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薄暗い地下室には、かすかに削り屑の匂いが漂っていた。それは大理石の粉末のようでもあり、古い乾燥した本のページのようでもあり、あるいは、雨が降り始める直前の土の匂いのようでもあった。

ルカは机の上に置かれた真鍮製のランプの灯りを落とし、手元にある小さな彫刻をそっと覗き込んだ。

それは、手のひらに収まるほどの大きさの、半透明な翡翠色をした彫刻だった。一人の少女が、風にスカートをなびかせて遠くを見つめている。精緻極まるその造形からは、彼女がそのとき感じていたであろう、初夏の冷たい風の感触や、胸を締め付けるような淡い期待が、かすかな光のまたたきとなって放たれていた。

「……美しいな」

ルカが呟く。彼は「記憶の彫刻師」だった。

人間の脳裏にこびりついた、あるいは大切に保管されてきた記憶を、特殊な金属製のノミと精神の干渉針を用いて、物質として削り出す。それがルカの生業だった。削り出された記憶は、このように美しい彫刻となり、富豪たちのコレクションとして、あるいは美術館の展示品として、高値で売買される。

だが、この技術には一つの絶対的な等価交換が存在した。

削り出された記憶は、本人の頭脳から「完全に消失」する。単に思い出せなくなるのではない。最初からそんな出来事は存在しなかったかのように、人生の年表からその部分が綺麗に切り取られるのだ。

呼び鈴が、静かな地下室に冷たく響いた。

ルカは翡翠色の彫刻をベルベットの布の上に置き、入り口の重い鉄扉を開けた。そこに立っていたのは、仕立ての良い、しかしどこか着崩したコートを羽織った若い男だった。

「……ルカ先生の工房で間違いないか」

男の声はかすれており、酷く疲弊していた。瞳の奥には、眠れぬ夜を幾重にも重ねた者に特有の、ぎらついた狂気と絶望が沈んでいる。

「いかにも。お入りください、レオさん」

ルカは男を招き入れた。男の名はレオ。最近、美術界で「光の異端児」と騒がれている新進気鋭の画家だった。

レオは促されるままに、施術用の大きな革製のリクライニングチェアに深く腰掛けた。彼の視線は、壁の棚に並ぶ無数の彫刻たちに引き寄せられていた。
そこには、黄金色に輝く「幼少期の夏休み」の彫刻、鈍い銀色をした「挫折の夜」の彫刻、そして禍々しい黒色の輝きを放つ「愛憎の結末」の彫刻などが、静かに呼吸するように光を放っていた。

「本当に……消えるんだな」

レオが確認するように言った。その手は細かく震えている。

「ええ。綺麗さっぱりと。あなたが望むなら、その記憶があったという事実に対する『寂しさ』さえも、一緒に削り落とすことができます」

ルカは傍らのワゴンから、何本もの細い銀のノミと、頭部を固定するための真鍮製のバンドを取り出した。

「消してほしいのは、どの記憶ですか」

レオは自嘲気味に笑い、ポケットから一枚の古びた写真を取り出した。そこに写っていたのは、白いワンピースを着て、ひまわり畑の中で笑う一人の美しい女性だった。

「ソフィアだ。僕の婚約者だった。……いや、半年前に病気で亡くなった」

レオの声が震え、涙がその頬を伝った。

「彼女と過ごした五年間。出会い、語り合い、愛し合ったすべて。そして……彼女が病室で、僕の腕の中で息を引き取った、あの最悪の瞬間の記憶。すべてを削り出してくれ。僕はもう、耐えられないんだ。彼女の面影が、彼女の残した声が、僕の脳を内側から掻きむしる。絵を描こうとしても、キャンバスに映るのは彼女の死に顔だけだ。これ以上、この記憶を抱えて生きていくことはできない」

ルカは静かにレオを見つめた。これまでにも、同じような理由でここを訪れた者を何人も見てきた。愛する者を失った喪失感に耐えかね、その愛した記憶そのものを捨て去ろうとする人々。

「レオさん、忠告しておきます」

ルカは静かに、しかし厳かに言った。

「ソフィアさんとの記憶は、あなたの画才の源泉でもあるはずだ。それを失えば、あなたの絵画は劇的に変わるかもしれない。それでも、良いのですね?」

「構わない」

レオは迷いのない、しかし中身の抜け落ちた声で言った。

「あんな苦痛を伴う才能なら、いらない。ただ、静かに眠りたいんだ」

「……承知しました」

ルカはレオの頭部に真鍮のバンドを装着し、固定した。レオは静かに目を閉じる。

ルカは深呼吸をし、神経を極限まで研ぎ澄ませた。右手に握った特殊なノミの先を、レオの目尻のすぐ横、こめかみのあたりにそっと添える。

「始めます。少し、冷たい感覚がしますよ」

ルカがノミを軽く叩くと、チリ、と微小な金属音が室内に響いた。

その瞬間、ルカの意識はレオの脳内、記憶の海へとダイブした。
暗闇の中に、光り輝く巨大な「記憶の結晶」が見えた。それは、深いコバルトブルーと、夕焼けのような茜色が混ざり合った、息をのむほど美しい光の塊だった。
ひまわり畑で風に揺れるソフィアの髪。
二人で分け合った冷たい炭酸水の味。
アトリエで、彼女をモデルに初めて描いた油絵。
そして、白い病室。心電図のフラットな音と、冷たくなっていく彼女の手を握りしめ、喉が張り裂けるほどに泣き叫んだレオ自身の姿。

ルカはプロの職人として、その巨大な結晶にノミを当てた。
「ソフィア」という名前に関連するすべての神経接続を、慎重に、かつ大胆に切り離していく。

キィィィン、と硬質な音が地下室に響き渡る。

レオの頭部から、青と茜色の光の粒子が溢れ出し、ルカの手元にある特殊な受容器へと吸い込まれていった。
ノミを振るうたびに、結晶は削られ、形を変えていく。レオの表情から、激しい苦悶のシワが刻一刻と消えていき、代わりに何も書かれていない真っ白な画用紙のような、平坦な無表情が広がっていった。

作業は三時間に及んだ。

最後に、ルカは「ソフィアを失って悲しい」という感情の残滓を丁寧にすくい取り、受容器に収めた。

「……終わりました」

ルカが器具を取り外すと、レオはゆっくりと目を開けた。
先ほどまでの、狂気じみた絶望の光は完全に消え去っていた。その瞳は、澄み切った秋の空のようにクリアで、同時に、どこかひどく冷めていた。

レオは体を起こし、周囲を見回した。

「……私は、なぜここにいるんでしたっけ」

「あなたは、長年悩まされていた慢性的な頭痛と、スランプを解消するために、私の施術を受けに来られたのです」

ルカはあらかじめ用意していた「偽の施術理由」を告げた。記憶を消された本人は、その空白を埋めるための辻褄合わせの物語を必要とする。

「ああ……そうですか。確かに、頭がすっきりと軽い。驚くほどに。……何か、重い荷物をずっと背負っていたような気がするのですが、それが何だったのか思い出せない。いや、思い出そうとする必要すら感じないな」

レオは立ち上がり、満足そうに微笑んだ。その笑顔は、あまりにも無邪気で、そして空っぽだった。

「ありがとうございました、ルカ先生。素晴らしい施術だ」

レオはあらかじめ取り決めていた莫大な報酬を支払い、足取りも軽く地下室を去っていった。彼が落としていったソフィアの写真は、待合室のソファの隙間に、忘れ去られたように残されていた。

ルカは一人残された工房で、受容器から取り出した「記憶の塊」を机に置いた。
それは、透き通った最高級のサファイアのような、深い青色をした結晶だった。

ルカはノミを握り、その結晶に向き合った。ここからが「記憶の彫刻師」としての本領発揮だった。

彼は、レオの記憶の中にあったソフィアの姿を、そのまま立体として削り出していった。
彼女がひまわりを抱えて微笑む姿。だが、ただの写実ではない。レオが彼女に対して抱いていた無限の愛、そして彼女を失ったときの引き裂かれるような悲哀が、彫刻の曲線一つ一つに、光の屈折として刻み込まれていく。

数日間の徹夜の末、一つの最高傑作が完成した。

タイトルは『青い祈り』。

それは、祈るように両手を胸の前で組み、目を閉じている女性の彫刻だった。全身が深いコバルトブルーに輝き、見る者の角度によって、時折、温かみのある茜色の光が内側から漏れ出す。その彫刻を見つめる者は誰しも、胸を締め付けられるような切なさと、言葉にできない美しい喪失感に涙を流した。

この彫刻は、ある著名な美術収集家に、ルカの工房始まって以来の最高額で買い取られた。


三年が経過した。

ルカは、街の中心部にある近代的な美術館を訪れていた。特別展「失われた光の肖像」の会場である。

高い天井の展示室の中央に、厳重なガラスケースに守られた『青い祈り』が展示されていた。多くの人々がその周囲を取り囲み、ため息をつきながら、その美しさに魅了されている。

「やはり、これは素晴らしいな」

人混みの少し後ろから、男の声が聞こえた。

ルカが振り返ると、そこにはシックな黒いスーツを着こなした男が立っていた。小綺麗に整えられた髪、自信に満ちた表情。かつて、死にかけの獣のような目でルカの工房を訪れた、あのレオだった。

いまやレオは、画壇の頂点に君臨していた。彼の描く絵は、完璧な構図と、無駄の一切ない冷徹な色彩で「現代の古典」と称賛され、商業的にも大成功を収めていた。

「レオさん。お久しぶりです」

ルカが声をかけると、レオは不思議そうにルカを見た。記憶を消されたレオにとって、ルカは「かつて頭痛の治療をしてくれた風変わりな医者」でしかなかった。

「ああ、先生。こんなところでお会いするとは。あなたのおかげで、私の頭痛はあれ以来一度も再発していません。見てください、私の今の活躍を。余計な雑音に悩まされることなく、ただ純粋な技術として絵を描くことができる。今が人生で一番幸福ですよ」

レオは誇らしげに言った。

「それは重畳です。ところで、あの彫刻をどう思われますか?」

ルカがガラスケースの中の『青い祈り』を指さした。

レオは彫刻に視線を戻した。深い青色をした、祈る乙女の像。その内側で、かすかに茜色の光がゆらめいている。

レオはしばらくの間、黙ってその彫刻を見つめていた。
その完璧に整えられた顔から、徐々に笑みが消えていく。彼の瞳が、細かく左右に揺れた。

「……不思議な彫刻だ」

レオが呟く。その声には、彼の自覚していない動揺が混じっていた。

「技術的には、素晴らしい。だが、それだけじゃない。これを見ていると……胸の奥が、妙に痛むんだ。まるで、最初からそこに存在していたはずのパーツが、ごっそりと肉ごと削り取られているような……そんな、妙な空腹感というか、寒気がする」

レオは自らの胸に手を当てた。

「私は、何かを忘れているのだろうか。何か、命よりも大切だったはずのものを……」

「まさか」

ルカは静かに言った。

「あなたはすべてを手にしている。名声も、富も、そして穏やかな心も。その彫刻は、ただの他人の記憶です。あなたには関係のない、過ぎ去った他人の幻影に過ぎません」

レオは自嘲気味に微笑んだ。

「そうだな。失礼した、芸術家の感傷というやつだ。私には、描かなければならない絵が山ほどある。過去を振り返る暇などないのだから」

レオはそう言うと、スマートに身を翻し、展示室の出口へと歩いていった。その背中は、洗練されてはいたが、どこか風が吹き抜けるような虚しさを漂わせていた。

ルカは再び、ガラスケースの中の『青い祈り』に目を向けた。

彫刻の青い光は、去りゆくレオの背中を追うように、一瞬だけ強くまたたき、そして、二度と届かない光の粒子を、冷たいガラスの内側で静かに散らした。

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