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街にはもう、誰も住んでいなかった。

ただ、住んでいることになっていた。

朝七時になると、無人の団地の窓が一斉に明るくなる。市役所の地下に残された発電機が、誰も触れないタイマーに従って電気を送り、カーテンの向こうで蛍光灯だけが目を覚ます。

駅前のパン屋は、毎朝焼きたての匂いを出す機械を動かした。ショーケースの中には、三年前から同じ蝋細工のクロワッサンが並んでいる。商店街のスピーカーからは、録音された笑い声が流れた。

「本日も、すみれ市は平常です」

市役所の屋上に取り付けられた防災無線が、誰もいない街へ告げる。

「感染者は確認されていません。市民の皆さまは、安心して通常通りお過ごしください」

その放送を聞く者はいない。

聞く者がいないのに、放送は続いた。

それが、この街に最後まで残った嘘だった。


三日前、最後の住民である老婆が、街を出た。

名は佐伯ハナ。八十九歳。杖をつき、背中を丸め、誰もいない大通りを一歩ずつ歩いた。彼女の横には、市から配られた古いラジオが吊るされていた。

ラジオは繰り返していた。

「避難の必要はありません。すみれ市は安全です」

ハナは笑った。

「そうねえ」

その声は掠れていたが、どこか子どもに返ったようでもあった。

街の境界には、封鎖線があった。黄色いテープ。倒れたバリケード。錆びた看板にはこう書かれていた。

虚言性伝播症 発生区域 許可なき立入を禁ず

ハナはそれを見上げると、ぽつりと言った。

「ここには、みんないるものね」

その瞬間、彼女の背後で、空っぽのビルの窓に人影が揺れた。

いや、人影ではなかった。

割れたガラスに反射した雲が、誰かの形に見えただけだった。

ハナは手を振った。

「行ってきます」

誰も答えなかった。

けれど彼女には、商店街の魚屋も、隣の奥さんも、十年前に死んだ夫も、みな笑って手を振っているように見えた。

嘘は、最後には幻よりも優しかった。


一年前、すみれ市にはまだ人がいた。

ただし、その半分以上は地下に隠れていた。

「地上に出るな。空気中に嘘が混じっている」

そう言ったのは、市立病院の医師たちだった。

その言葉が本当だったかどうかは、もう誰にも分からない。なぜならその頃には、医師たち自身も感染していたからだ。

虚言性伝播症。

最初、病名は冗談のように扱われた。

症状は単純だった。嘘をつくと、その嘘を聞いた者の中に移る。そして聞いた者は、その嘘を本当だと感じるようになる。さらに恐ろしいことに、感染者が同じ嘘を口にすると、その嘘は別の者へ広がっていく。

「明日は雨だ」

そう言えば、晴天の下で傘を差す者が現れた。

「市長は二人いる」

そう言えば、会議室の空席に向かって職員たちが頭を下げた。

「駅の向こうに海がある」

そう言えば、線路沿いの住宅地に潮の匂いを嗅ぐ者が増え、やがて子どもたちは通学路で貝殻を拾ったと言い出した。

もちろん、そこに海はなかった。

しかし感染した人々にとっては、確かに波音が聞こえていた。

地下避難所では、毎日「真実確認会議」が開かれた。

壁に貼られた紙には、まだ信じてよいことが書かれていた。

一、太陽は東から昇る。
二、水は百度で沸騰する。
三、すみれ市の人口は減少している。
四、死者は帰ってこない。

四番目の項目は、何度も黒く塗りつぶされ、そのたびにまた書き直された。

誰かが言ったのだ。

「死んだ人たちは、みんな市役所の地下にいる」

その夜から、避難所の奥の扉の前には花が供えられるようになった。

扉の向こうは備品倉庫だった。

それでも誰も開けようとはしなかった。

開けてしまえば、嘘が死ぬ。

嘘が死ねば、また誰かが本当に死んだことになる。


二年前、街はまだにぎやかだった。

にぎやかすぎるほどだった。

虚構は感染し、感染した虚構同士が絡まり、すみれ市は奇妙な祝祭の中に沈んでいた。

市役所前の広場では、毎週「帰還祭」が開かれた。行方不明者や死者が帰ってきたことを祝う祭りである。

舞台には誰も立っていない。

それなのに観客は泣き、笑い、名前を呼んだ。

「おかえり、春香!」

「父さん、遅かったじゃないか!」

「先生、また授業してよ!」

拍手は空へ昇り、紙吹雪は誰もいない壇上に降り積もった。

市長は演説した。

「すみれ市は、失ったものを取り戻しました!」

その言葉に、市民たちは熱狂した。

その時点で、市長は三週間前に倒れていた。

演説していたのは副市長だった。

いや、副市長だと思われていた清掃課長だった。

いや、もしかしたら誰でもなかったのかもしれない。

感染が進むほど、人々は役職や名前よりも「そうであってほしいもの」を信じるようになった。背広を着た男が壇上に立てば市長だった。白衣を着れば医師だった。ランドセルを背負えば、たとえ老人でも小学生だった。

街の真ん中に、大きな掲示板が設置された。

そこには市民が自由に「真実」を書き込めた。

すみれ市は安全です。
感染症などありません。
私たちは誰も失っていません。
昨日の火事は花火でした。
避難した人々は旅行に行っただけです。
病院の泣き声は合唱の練習です。

掲示板の前には、いつも人だかりができた。

新しい嘘が貼られるたび、誰かが安堵の息をついた。

やがて人々は、悲しい事実を口にする者を恐れるようになった。

「あなた、まだ本当のことを言うの?」

そんなふうに。

真実は感染しなかった。

だから弱かった。


三年前、最初の封鎖が行われた。

国の防疫班がすみれ市に入ったとき、街はすでに半分ほど変わっていた。

駅前には「海水浴場入口」の看板が立ち、山側の霊園には「新興住宅地」と書かれた旗が並んでいた。火葬場の煙突は「パン工房」と呼ばれ、そこから立ちのぼる煙を見て、人々は腹を鳴らした。

防疫班の隊長は、拡声器で告げた。

「住民の皆さん、これは集団性の認知汚染です。互いの発言を信用しないでください。確認された事実だけを記録してください」

すると群衆の中の誰かが叫んだ。

「防疫班は敵だ!」

その言葉は、群れの上を鳥のように飛んだ。

一人が繰り返した。

「防疫班は敵だ!」

二人が繰り返した。

「敵だ!」

十人が、百人が、千人が叫んだ。

その瞬間、防疫班は敵になった。

少なくとも、すみれ市の人々にとっては。

石が投げられ、車両が燃やされた。

防疫班は撤退した。

その後、街の外側に壁が築かれた。外から内へ、内から外へ、言葉が漏れないように。

しかし嘘は壁を越えなかった。

嘘は、愛着を持つ者の中でしか根づかなかった。

すみれ市を知らない者に「駅の向こうに海がある」と言っても、ただの馬鹿げた話だった。けれど、駅の向こうに亡き娘の通った小学校がある者には、その嘘が甘く染みた。

海があるなら、娘は溺れただけかもしれない。

溺れただけなら、いつか浜に帰ってくるかもしれない。

嘘は、願いを餌に増えた。


四年前、感染者はまだ三人だった。

一人目は小学校の教師。

二人目はその妻。

三人目は新聞記者。

教師は、市立病院のベッドで目を覚まし、妻に言った。

「僕は大丈夫だ」

妻は泣いていた。

教師の肺は炎症を起こし、医師は余命を告げていた。けれど妻は、夫の「大丈夫」を聞いた瞬間、涙を止めた。

「ああ、よかった」

妻は本当にそう思った。

翌日、妻は病室の外で記者に言った。

「夫は大丈夫なんです」

記者もまた、その言葉を信じた。

そして記事を書いた。

奇跡の回復、重体教師が退院へ

記事は朝刊に載った。

すみれ市の人々はそれを読んだ。

教師はその朝、死んだ。

だが街の多くの者は、教師が退院したと信じた。

その日の午後、小学校の校門には児童たちが集まった。先生が戻ってくるのを待つためだった。保護者たちは笑顔で花束を持った。

誰も来なかった。

それでも誰かが言った。

「先生、今、手を振ったよ」

子どもたちは一斉に手を振った。

その映像がテレビに流れた。

字幕には、こう出た。

奇跡を信じる子どもたち

翌日から、街では小さな奇跡が増え始めた。

失くした鍵が「見つかった」と言えば、鍵穴は空のまま回された。

試験に落ちた子が「受かった」と言えば、家族は赤飯を炊いた。

閉店した店が「営業中」と言えば、客はシャッターの前に並んだ。

誰も、それを病気とは思わなかった。

希望だと思った。


五年前、教師はまだ病気ではなかった。

名は高瀬誠。

すみれ第三小学校の六年二組を受け持つ、どこにでもいる穏やかな男だった。

その日は、卒業式の前日だった。

教室には三十一人分の机が並んでいた。

本当は三十人だった。

一番後ろの窓際に置かれた机は、誰も使っていなかった。

そこに座っていたはずの少女、佐伯ミオは、二か月前に交通事故で死んでいた。

クラスの子どもたちは、まだその机を片づけられなかった。花瓶には毎朝、新しい花が挿された。日直は黒板の隅に、欠席者として彼女の名前を書き続けた。

高瀬は、それを止められなかった。

止めることが、あまりにも残酷に思えた。

卒業式の練習が終わったあと、一人の少年が聞いた。

「先生、ミオちゃんも卒業できますか」

教室は静まり返った。

窓の外では、春の風が桜のつぼみを揺らしていた。

高瀬は答えなければならなかった。

本当のことを。

ミオはもういない。
卒業証書を受け取ることはできない。
一緒に中学校へ行くこともできない。
君たちは、それでも明日を迎えなければならない。

そう言うべきだった。

けれど高瀬は、子どもたちの顔を見た。

泣くことに疲れ、悲しむことにも疲れ、それでも何か一つだけ救いを欲しがっている顔を。

高瀬は微笑んだ。

それは教師としてではなく、一人の弱い大人としての微笑みだった。

「もちろん」

彼は言った。

「ミオさんも、明日みんなと一緒に卒業します」

子どもたちの表情が、ふっと明るくなった。

誰かが息を呑み、誰かが笑った。

「本当?」

「本当だよ」

高瀬はもう一度、嘘を重ねた。

「明日、ミオさんはちゃんと来ます。みんなと同じように名前を呼ばれて、証書を受け取ります」

その瞬間、教室の空気がわずかに震えた。

最初に感染したのは、一番前の席の少女だった。

彼女は、空っぽの机を見て言った。

「ミオちゃん、笑ってる」

次に隣の少年が言った。

「ほんとだ」

そして三十人の子どもたちは、いないはずの少女へ向かって笑いかけた。

高瀬は振り返らなかった。

振り返れば、そこに誰もいないと分かってしまうから。

翌日の卒業式、校長は名簿を読み上げた。

「佐伯ミオ」

体育館の誰もいない列で、椅子がかすかに軋んだ。

保護者席の佐伯ハナは、両手で口を覆った。

「来てくれた」

彼女はそう呟いた。

周囲の人々も、涙を流して拍手した。

空の通路を、少女が歩いていることになった。

壇上で、校長は宙へ卒業証書を差し出した。

誰も受け取らなかった。

けれどその場にいた全員が、彼女が受け取ったと信じた。

それが、すみれ市で最初に共有された虚構だった。

それは悪意ではなかった。

金のためでも、支配のためでも、誰かを傷つけるためでもなかった。

ただ、悲しむ子どもたちを一日だけ救いたかった。

死んだ少女の祖母に、ほんの一瞬だけ孫を返してやりたかった。

高瀬誠がついた最初の嘘は、あまりにもやさしかった。

だから街は、それを手放せなかった。

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