アキラの視点:ガラスの壁の向こう
古びた真鍮のドアノブは、ひんやりと指に重かった。アキラは深呼吸をし、ドアを開けた。カラン、と頭上で小さな鈴が鳴る。店内は薄暗く、外光を拒むように厚手のカーテンが引かれていた。壁一面に並べられたガラスケースの中には、奇妙なオブジェが鎮座している。きらめく結晶、色鮮やかな流体、あるいは無機質な鉱物。それらは一つ一つ、プレートに添えられた説明文と共に、美術品のように陳列されていた。
「いらっしゃいませ、アキラ様」。
店の奥から、低い、しかしよく通る声がした。振り返ると、カウンターの向こうに、細身の男が立っていた。齢は四十代半ばだろうか。黒いスーツに身を包み、まるで店の調度品の一部であるかのように静かだった。男の眼差しは深く、アキラの奥底を見透かしているかのようだった。
アキラは喉の奥で唾を飲み込んだ。ここに来るまでに、何度も迷った。この記憶を売ってしまえば、もう二度とあの痛みを感じることはない。しかし、同時に、その痛みの中に閉じ込められた「何か」も失うのだろう。それでも、彼はもう限界だった。あの夜の記憶が、彼の心臓を常に握り潰そうとする。
「あの、売却の相談で……」
声が震えた。男は静かに頷き、カウンターの上の椅子を指し示した。アキラはそれに従い、椅子に腰掛ける。対面式のカウンターには、何も置かれていない。ただ、真っ黒な艶やかな表面が、アキラの不安な顔を映していた。
「どのような記憶を?」店主は簡潔に問うた。
アキラは目を閉じ、再びあの日の光景を呼び起こそうとする。しかし、それはもう彼の一部と化しており、言葉にすることすら困難だった。あの赤い色、耳鳴りのような静寂、そして手のひらに残る、生々しい感触……。
「僕は、彼女を……」
アキラの言葉が途切れた瞬間、彼の脳裏を鮮烈なフラッシュバックが襲った。ガラスが割れる音、彼女の悲鳴、そして、赤い液体がじわりと広がる光景。彼は思わず両手で頭を抱え込んだ。
店主の視点:記憶の重みと価値
「いらっしゃいませ、アキラ様」。
いつものように、来店客の名前を呼んだ。声質、足音、ドアを開ける躊躇い方。それら全てが、彼がどのような記憶を抱えているかを物語っていた。アキラ、若く、生気に満ちているはずの瞳の奥に、深い影を宿している。彼の持つ記憶は、おそらく彼を内部から蝕んでいる種類のものだろう。
若い男がカウンターに座ると、私は彼の眼差しから、彼が何を求めているのかを読み取った。忘却。解放。そして、おそらく贖罪。私が指し示す椅子に座る彼は、全身で「苦痛」を表現していた。
「どのような記憶を?」
私の問いに、彼は言葉を選ぶようにうつむいた。そして、「僕は、彼女を……」と呟いた瞬間、彼の脳波が乱れ、苦痛の波形がピークに達した。私の意識は、彼が抱える記憶の表層に触れる。それは、鮮烈な赤と、断片的な音、そして深い後悔の感情だった。
「その記憶は、貴方にとって、どれほどの重みがありますか?」
私は問いかけた。記憶は、ただの記録ではない。それは感情と結びつき、人生を形作るものだ。その重みが、記憶の価値を決める。この記憶は、彼自身の人生を歪め、未来を閉ざしかねないほどの重みを持っている。
彼の記憶は、まだ未加工の原石だ。しかし、その輝きは、多くの物語を秘めていることを示唆していた。この記憶を欲しがる者は、きっといる。悲劇を追体験することで、自らの生の意味を見出そうとする者。あるいは、他者の苦悩を通じて、共感を深めようとする者。
私はカウンターの奥にある、記憶抽出装置へと視線を向けた。彼は、この記憶から解放されたいと願っている。そして、私はその記憶に、新たな価値を与え、新たな物語を紡ぐ役割を担う。それは、彼にとっての解放であり、私にとっては、この「想起の画廊」を維持するための、また新たなコレクションの獲得を意味する。私は、この記憶が持つ、まだ見ぬ可能性を感じていた。
リサの視点:空白を埋める色彩
リサは、店内の薄暗い通路をゆっくりと歩いていた。壁一面に並べられたガラスケースの中には、様々な「記憶」が具現化されたオブジェが鎮列されている。微かに香る甘いシトラスの匂い。鮮やかなエメラルド色の結晶。それらに触れると、記憶の断片が脳裏にフラッシュバックする。子供の頃の夏の記憶。初めて恋をした日の高揚感。どれもこれも、彼女のものではない、他人の感情の残滓。
リサは、自身の中にぽっかりと空いた「空白」を埋めるために、ここに通っていた。彼女は、特定の感情を抱くことが難しい。喜びも悲しみも、どこか霞がかかったように曖昧で、他人の感情を追体験することでしか、その輪郭を掴めないでいた。
そんな時、店内に新たな客が入ってくる気配を感じた。チリン、という鈴の音。若い男だ。彼の放つ感情の波動は、まるで嵐のようだった。深い絶望、後悔、そして激しい自己嫌悪。リサは、その感情に強く惹きつけられた。それは、彼女が今まで体験したどの記憶よりも、生々しく、鮮烈なものだった。
男はカウンターへと向かい、店主と話し始めた。リサは、彼の背中越しに、彼が放つ感情の渦に意識を集中させる。店主の問いかけに、男は言葉を詰まらせ、「僕は、彼女を……」と呟いた瞬間、彼の感情の嵐が頂点に達した。頭を抱え込む男の姿に、リサはほとんど無意識のうちに一歩前に踏み出した。彼の記憶は、きっと彼女が探している「空白を埋める色彩」になるだろう。
この感情の激しさは、一体何なのだろう。彼が抱える「痛み」の正体は何なのだろう。リサは、その記憶がどのような形となって、ガラスケースの中に並べられるのか、期待と不安を抱きながら、彼の姿を見つめていた。彼女は、この記憶を手に入れずにはいられない衝動に駆られていた。それは、彼女自身の感情を呼び覚ます、唯一の鍵となるかもしれないからだ。
カイトの視点:店の外の影
「想起の画廊」。その店名は、カイトにとって、忌まわしい過去を想起させるものだった。彼は、路地の影に身を潜め、店の入り口を監視していた。古びた真鍮のドアノブが鈍く光る。チリン、という鈴の音が耳に届く。若い男が一人、店の中へと吸い込まれていくのが見えた。アキラ、確か彼の名前はアキラだったはずだ。
カイトは、数ヶ月前からこの店をマークしていた。この街で頻発している、不可解な「記憶喪失事件」。被害者たちは、特定の記憶だけがぽっかりと抜け落ちた状態で見つかる。そして、その記憶が抜け落ちた空白部分からは、不可解な幸福感や、あるいは深い虚無感が滲み出ているという。警察は当初、新種の薬物犯罪や精神疾患を疑ったが、カイトは、この「想起の画廊」の存在を知り、直感的に何かを察知した。
この店では、記憶が売買されている。そんな都市伝説のような話は、カイトの耳にも入っていた。しかし、単なる噂として片付けることはできなかった。彼自身の過去にも、同様の記憶の空白が存在するからだ。あの、あるはずのない空白。失われた記憶の痕跡。それは、彼が警察官になった、決定的な理由でもあった。
店内に吸い込まれていくアキラの背中を見ながら、カイトは胸騒ぎを覚えた。アキラが抱える記憶の重さは、彼自身の感情の波形として、カイトの脳裏に微かに伝わってくる。深い後悔、痛み、そして何かを「隠そうとする」意思。それは、かつての自分と酷似していた。
カイトは、店の窓を注意深く観察する。曇りガラスで内側はほとんど見えないが、ガラスの向こうに、人の影が揺らめいているのが見えた。若い女性のようだ。彼女もまた、この店の顧客なのだろう。そして、彼女がアキラの記憶に興味を抱いていることを、カイトは確信した。
あの記憶の空白。それは、本当に消去されたものなのか? それとも、誰かの手によって「再構築」されているのか? カイトは、腰に差した銃の冷たい感触を確かめながら、路地の影から一歩踏み出した。アキラが売ろうとしている記憶、そしてそれを買おうとしている女性。この二つの存在が交錯する時、隠された真実が明らかになる予感がした。この店は、ただの商売をしているだけではない。人の心、人生そのものを弄んでいるのだ。カイトは、今回の事件を解決することで、自分自身の記憶の空白にも、答えを見つけられるのではないかと、かすかな希望を抱いていた。
アキラの視点:失われた赤
店主の問いに、アキラは再び顔を上げた。 「その記憶は、貴方にとって、どれほどの重みがありますか?」 重み。その言葉が、アキラの心を深く抉った。彼の全存在を支配するほどの重み。彼は、それを手放すことで、本当に解放されるのだろうか。一瞬、躊躇いがよぎったが、あの苦痛に耐え続けるよりはマシだ。彼は決意を固めた。
「彼女を…殺してしまった、あの日の記憶です」
アキラの声は、まるで鉛のように重かった。彼がそう告白した瞬間、店の空気が一瞬にして凍りついたかのように感じられた。ガラスケースに並んだ記憶のオブジェたちが、彼の告白に耳を傾けているかのようだった。
「その記憶を、結晶化しましょう」店主は淡々と言った。「痛みと、後悔と、そして、貴方にとって最も重要な『赤』を」
店主はカウンターの下から、小さな銀色のデバイスを取り出した。それは、水晶の先端を持つペン型のもので、先端が淡く青白い光を放っている。アキラは、指示されるままに、そのデバイスの先端をこめかみに当てた。ひんやりとした感触。そして、次の瞬間、彼の頭の中に、電流が走ったかのような鋭い痛みが奔った。
視界が歪み、脳裏にあの日の光景が、これまで以上に鮮明に、しかし逆再生のようにフラッシュバックした。彼女の悲鳴が遠ざかり、ガラスが割れる音がゆっくりと元に戻る。そして、彼の両手から、あの血の「赤」が、まるで吸い上げられるかのように消えていく。
痛みはピークに達し、そして、急速に引いていった。デバイスが、淡い青白い光を放ちながら、赤みを帯びた光を吸い上げているのが見えた。その光は、やがてペン型のデバイスの先端に集まり、小さな、真紅の結晶へと凝縮されていった。
頭の中が、奇妙なほどに軽くなった。あの重荷が消え去った。しかし、同時に、大きな「喪失感」がアキラを襲った。あの痛みの中にあった、確かに存在した彼女の温もりまで、一緒に失ってしまったかのような虚無感だった。彼は、自身の両手を見つめた。そこには、もう、あの日の「赤」は存在しない。
店主の視点:結晶化される真実
アキラの口から発せられた「殺した」という言葉に、私はわずかに眉を上げた。なるほど、これほどまでの重みを持つ記憶。彼自身の人生を破滅させる可能性を秘めた、稀有な記憶だ。それは、私のコレクションの中でも、特に希少な「悲劇」のカテゴリーに分類されるだろう。
「その記憶を、結晶化しましょう」
私は、彼の感情を落ち着かせるように、冷静な声で告げた。彼は、この記憶から解放されることを望んでいる。私の役目は、その記憶を彼から分離し、新たな価値を与えることだ。私は、カウンターの下から記憶抽出デバイスを取り出した。このデバイスは、脳内の特定の神経伝達物質の活動を抑制し、特定の記憶パターンを物理的な媒体へと変換する。
アキラがデバイスをこめかみに当てた瞬間、彼の脳波は再び乱高下を始めた。彼の記憶が、鮮やかな映像と感情の奔流となって、デバイスのセンサーへと流れ込んでくる。ガラスが割れる音、女性の悲鳴、そして、最も鮮烈な「赤」の記憶。その「赤」は、単なる血液の色ではない。それは、失われた愛情、後悔、そして取り返しのつかない悲劇の象徴だった。
デバイスの先端から、淡い青白い光が放出され、アキラの記憶が、光の粒子となって吸い上げられていく。彼の脳内の特定の部位から、その「赤」の記憶が剥がれ落ちていく感覚。それは、まるで彼の魂の一部が、体から引き剥がされるかのようだった。私は、そのプロセスを細心の注意を払って監視する。記憶の抽出は、デリケートな作業だ。感情の強度が強すぎると、購入者が記憶を体験した際に、精神的なショックを受ける可能性がある。
やがて、吸い上げられた「赤」の記憶は、デバイスの先端で収束し、真紅の結晶へと姿を変えた。それは、見る者の心を奪うほどの美しさを持っていた。しかし、その美しさの裏には、深淵なる悲劇が隠されている。私は、その結晶を丁寧にピンセットで摘み、準備しておいた小さなガラスの小瓶に入れた。
アキラの顔からは、苦痛の表情が消え、代わりに虚無感が広がっていた。彼は、確かにあの記憶から解放された。しかし、その代償は、彼自身の「一部」を失うことだ。彼の心にぽっかりと空いた穴は、もう二度と埋まることはないだろう。だが、それは私の管轄外だ。私は、記憶の売買人。記憶の価値を見極め、それを欲する者に提供する。それだけだ。私は、新たな結晶を棚に並べる準備を始めた。
リサの視点:共鳴する結晶
アキラの苦痛の波動が、店内に満ちていた。彼は何かを告白し、その直後、さらに強い痛みに包まれた。リサは、ガラスケースの間を縫うように、カウンターへと近づいた。店主が、ペン型のデバイスを彼のこめかみに当てているのが見えた。青白い光が、アキラの頭から何かを吸い上げている。
その瞬間、リサの心臓が強く脈打った。彼女自身の心に、これまで感じたことのない強い「共鳴」が生まれたのだ。それは、アキラから吸い上げられている「記憶」が、彼女の空白と深く結びついていることを示唆していた。
デバイスの先端に、真紅の結晶が形成されていくのが見えた。それは、深淵なる赤色で、まるで燃え盛る炎のように、見る者の目を奪う美しさだった。しかし、その美しさの中に、リサは言いようのない悲しみと、途方もない後悔を感じ取った。
アキラの顔から痛みが消え、代わりに虚ろな表情が広がった。彼は、その「赤」の記憶から解放されたのだろう。だが、リサには、それが解放ではなく、魂の欠損のように見えた。彼の瞳の奥にあった輝きが、完全に失われてしまったかのようだった。
「その記憶を、買います」
リサは、ほぼ無意識のうちに口を開いた。店主とアキラの視線が、一斉に彼女に注がれた。店主は、感情の読めない顔で、彼女を見つめる。アキラは、まるで幽霊でも見るかのように、虚ろな目で彼女を見ていた。
店主は、真紅の結晶が入った小瓶をカウンターに置き、リサへと差し出した。 「この記憶は、深い悲劇を伴います。安易な気持ちで体験されると、貴方の精神に大きな負担をかけることになりますが、よろしいですか?」 彼の問いに、リサは迷いなく頷いた。この共鳴。この強い惹きつけられ方。彼女は、この記憶の中に、自分自身の「空白」を埋める鍵があることを確信していた。そして、この結晶こそが、彼女が探し求めていた「感情」そのものなのだと。
小瓶を受け取ると、真紅の結晶は、手のひらに温かい重みを残した。リサは、その小瓶を胸に抱きしめる。すると、結晶から放たれる熱が、彼女の心臓を熱く包み込み、まるで失われた感情の血管が、再び開通したかのような錯覚に陥った。彼女は、この記憶を体験することで、自分自身が何者なのかを知れると信じていた。
カイトの視点:届かぬ声
アキラが「彼女を殺してしまった」と告白した瞬間、カイトの背筋に冷たいものが走った。殺害。やはり、この店はただの記憶売買所ではない。犯罪行為の隠蔽にも利用されているのだ。カイトは、無意識のうちに通信機に手を伸ばし、応援を要請しようとした。
しかし、その瞬間、店主が取り出したデバイスが、アキラのこめかみに当てられた。青白い光が放たれ、アキラの頭から何かを吸い上げているのが見えた。カイトは、その光景に既視感を覚えた。彼自身の記憶の空白も、もしかしたら、このような形で「処理」されたのではないか。
デバイスの先端に、真紅の結晶が形成されていく。その「赤」は、あまりにも鮮烈で、カイトの視界の端で、薄暗い店内が、一瞬、血の色に染まったかのように見えた。アキラの顔から苦痛が消え、深い虚無感が広がる。彼は、確かにあの記憶から解放された。しかし、カイトの目には、それが、自己を喪失した人間の姿に映った。
その時、店内の奥から、女性の声が聞こえた。「その記憶を、買います」。アキラから記憶を吸い上げたばかりの真紅の結晶を、あの女性が買おうとしている。カイトは、その声に聞き覚えがあった。リサ。記憶喪失事件の被害者の一人だ。彼女もまた、この店の顧客だったのか。
カイトは、すぐに店内へ突入するべきか、躊躇した。もし、彼女がアキラの「殺害の記憶」を体験してしまえば、彼女もまた、その影響を受けてしまうかもしれない。しかし、同時に、その記憶の中に、記憶喪失事件の真実、そして彼自身の空白の記憶の鍵があるかもしれないという可能性が、カイトの脳裏をよぎった。
店主がリサに、結晶の危険性を警告する声が、微かに耳に届く。しかし、リサは迷いなく頷き、小瓶を受け取った。カイトは、通信機を握りしめ、店内への突入準備を整えた。しかし、彼の指は、トリガーを引くことを躊躇していた。この記憶を売買するシステム自体が、法的にグレーゾーンなのだ。彼は、証拠が必要だった。その「記憶」そのものが、何よりの証拠になるだろう。
リサが小瓶を胸に抱きしめた時、カイトは、店の外からでも、その結晶から放たれる異様な熱量を感じ取った。それは、単なる物理的な熱ではなく、深い感情のうねりのようなものだった。彼は、突入のタイミングを計った。リサが記憶を体験する瞬間、その時こそ、全てが明らかになる。この店の闇、記憶売買の真実、そして、彼自身の失われた過去の答えが。カイトは、店のドアへと視線を固定し、息を殺した。
アキラの視点:空っぽの魂
頭は軽かった。しかし、同時に、空っぽだった。 アキラは、店を後にした。彼の足取りは、来店時よりも軽かったが、その心には、得体の知れない虚無感が渦巻いていた。あの「赤」の記憶は、もう彼の中にはない。あの痛みも、後悔も、そして彼女の悲鳴も。全てが消え去った。
しかし、なぜだろう。彼の手には、まだ、あの日の「感触」が残っているかのような錯覚がした。何かを失った、決定的な喪失感。彼女を殺してしまったという事実からは解放されたが、彼女と過ごした「時間」や「感情」まで、一緒に消え去ってしまったかのようだった。
彼は、ふと足を止めた。目の前の街並みが、色彩を失ったかのように見えた。人々は、忙しなく行き交い、それぞれの日常を送っている。しかし、アキラの目には、彼らの姿が、まるで影絵のように映った。感情を失った自分は、もうこの世界の一部ではないかのようだった。
ポケットに入っていた、唯一の遺品、彼女が彼に贈ってくれた小さなペンダントを握りしめる。それは、あの日のことを思い出させる唯一の物だった。だが、もう、それを見ても、彼の心は何も感じない。ただ、冷たい金属の感触だけが、彼の手のひらに残った。
あの記憶を売却して、彼は自由になったはずだ。だが、この虚無感は、何なのだろう? もしかしたら、あの痛みの中にこそ、彼の「人間性」があったのではないか。アキラは、後悔にも似た感情を覚えた。それは、売却した記憶とは異なる、別の種類の痛みだった。彼は、もう二度と、あの「赤」の記憶を取り戻すことはできない。そして、その記憶と共に、彼の一部も、永遠に失われてしまったのだ。
店主の視点:満たされたコレクション
リサが真紅の結晶を購入し、店を後にした。私は、カウンターから彼女の後ろ姿を見送った。彼女の瞳には、記憶の追体験への強い期待が宿っていた。この記憶は、彼女の心の空白を一時的に埋めることができるだろう。しかし、その先に何が待っているかは、彼女自身が体験するまで誰も知る由もない。
アキラもまた、店を後にした。彼の顔には、安堵と同時に、深い虚無感が刻まれていた。彼は、最も重い記憶から解放された。だが、その代償は、彼自身の感情の一部だった。私にとって、それはいつもの光景だ。記憶の売却者は、常に何かを失い、記憶の購入者は、常に何かを得る。それが、この「想起の画廊」のサイクルだ。
私は、新たな空いたガラスケースに、リサが購入した記憶の結晶のレプリカを置いた。もちろん、本物ではない。しかし、その輝きは、この店のコレクションに、新たな深みを加えるだろう。アキラの記憶は、私のコレクションの中でも、特に強烈な「悲劇」の一品となる。
この店は、人々の失われた感情を具現化し、売買する場所だ。忘れ去られた喜び、癒えない悲しみ、隠された秘密。それら全てが、私にとっては貴重な商品だ。私は、記憶の価値を知っている。それは、個人の生を彩るだけでなく、他者の生を豊かにする力を持っている。あるいは、破壊する力も。
私は、店内の照明を調整し、ガラスケースの中のオブジェたちが、より神秘的に輝くようにした。それぞれの記憶は、それぞれの物語を語る。そして、それらの物語が交錯する時、新たな真実が生まれることもある。
だが、私は決して、その真実に干渉しない。私の仕事は、記憶の収集と加工、そして売買。それ以上でも、それ以下でもない。私は、記憶が持つ無限の可能性を信じている。それは、人々の人生を変える力を持っている。良い方向にも、悪い方向にも。私は、その結果を静かに見守るだけだ。
リサの視点:過去の断片
小瓶を開け、リサは真紅の結晶を手のひらに載せた。ひんやりとした感触だが、すぐに、内側から熱を帯び始めた。彼女は、目を閉じ、結晶をぎゅっと握りしめた。
視界が、一瞬にして「赤」に染まった。 それは、鮮烈な「赤」だった。血の色、炎の色、怒りの色。 彼女の脳裏に、断片的な映像がフラッシュバックする。 古いアパートの一室。ガラスが割れる音。女性の悲鳴。 「やめて!アキラ!」 その声は、なぜかリサの心に深く響いた。
次の瞬間、彼女は、アキラの視点に立たされていた。 目の前に広がるのは、倒れた女性の姿。白いドレスが、鮮やかな赤に染まっていく。 「違う…俺は、こんなつもりじゃ…」 アキラの絶望と後悔の感情が、リサの心臓を締め付ける。痛み、吐き気、そして、制御不能な怒り。リサは、その感情の奔流に飲み込まれそうになる。
しかし、その激しい感情の渦の中、リサは、ある「違和感」に気づいた。 アキラの記憶は、確かに女性を「殺した」と認識している。 しかし、女性の悲鳴は、彼への「懇願」ではなく、どこか「驚き」と「絶望」が混じっていた。 そして、倒れた女性の姿。その手には、ガラスの小瓶が握られていた。中身は空っぽだ。 その小瓶には、どこか見覚えがある。
そして、その小瓶から、微かに「甘いシトラスの匂い」がした。 「あれ?この匂いは…」
リサは、目を見開いた。彼女自身の記憶の底から、何かが湧き上がってくる。 この匂いは、彼女が子供の頃、いつも肌身離さず持っていた「記憶の香水」の匂いだった。 母が作ってくれた、大切な記憶を呼び覚ますための香水。 そして、あの小瓶は、母がいつも持っていたものと、全く同じ形をしている。
その時、アキラの記憶のさらに奥底から、別の断片が浮かび上がった。 「これで、お前も私と同じ…」という、女性の、どこか達成感にも似た、歪んだ笑顔。 そして、アキラが彼女を突き飛ばしたのではなく、彼女自身が、まるで「誘うように」アキラの手を掴み、その刃へと身を投げたかのような、一瞬の映像が。
リサは、結晶を落とした。真紅の結晶が床に落ち、音を立てて砕け散った。 「違う…」リサは呟いた。「アキラは、殺してない…これは、誰かの記憶が…」 彼女の脳裏に、一連の映像が再構築されていく。 母は、自分自身を傷つけることで、アキラの心に「殺害の記憶」を植え付け、彼をも「記憶を売らざるを得ない人間」にしようとしたのだ。 母は、自身が苦しんだ記憶の空白を、他者に共有することで、自らの存在意義を見出そうとしていた狂気の女だったのだ。 そして、その「記憶の香水」は、母が記憶を操作するために使っていたものだった。
リサは、自分の失われた空白の記憶が、実は、母によって「消去」されたものだったことを理解した。母は、リサの心に、アキラと同じような「空白」を作り、自分と同じ感情を抱かせようとしていたのだ。 アキラの記憶は、母の歪んだ愛情と、狂気の復讐劇の断片だった。 リサは、彼女自身の感情が、怒りと、悲しみと、そして、生まれて初めて抱く「絶望」の色彩で満たされていくのを感じた。
カイトの視点:扉の向こうの真実
リサが真紅の結晶を握りしめた瞬間、カイトは躊躇なく、店のドアを蹴破った。 ドオン!という大きな音が店内に響き渡り、ドアは蝶番から外れて床に倒れ込んだ。
「動くな!警察だ!」
カイトは、銃を構え、店主とリサに向けた。店主は、感情一つ見せず、静かに手を挙げた。リサは、床に砕け散った真紅の結晶の破片を見つめ、顔を真っ青にして震えていた。彼女の瞳は、これまでの虚ろな光を失い、恐怖と絶望、そして強い怒りに満ちていた。
「リサさん、大丈夫か!」
カイトは、砕け散った結晶の破片と、混乱しているリサの姿を見た。何が起こったのか、瞬時に理解した。彼女は、アキラの記憶を体験し、そして、その中に隠された「真実」に触れてしまったのだ。
「アキラは…殺してない…」リサは震える声で呟いた。「あれは…彼女が…私のお母さんが…」
カイトは、驚愕した。彼女の母親が関わっている? そして、アキラは殺害犯ではない? 彼自身の記憶の空白が、再び脳裏をよぎる。あの空白も、もしかしたら、同じように誰かの手によって「植え付けられた」ものだったのではないか。
店主は、カイトの銃口を見据えながら、静かに語り始めた。 「記憶は、常に流動的なものです。見る者の視点、感情、解釈によって、その真実は容易に歪められる。私の役割は、その歪んだ記憶に、新たな価値を与えること。彼(アキラ)は、その記憶から解放されたかった。彼女(リサ)は、その記憶から、感情を取り戻したかった。どちらも、彼らの望み通りになっただけです」
「記憶を歪めることが、お前の仕事だというのか!」カイトは怒鳴った。 「歪んだのは、記憶そのものではありません。その記憶を抱えた者の『心』です。私は、その心を映し出しただけ」
カイトは、店主の言葉の奥に、深い悪意と、歪んだ哲学を感じ取った。この男は、人の心の弱さにつけ込み、記憶という聖域を食い物にしているのだ。
リサは、砕け散った結晶の破片から目を離し、カイトを見上げた。彼女の顔には、まだ恐怖が残っていたが、その瞳の奥には、新たな「決意」のような光が宿っていた。 「カイトさん…この店を…閉めてください」
カイトは、頷いた。彼の胸には、複雑な感情が渦巻いていた。あの記憶の空白の謎が、今、解かれようとしている。そして、その真実の中には、彼自身の過去も深く関わっていることを、彼は確信していた。彼は、店主に向けて再び銃口を向け、ゆっくりとトリガーに指をかけた。この「想起の画廊」は、今日で終わりだ。そして、ここから、新たな真実が始まろうとしていた。