、危ない」
大野は反射的にブレーキを踏んだ。
霧の中から、自転車の高校生が飛び出してきた。スマートフォンを見たまま、車の鼻先を横切っていく。
後部座席の女が小さく息を呑んだ。
大野はハンドルを握ったまま固まっていた。
その声を、彼は知っていた。
妻の声だった。
五年前の夏、妻は助手席で眠るように死んだ。夜勤明けの大野が運転する車で、居眠り運転のトラックにぶつけられた。妻は最後までシートベルトをしたまま、開かなかった目で大野を責めなかった。
大野はそれが何よりも苦しかった。
橋の真ん中で、霧が車を包んでいた。
エンジン音だけが静かに震えている。
返事は一度だけで構いません。
予報の文を思い出した大野は、誰にも聞こえないくらいの声で言った。
「すまなかった」
霧の中で、助手席のシートがわずかに沈んだ気がした。
後部座席の女が言った。
「私も、言えばよかった」
大野はバックミラーを見た。女は白い箱を抱きしめ、泣いていた。
火葬場へ着くころには晴れていた。
女は料金を払うとき、大野に小さく頭を下げた。
「さっき、助かりました」
大野は首を振った。
「助けたのは、私じゃありません」
その日、大野は仕事を早めに切り上げた。
家に帰り、妻の仏壇に水を供えた。
「今日、声が聞こえた」
そう言うと、風もないのに、線香の煙がまっすぐ彼のほうへ伸びた。
木曜日 にわか雨、ところにより雷
午後、急な雨があります。
雷鳴が近づいたら、背の高い木や古い屋根の下を避けてください。
怒りは空へ逃がしましょう。
濡れても、許したことにはなりません。
町役場の戸籍係で働く杉浦は、その一文を何度も読み返した。
濡れても、許したことにはなりません。
彼には、許していない人間がいた。
父だった。
父は酒を飲むと暴れた。母はいつも台所で泣いていた。杉浦が高校を出て町を離れたあと、父は一人で暮らし、ある冬の朝、こたつの中で死んでいた。葬式で杉浦は泣かなかった。涙が出ないことを、誰にも責められなかった。
ただ、それから十年、雨の降る日は決まって胃が痛んだ。
その午後、役場の窓が暗くなった。
雷が鳴り、雨が叩きつけるように降り出した。
窓口には一人の老人がいた。
死亡届を出しに来たという。手が震えていて、書類の字が何度も枠からはみ出した。
「すみません、妻の名前を間違えるなんて」
老人は消え入りそうな声で言った。
杉浦は訂正印の場所を示しながら、妙に苛立っていた。
妻が死んだばかりの人間に、苛立つ理由などないはずだった。けれど老人の手の震えが、泣きそうな横顔が、どうしても父の晩年を想像させた。
父も最期は、こんなふうに弱かったのかもしれない。
それが腹立たしかった。
弱くなるくらいなら、最初から強いふりなどしなければよかったのだ。
雷が近くで鳴った。
役場の蛍光灯が一瞬消えた。
暗がりの中で、杉浦の机の上に置いていた携帯が勝手に光った。
朝の予報画面が開いていた。
怒りは空へ逃がしましょう。
杉浦は窓を少し開けた。
雨が吹き込んで、書類を濡らしそうになった。
「お父さん」
自分でも驚くほど低い声が出た。
「俺は、まだ怒ってる」
雷鳴が落ちた。
老人が顔を上げた。
杉浦は窓を閉め、濡れた指をハンカチで拭いた。
許した気はしなかった。
父を思い出しても、温かい気持ちにはならなかった。
それでも胃の痛みは、少しだけ引いていた。
老人は訂正を終えた書類を差し出した。
「これで、いいでしょうか」
杉浦は確認して、受理印を押した。
大きな赤い丸が、紙の上に静かに降った。
金曜日 終日雨
雨は一日中降り続く見込みです。
川の増水にご注意ください。低い土地では早めの避難を。
水は覚えています。
流したものも、流せなかったものも。
町を流れる細い川は、普段なら子どもでもまたげそうな場所がある。
だがその日は朝から茶色く濁り、昼には護岸の半分まで水が上がった。
図書館司書の宮下は、臨時休館の張り紙を出してから、返却ポストを確認した。
雨に濡れた封筒が一通、ポストの隅に貼りついていた。
宛名はない。
中には古い図書カードが入っていた。
図書カードは、二十年以上前に使われていた紙の貸出記録だった。
そこに書かれた名前を見て、宮下は息を止めた。
「宮下澄子」
母の名前だった。
母は宮下が十歳のとき、川で死んだ。台風の翌日、流された長靴を取ろうとした近所の子を助けて、代わりに自分が戻らなかった。町では美談として語られた。
宮下はそのたび、心の底で反発した。
母は英雄ではなかった。
寝坊もしたし、よく財布を忘れたし、カレーを焦がした。
なにより宮下との約束を破った。
その日、母は一緒に図書館へ行くはずだったのだ。
図書カードには、母が最後に借りた本の題名が残っていた。
『雨の日の星座』
宮下は閉架書庫へ向かった。
古い本の匂いの中、脚立に上り、背表紙の薄れた一冊を見つけた。ページをめくると、しおりが挟まっていた。
それは、当時の図書館の貸出票だった。
裏に鉛筆で文字があった。
「美奈へ。帰ったら読もう。雨の日でも星はなくならない」
宮下はその場に座り込んだ。
窓の外で、川の水が音を立てていた。
防災無線が避難準備を告げている。
母は帰らなかった。
約束は守られなかった。
けれど、約束がなかったことになったわけではなかった。
夕方、宮下は図書館の入口を施錠し、避難所になっている小学校へ向かった。
途中、川沿いの道は通行止めになっていた。
濁った水面に、何か白いものが浮かんでいた。
紙か、花びらか、光かはわからない。
携帯が震えた。
朝の予報とは別に、一行だけ表示されていた。
置いていった本を、読んでくれてありがとう。
宮下は傘の下で泣いた。
雨はやまなかった。
川はまだ高かった。
けれど彼女は、その水がすべてを奪うだけのものではないことを、初めて知った。
土曜日 晴れ間あり
明け方まで雨が残りますが、昼前から晴れ間が見えるでしょう。
ぬかるみや倒木にご注意ください。
乾くには時間がかかります。
それでも、窓を開けてください。こちらからも見えます。
昨夜の避難で、小学校の体育館には百人近くが泊まった。
毛布の上で眠れなかった者、泣き疲れた子ども、何度も川の水位を確認する消防団員。朝になると、雨は細くなり、屋根を打つ音もやわらいでいた。
町長の黒川は、体育館の入口で予報を読んだ。
町長といってもまだ四十代で、父の代からの地盤を継いだだけだと陰口を叩かれている。実際、自分でもそう思っていた。
父は前町長だった。
二年前、現職のまま心筋梗塞で死んだ。
町の誰もが「立派な人だった」と言った。黒川はその言葉を聞くたび、父の大きな背中の影に立たされているような気がした。
こちらからも見えます。
その一文が、朝から胸に引っかかっていた。
昼前、雲が切れた。
体育館の高い窓から光が差し込み、床に四角い明るさを落とした。
避難者たちは少しずつ家へ戻り始めた。
泥のついた靴、眠そうな顔、濡れた犬を抱いた老人。黒川は一人ひとりに声をかけたが、どの言葉も薄く感じた。
校庭では、自衛消防の若者たちが倒れた枝を片づけていた。
その中に、パン屋の三枝がいた。タオルを頭に巻き、黙々と枝を運んでいる。
「すみません、人手が足りなくて」
黒川が言うと、三枝は肩をすくめた。
「妻に叱られそうなんでね。困ってるときくらい動けって」
冗談めかした言い方だったが、黒川は笑えなかった。
午後、町役場に戻った黒川は、父の使っていた執務室の窓を開けた。
二年間、そこだけ空気が止まっているようで、来客時以外はほとんど入らなかった部屋だ。
机の上には、父の遺品整理で残したままの万年筆があった。
黒川はそれを手に取った。
引き出しの奥に、一冊の手帳があった。
父の字で、町の予定や会合のメモが書かれている。最後のページに、短い文章があった。
「息子は人の顔色を見すぎる。だが、それは人の顔を見ているということでもある。私にはできなかった」
黒川は椅子に座ったまま、長い時間動けなかった。
父に認められたいと思っていた。
同時に、父のようにはなりたくないと思っていた。
その二つが同じ場所に根を張って、自分を縛っていたのだと気づいた。
夕方、黒川は町内放送で話した。
被害状況。避難解除の範囲。今後の支援。
用意された原稿を読み終えたあと、彼は少し沈黙した。
「不安な夜だったと思います。私も不安でした。これから、できることを一つずつやります」
たったそれだけの言葉だった。
けれど放送室の窓から見えた夕空は、雨上がりの光で淡く透き通っていた。
日曜日 快晴
本日はよく晴れるでしょう。
風は穏やかで、洗濯物もよく乾きます。
墓参りに向いています。
ただし、会いに来なくても、だいたいそばにいます。
日曜日、町の墓地は朝から人が多かった。
昨日までの雨で、墓石の隙間には濡れた落ち葉が貼りついていた。
人々は花を替え、水を汲み、線香に火をつけた。まるで予報に促されたように、いや、実際その通りなのだが、誰もそれを口に出さなかった。
真帆は父と一緒に母の墓へ行った。
父は花を供える手つきがぎこちなく、相変わらず味噌汁の味も薄かったが、最近は食卓で母の話を少しするようになった。
「昨日、百葉箱に手紙入れた」
真帆が言うと、父は驚いた顔をした。
「お父さんも?」
父は気まずそうに笑った。
「まあ、少し」
二人は並んで墓石に水をかけた。
石の表面を流れる水が、朝日を受けて光った。
三枝は妻の墓に、売れ残りではない焼きたてのクロワッサンを供えた。
「店はまあまあだ」と報告したあと、「エプロンは見つかった」と付け加えた。
風が吹き、紙袋がかすかに鳴った。
大野は妻の墓の前で、しばらく黙っていた。
謝罪の言葉は、もう一度言うべきか迷った。
だが結局、彼は「また乗ってくれ」とだけ言った。
それで十分な気がした。
杉浦は父の墓には行かなかった。
代わりに、家の窓を開け、押し入れにしまっていた父の古い湯飲みを出した。欠けた縁を指でなぞり、まだ腹が立つ、と声に出した。
それから湯を注いだ。
許しではなかった。
供養とも違った。
ただ、怒りを置く場所を少し変えただけだった。
宮下は図書館を開けた。
休館明けの閲覧室に光が入り、濡れていた返却ポストも乾いていた。
彼女は『雨の日の星座』を児童書の棚に戻さず、入口近くの小さな展示台に置いた。
札にはこう書いた。
「雨の日に読む本」
昼すぎ、町の人々の携帯が一斉に震えた。
天気予報が、二度届くのは初めてだった。
臨時予報。
明日も晴れます。
明後日はわかりません。
その先も、実はあまり自信がありません。
生きている人の明日は、こちらからは少し眩しすぎます。
町じゅうで、人々はその画面を見つめた。
商店街の店先で。
墓地の坂道で。
台所で。
避難所の片づけを終えた体育館で。
タクシーの運転席で。
図書館の窓辺で。
予報はさらに続いた。
だから、外れることもあります。
傘を忘れて濡れる日も、言いそびれる日も、間に合わない日もあります。
それでも朝になれば、空を見てください。
私たちは天気そのものではありません。
ただ、あなたが顔を上げる理由になりたいだけです。
最後の一行は、受け取った人によって違っていた。
三枝の画面には、
焦がさないでね。あのパン、好きでした。
真帆の画面には、
声は忘れてもいいよ。あなたが笑うと、少し似ています。
大野の画面には、
助手席は、今も怖くありません。
杉浦の画面には、
怒っていていい。湯飲みは使ってくれ。
宮下の画面には、
約束の続きは、あなたが読んだところから。
黒川の画面には、
お前の声で話しなさい。
そして町の共同墓地の上には、雲ひとつない空が広がっていた。
誰かが泣き、誰かが笑い、誰かは何も言わなかった。
携帯を胸に押し当てる者もいれば、すぐに画面を閉じて歩き出す者もいた。
その日の洗濯物は、本当によく乾いた。
翌朝六時、予報は届かなかった。
人々は少し待った。
六時一分。六時五分。六時十分。
何も来なかった。
三枝は店のシャッターを開け、空を見た。
真帆は制服のリボンを結びながら、窓の外の雲を数えた。
大野は車のフロントガラスを拭いた。
杉浦は湯飲みを洗った。
宮下は図書館の入口に新しい花を飾った。
黒川は役場の窓を開けた。
町の空には、薄い雲が一枚流れていた。
雨が降るのか、晴れるのか、まだ誰にもわからなかった。
それでも彼らは、それぞれ傘を持つかどうかを自分で決めた。
そして朝は、死者の言葉がなくても、静かに始まった。