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一 美咲

最終電車を逃したのは、これで三度目だった。

美咲は駅前のコンビニで買った缶コーヒーを握りしめ、白い息を吐いた。スマートフォンの画面には午前一時十三分と表示されている。地方都市の駅前は、深夜になるとまるで誰かが世界の音量を絞ったみたいに静かだった。

駅舎のシャッターは半分下り、改札の向こうには暗いホームが沈んでいる。

いや、沈んでいるはずだった。

警報機の音が聞こえた。

カン、カン、カン、と遠くから近づいてくる。美咲は顔を上げた。この駅に、深夜の列車など来ない。そもそも、この路線は十年前に廃線になったはずだった。

駅舎の奥で、古い蛍光灯が一本だけ瞬いた。

シャッターは音もなく上がり、改札機に緑の光が灯る。誰もいないはずの窓口には、色褪せた制服を着た駅員が立っていた。帽子の影で顔は見えない。

「ご乗車ですか」

美咲は逃げるべきだと思った。けれど、足は改札へ向かっていた。

切符売り場の上に、行き先が並んでいる。

青葉台。
潮見町。
花ヶ丘。
終点――白紙。

美咲は息を呑んだ。

青葉台。

そこは、母が入院していた病院の最寄り駅だった。

三年前、美咲は母からの電話に出なかった。仕事の会議中だった。終わってからかけ直せばいいと思った。けれど、その電話が最後だった。母はその夜、急変して亡くなった。

行きそびれた場所。

会いそびれた人。

謝りそびれた言葉。

「切符は必要ありません」

駅員が言った。

「お客様は、もうお持ちですから」

美咲が手の中を見ると、缶コーヒーの代わりに古い硬券があった。印字はかすれて読めない。ただ、裏面に鉛筆で小さく書かれていた。

「母さんへ」

ホームに降りると、一本の電車が停まっていた。二両編成の古い車両。塗装は剥げ、窓には夜が貼りついている。

ドアが開いた。

中には、乗客がいた。

眠れない顔をした老人。ランドセルを抱えた若い男。ウェディングドレスの裾を膝に載せた女。誰もが何かを失くしたように、窓の外ではなく、自分の膝を見つめていた。

美咲は乗り込んだ。

ドアが閉まる。

電車は、音もなく走り出した。

次の駅は、青葉台――。

車内放送がそう告げた瞬間、美咲は立ち上がった。

降りなければ。

母に会えるかもしれない。もう一度だけ、電話に出られなかったことを謝れるかもしれない。

電車はホームに滑り込んだ。窓の外に、見覚えのある病院の明かりが浮かんでいる。青白い廊下。ナースステーション。母がいた病室の窓。

ドアが開く。

美咲は一歩踏み出そうとした。

けれど、足が床に貼りついたように動かなかった。

「どうして……」

必死に体を前へ押し出そうとする。ドアの向こうで、母が立っていた。病衣を着て、いつもの困ったような笑顔で、美咲を見ている。

「お母さん!」

母は何かを言った。

でも、電車の警笛にかき消された。

ドアが閉まる。

美咲はガラスに両手をついた。ホームが遠ざかる。母の姿が夜に溶ける。

「待って! 降ろして!」

誰も答えなかった。

向かいの席の老人が、静かに言った。

「この電車では、降りる駅を選べないんだよ」

美咲は振り返った。

老人は膝の上に、色褪せた野球帽を置いていた。

「行きたい駅には、止まる。けれど降りられるとは限らない」

「じゃあ、どうして乗せるんですか」

老人はしばらく黙っていた。

「たぶん、見せるためだ。行けなかった場所を。まだ降りてはいけない理由を」

美咲は硬券を握りしめた。

次の駅名が、車内に流れた。

潮見町。

誰かが、小さく息を吸う音がした。

二 亮平

潮見町、と聞いた瞬間、亮平は膝の上のランドセルを抱きしめた。

それは自分のものではない。赤いランドセルだった。肩ベルトには、小さなイルカのキーホルダーがついている。

妹の真央のものだ。

あの日も雨だった。小学校の遠足の日で、真央は朝からはしゃいでいた。兄ちゃん、帰ったら貝殻見せるね、と言った。亮平はそのとき高校二年で、寝坊して、玄関先で妹の声に適当に手を振った。

潮見町の海岸で、バス事故が起きた。

真央は帰ってこなかった。

両親は壊れた。母は毎年、事故の日になると真央の好物だったプリンを作り、父はそのたびに家を出た。亮平は大学にも行かず、働き、家族の中で一番まともな人間のふりをした。

でも本当は、あの朝の自分を何度も殺していた。

ちゃんと顔を見て送り出せばよかった。
写真を撮っておけばよかった。
「いってらっしゃい」と言えばよかった。

電車が潮見町に着いた。

ホームの向こうに海が見えた。暗いはずの海は、遠足の日のように明るかった。空は昼で、子どもたちの笑い声が聞こえる。

真央がいた。

黄色い帽子をかぶり、列から少し離れて、こちらを見ていた。十年前のままの背丈で、手を振っている。

「真央!」

亮平は立ち上がった。ランドセルを抱えたままドアへ走る。

だが、隣の座席から白い手が伸び、彼の袖をつかんだ。

ウェディングドレスの女だった。

「だめ」

「離してください!」

「降りたいと思って降りられる駅じゃない」

「妹なんです!」

女は目を伏せた。

「知ってる。みんな、そういう人がいる」

亮平は女の手を振りほどこうとした。ドアは開いている。潮風が車内に入ってきた。真央が笑っている。

その笑顔が、ふいに歪んだ。

ホームの明るさが剥がれ落ち、奥に事故現場が見えた。横転したバス。割れたガラス。雨。赤い回転灯。泣き叫ぶ子どもたち。

亮平は動けなくなった。

真央は笑顔のまま、ランドセルを指さした。

亮平は腕の中を見た。ランドセルの蓋が開いている。中には、折り紙のイルカが一つ入っていた。

不器用な字で、メモが添えられている。

「兄ちゃんにもあげる」

亮平の喉から、声にならない音が漏れた。

妹はあの日、彼におみやげを渡すつもりだったのだ。

ドアの閉まる音がした。

「待ってくれ」

亮平は座り込んだ。

電車が走り出す。真央はもう手を振っていなかった。ただ、遠くから彼を見ていた。怒っても恨んでもいない目だった。

それが、かえって苦しかった。

「俺は、あいつに何もしてやれなかった」

向かいに座っていた老人が言った。

「何もしてやれなかった人間は、たいていそう思う」

「本当に何もしてないんです」

「それを決めるのは、あんただけじゃない」

亮平は老人を睨んだ。

老人は窓の外を見ていた。次の駅の灯りが近づいている。

花ヶ丘。

ウェディングドレスの女が、ゆっくり顔を上げた。

三 沙夜

沙夜は、白い手袋を外した。

左手の薬指には、指輪がなかった。つけるはずだった指輪は、今も式場の控室に置かれている。いや、置いてきたのではない。つけられなかったのだ。

花ヶ丘駅の近くに、小さな結婚式場がある。

沙夜はそこで、七年前、結婚するはずだった。

相手の名前は遼太。大学時代から付き合って、よく笑う人だった。カレーに必ずソースをかけるところが嫌で、映画の途中で寝るところが好きだった。

式の朝、沙夜は逃げた。

理由はいくらでも並べられる。仕事を辞めるのが怖かった。知らない家族の一員になるのが怖かった。幸せになることが、自分には不釣り合いだと思った。

でも本当の理由は、母の一言だった。

「あんたは誰かを幸せにできる子じゃない」

幼いころから何度も聞いた言葉だった。式の前夜、電話越しにそれを言われ、沙夜はそのまま朝まで眠れなかった。

遼太に何も言わず、式場へ行かなかった。

その後、彼がどうしたのかは知らない。知るのが怖かった。電話番号も、住所も、思い出の写真も、全部消した。

なのに、この電車は消したはずの駅へ向かっている。

花ヶ丘駅のホームには、白い花が咲いていた。季節外れの桜のように、淡く降り積もっている。

ドアが開いた。

ホームの向こうに、式場が見えた。ガラス張りのチャペル。鐘。白い階段。

その階段の下に、遼太が立っていた。

タキシード姿のまま、花束を持っている。七年前の顔で、少し困ったように笑っている。

沙夜は唇を噛んだ。

行かなければ。
謝らなければ。
「怖かった」と言わなければ。

足は動かなかった。

彼女は笑ってしまった。涙が頬を伝った。

「そうよね」

降りられないのだろうと思っていた。自分がそんな都合のいい結末をもらえるはずがない。

だが、そのとき、車掌室から声がした。

「お降りの方は、お忘れ物のないようご注意ください」

車内の全員が顔を上げた。

ドアの上のランプが点滅している。

沙夜の足元を縛っていた見えない糸が、ふっと切れた。

降りられる。

彼女は一歩を踏み出した。ホームの空気が靴先に触れた。

その瞬間、遼太の姿が変わった。

七年前の彼ではなく、今の彼が立っていた。目尻には皺があり、左手には指輪があった。隣には、知らない女性と、小さな女の子がいる。

沙夜は足を止めた。

遼太は沙夜に気づかない。家族と笑いながら、式場の前を通り過ぎていく。おそらく、誰かの結婚式に招かれたのだろう。

花束は、もう彼女のためのものではなかった。

沙夜はホームに片足を置いたまま、動けなくなった。

降りることはできる。
けれど、そこには沙夜が望んだ過去はなかった。

遼太の娘が、白い花びらを拾って母親に見せた。遼太がその頭を撫でる。幸せそうだった。心から。

沙夜はゆっくり、電車に足を戻した。

ドアが閉まった。

亮平が驚いたように言った。

「降りられたのに」

沙夜は席に座り、外を見た。

「降りたい駅と、戻りたい時間は違うのね」

電車が動き出す。

胸の奥で、七年間固まっていた何かが崩れた。それは悲しみというより、ようやく自分のものになった痛みだった。

沙夜は初めて、声に出して言った。

「ごめんなさい」

誰に届くわけでもない。けれど、その言葉は窓ガラスを曇らせ、すぐに消えた。

次の駅名は告げられなかった。

車内の灯りが一度消え、再びついたとき、老人が立ち上がっていた。

四 玄次

玄次は野球帽をかぶった。

古い帽子だった。つばは折れ、汗染みが残っている。息子のものだ。

三十年前、玄次はこの廃線の運転士だった。

最終列車を走らせていた夜、踏切で事故があった。酔った男が遮断機をくぐった。ブレーキは間に合わなかった。新聞は玄次を責めなかった。会社も責めなかった。誰も「あなたのせいだ」とは言わなかった。

だから玄次は、自分で自分を責めた。

家に帰れなくなった。妻と息子の顔を見ることができなくなった。鉄道を辞め、遠い町へ移った。手紙は何通も書いたが、一通も出せなかった。

息子が少年野球の試合に出る日、玄次は約束していた。

「必ず見に行く」

だが行かなかった。

その日を境に、息子からの手紙も途絶えた。妻が亡くなった知らせも、人づてに聞いた。息子が家庭を持ったことも、孫がいることも、遠くから知った。

行きそびれた目的地は、一つではない。

帰るはずだった家。
座るはずだった観客席。
言うはずだった「すまない」。

玄次は何度もこの電車に乗った。降りられない夜もあった。降りられるのに降りなかった夜もあった。

そして今夜が、最後だとわかっていた。

電車は暗い鉄橋を渡っていた。下には川ではなく、星空が流れている。車輪の音は心臓の鼓動に似ていた。

美咲が尋ねた。

「この電車は、どこへ向かっているんですか」

玄次は答えた。

「その人が最後に選ばなかった場所だよ」

「選ばなかった?」

「行けなかったんじゃない。選ばなかった。怖くて、苦しくて、間に合わなくて、理由はいろいろある。でも、どこかで自分が手を離した場所だ」

亮平が顔を上げた。

「妹の事故は、俺が選んだわけじゃない」

「事故はな。だが、あの子のことを思い出すたび、自分だけを罰することは選んできたんじゃないか」

亮平は言い返さなかった。

玄次は美咲を見た。

「あんたは、母親の最後の電話に出られなかった。だが、そのあと生きている人間の電話にも出なくなったんじゃないか」

美咲の肩が震えた。

「母さんの声を聞くのが怖くて、誰の声も聞けなくなったんです」

沙夜は小さく言った。

「私は、幸せな人を見るのが怖かった」

玄次はうなずいた。

「だから、この電車は降ろさない。降りる駅を客に選ばせたら、みんな過去へ戻ろうとする。だが線路は戻らない。進むだけだ」

車内放送が流れた。

「まもなく、終点です」

窓の外に、懐かしい町が現れた。

玄次の家だった。

夕暮れの路地。錆びた自転車。庭の柿の木。門柱には、今も表札がかかっている。

ホームのない場所で、電車が止まった。

ドアが開く。

そこには、老人になった息子が立っていた。玄次が記憶している少年ではない。白髪交じりで、背中が少し丸い。隣には中年の女性と、青年がいる。孫だろう。

息子は玄次を見ていた。

恨んでいるようにも、待ちくたびれているようにも見えた。

玄次は足を踏み出した。

今度は動いた。

車内から美咲たちが見ている。

玄次はホームのない闇へ降りた。足元には、いつの間にか小さなグラウンドの白線が引かれていた。少年たちの声が遠く響く。

息子が口を開いた。

「遅かったな」

玄次は帽子を脱いだ。

「すまない」

三十年分の言葉は、それだけになった。

息子はしばらく黙っていた。やがて、玄次の手から野球帽を受け取った。

「母さん、最後まで怒ってたよ」

「そうか」

「でも、待ってもいた」

玄次は目を閉じた。

電車の発車ベルが鳴る。

振り返ると、美咲が窓越しに叫んでいた。

「私たちは、どこで降りればいいんですか」

玄次は答えた。

「自分で選べない駅で降りるんじゃない。降りたあとを、自分で選ぶんだ」

ドアが閉まる。

玄次の姿は、息子と並んで夜の中へ小さくなっていった。

五 美咲

夜明け前、美咲は駅前のベンチで目を覚ました。

手には冷え切った缶コーヒーがあった。スマートフォンには午前四時五十二分。始発まで、まだ少し時間がある。

夢だったのだろうか。

そう思ったが、ポケットの中に硬いものがあった。

古い硬券だった。印字はかすれている。裏には鉛筆で、「母さんへ」と書かれていた。

美咲はそれを見つめたあと、スマートフォンを開いた。

連絡先を表示する。

弟の名前があった。母の葬儀以来、必要最低限の連絡しかしていない。弟から何度か電話が来ていたが、美咲は出なかった。声を聞けば、母のことを思い出すから。

指が震えた。

発信ボタンを押す。

数回の呼び出し音のあと、寝ぼけた声がした。

「姉ちゃん? こんな時間にどうした」

美咲は喉を詰まらせた。

言いたいことは山ほどあった。母のこと。電話に出なかったこと。ずっと逃げていたこと。

でも最初に出た言葉は、ひどく単純だった。

「ごめん。声が聞きたくなった」

電話の向こうで、弟が黙った。

それから、小さく息を吐いた。

「俺もだよ」

駅のホームに、始発電車の案内放送が流れた。

美咲は顔を上げた。そこにはもう、廃線の古い電車はいない。錆びた線路も、顔の見えない駅員も、夜の中の青葉台もない。

けれど、胸の奥にまだ車輪の音が残っている。

カタン、カタン。

行きそびれた目的地へ続く音ではなく、今いる場所から、どこかへ進む音。

始発電車がホームに入ってきた。

美咲は改札を抜ける前に、もう一度だけ硬券を見た。

裏面の文字が変わっていた。

「母さんへ」

その下に、新しい字が浮かんでいる。

「まだ、行けるところへ」

美咲は切符を財布にしまった。

電車のドアが開く。

今度は、自分の足で乗った。

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