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記憶彫刻師の工房は、いつも木屑のような匂いがした。けれど削り出されるのは木ではなく、人の記憶だった。

碧(あお)は二十三歳で、この街でいちばん腕のいい彫刻師だと噂されていた。彼女の指先が依頼人のこめかみに触れると、その人の記憶が淡い光の塊となって浮かび上がる。碧はそれを専用のノミと槌で、少しずつ、本当に少しずつ削り出していく。完成した記憶は半透明の結晶になり、傾ける角度によって、削り取られた瞬間の音や匂いまでもが立ち上った。

ただし――削られた記憶は、本人の頭からは永遠に消える。

それがこの仕事の唯一にして絶対の代償だった。

「この記憶、いくらで売れますか」

その日の依頼人は、五十がらみの男だった。スーツは仕立てが良いのに、どこか着られているような印象がある。彼は娘の結婚式の記憶を持ち込んだ。

「美しい記憶ですね」碧は浮かび上がった光を覗き込んだ。「白いドレス、桜、お父様への手紙……これは高値がつきます」

「金が要るんだ」男は目を伏せた。「事業に失敗してね。だが……これを売ったら、私は娘の結婚式を覚えていられないんだろう?」

「ええ。完全に」

男はしばらく黙っていた。それから、震える声で言った。「やってくれ」

碧は槌を握った。

碧が記憶彫刻師になったのには理由があった。

七年前、彼女の母は若年性の病で記憶を失っていった。日に日に薄れていく母の中の「碧」を、碧はただ見ていることしかできなかった。やがて母は娘の顔さえわからなくなった。

「記憶って、自分で選んで残せたらいいのにね」

ある日、母がふと正気に戻ったとき、そう呟いた。その言葉が、碧をこの道へ導いた。失われる記憶を、消えない結晶として残す。そう信じて。

けれど工房で働くうち、碧は気づいてしまった。ここに記憶を売りに来る人々の多くは、「残す」ためではなく「忘れる」ために来るのだということに。

苦しすぎる記憶。耐えられない後悔。消したい恋。

人は痛みを売り、束の間の平穏を買っていく。

そして、買い手たちは――他人の幸福な記憶を、まるで美術品のように蒐集していくのだった。

「碧さん、特別な依頼が来ています」

工房の主人である老人、刻夜(こくや)が、ある朝そう告げた。彼は片目に古い義眼をはめている。噂では、その奥に自分自身の最も大切な記憶を一つ、結晶にして埋め込んでいるという。

「依頼人は名を明かしません。ただ、ある女性の記憶を一つ、削り出してほしいと」

「本人の同意は?」

「ある、と」

依頼の現場に向かうと、ベッドに横たわる女性がいた。意識はないらしい。傍らに、依頼人だという若い男が立っていた。

「彼女は事故で、もう目を覚まさない」男は静かに言った。「最後に、僕と過ごした最後の日の記憶を、形にして残したいんだ。彼女の中から取り出して」

碧は躊躇した。「でも、削れば彼女の記憶からは消えます」

「目を覚まさない人間に、記憶が残っていて何になる」

その言葉は、刃のように碧の胸を刺した。

碧は女性のこめかみに触れた。光が浮かぶ。穏やかな、海辺の記憶だった。二人で歩く砂浜。男が彼女の手を握っている。波の音。笑い声。

碧はノミを当てた。けれど、手が止まった。

光の奥に、もう一つの感情が滲んでいた。それは――この男から、逃げたいという、女性の小さな叫びだった。

碧は男を見た。「あなたは……」

男の表情が、一瞬で変わった。

「彼女は、あなたから逃げようとしていた」碧は静かに言った。「この記憶は、幸福じゃない。あなたが見せたい幸福を、彼女に押しつけた記憶です」

男の顔が歪んだ。「黙れ。削れ。金は払う」

「断ります」

「お前に拒否権はない!」

男が碧の腕を掴んだそのとき、女性の指が、わずかに動いた。

意識のないはずの彼女の頬を、一筋の涙が伝った。

碧は理解した。記憶は、削り取られる瞬間まで、本人のものなのだ。たとえ目を覚まさなくても、その人の中で、確かに息づいている。

「彼女の記憶は、彼女のものです」碧は男の手を振り払った。「あなたが取り出していいものじゃない」

男は何かを言いかけ、けれど女性の涙を見て、立ち尽くした。やがて、崩れ落ちるように床に膝をついた。

「僕は……ただ、覚えていてほしかった。彼女の中で、僕が……」

「覚えていてほしいなら」碧は言った。「あなたが、覚えていればいい。彼女の代わりにじゃなく、あなた自身の記憶として」

工房に戻った碧に、刻夜が珍しく笑みを見せた。

「依頼を断ったそうだな」

「ええ。怒りますか」

「いや」老人は義眼に触れた。「わしも昔、同じ過ちを犯した。妻の記憶を削り、自分の中に取り込もうとした。妻が死ぬ前にな。彼女が、わしを忘れていくのが怖くて」

「それで……?」

「妻は最期に言った。『あなたが覚えていてくれるなら、私は忘れても怖くない』とな」刻夜は義眼を外した。その奥には、小さな、温かな光の結晶があった。「これは、妻の記憶ではない。わしが妻と過ごした、わし自身の記憶だ。削り出すのではなく、留めておくために」

碧は、母のことを思った。記憶を失っていった母。けれど母が娘を忘れても、碧は母を覚えている。その事実だけは、誰にも削れない。

「記憶って」碧は呟いた。「奪うものでも、買うものでもないんですね」

「分かち合うものさ」老人は微笑んだ。「削り出した結晶も、本来はそのためにある。失う人の代わりに、誰かが覚えているために」

それから碧は、工房のやり方を少しずつ変えていった。

記憶を売りに来る人には、まず問いかけるようになった。本当に、消してしまっていいのですかと。痛みごと忘れたいのか、それとも、誰かに預けたいだけなのか。

ある日、最初に娘の結婚式を売りに来た男が、再び工房を訪れた。

「あのとき、君は止めなかった」男は言った。「私は娘の結婚式を忘れた。金は手に入った。けれど――娘が、泣いたんだ。お父さんはどうして私の結婚式を覚えていないのって」

碧は何も言えなかった。

「だから、買い戻したい。あの記憶を」

碧は記録を調べた。あの結晶は、まだ売れずに保管庫に残っていた。誰の手にも渡らずに。まるで、持ち主の帰りを待っていたかのように。

碧は結晶を男の手に乗せ、そっとこめかみに押し当てた。光が、男の中へと還っていく。

男の目から、涙が溢れた。「……桜だ。あの日、桜が咲いていた。娘が、私に手紙を読んでくれた……」

記憶は、戻ってきた。一度削られても、まだ間に合うものがあるのだと、碧は知った。

工房の窓辺に、碧は小さな結晶を一つ置いている。

それは母の記憶ではない。碧自身が削り出した、碧の記憶だ。母がまだ碧を覚えていた頃の、ある午後。縁側で、二人で蜜柑を食べた、何でもない日の光景。

母はもう、その午後を覚えていない。

けれど碧が覚えている。だから、それでいい。

記憶は、消える。人は忘れる。それでも、誰かが分かち合ってさえいれば、その瞬間は、確かにこの世界に存在し続ける。

碧は今日も、こめかみに触れる。

奪うためではなく。

忘れないために。


――了

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