広告

第一章 触覚

雨が降りはじめたことを、私は肌で知った。

空を見上げたわけではない。窓を叩く音を聞いたわけでもない。頬の上に、ひとつ、冷たい点が落ちた。ただそれだけで、街がまた消えていくのだと分かった。

透明になる雨。

そう呼ばれるようになったのは、三年前の梅雨からだった。最初はただの気象異常だと思われていた。雨に濡れた看板の文字が読めなくなり、濡れた傘の骨だけが宙に浮き、人の輪郭が薄くほどけていった。

雨粒が染みたものは、内側から光を失うように透明になる。

完全に消えるわけではない。触れれば、そこにある。重さも、温度も、柔らかさも残っている。ただ見えなくなる。だから街では、雨の日に手袋をする人が増えた。透明になった誰かとぶつからないために。見えなくなった自分を、まだここにいると確かめるために。

私の右手には、君の手の感触が残っている。

最後に君と会った日も、透明雨だった。

君は駅前の歩道橋で私の手を握った。指先は濡れて冷たかった。けれど手のひらだけは熱かった。強く握られて、骨の形まで分かるほどだった。

「もし見えなくなっても、離さなければ大丈夫」

君はそう言った。

その言葉の形を、私は耳ではなく、掌で覚えている。君が話すたび、握った手がわずかに震えたからだ。

雨脚が強くなり、君の袖が先に消えた。次に肩。髪。頬。透明になっていく君の身体は、見えない水に溶ける砂糖菓子のようだった。

私は怖くなって、手を握り返した。

まだある。
まだ温かい。
まだ君だ。

そう思った。

けれど次の瞬間、歩道橋の階段を駆け上がってきた誰かが私たちにぶつかった。肩に鈍い衝撃。濡れたコートの冷たさ。私の足元が滑った。指がほどけた。

君の手が離れた。

それから、私はずっと君を探している。

今日も私は、透明雨の中を歩いている。

杖の先で地面を探る。濡れた点字ブロックはぬめり、靴底の溝に水が入り込む。すれ違う人の気配は、肩先に触れる空気の乱れで知る。ときどき見えない肘が腕に当たり、透明になった鞄の角が腰をかすめる。

誰も謝らない。

謝る相手がどこにいるか分からないから。

私は両手を前に伸ばす。
雨は手の甲に降り、指の間を流れ、袖口から入り込む。皮膚の上で細い川になる。その冷たさの中に、君の手の温度だけを探す。

駅前の歩道橋に着くころ、私の腕は肘まで透明になっているはずだった。けれど私は見ない。見ることは、今の私にはあまり役に立たない。

手すりに触れる。

金属は冷え切っている。表面に雨粒が並び、指を滑らせると小さな凹凸が連なっていく。その先に、何かが結びつけられていた。

布だ。

濡れて、薄く、半分ほど透明になっている。指でたぐると、柔らかいリボンの形をしていた。

私は息を止める。

君が髪に結んでいたものと、同じ幅。
同じ結び目。
同じ、ほどけかけた端。

触れた瞬間、三年前の君の手が、私の掌の中で震えた気がした。

私はリボンを握りしめる。

まだ、ここにいる。

そう皮膚が告げていた。

第二章 嗅覚

雨の匂いはしない。

透明雨には、普通の雨が持っている土の匂いも、埃が沈む匂いも、濡れたアスファルトの匂いもない。ただ、世界から匂いだけを抜き取ったような、空白の匂いがする。

私はその空白を嗅ぎながら、歩道橋の下へ降りた。

透明になった街では、匂いが地図になる。

見えない花屋は、湿った茎と切り口の青臭さで分かる。見えないパン屋は、焼けた小麦と焦げた砂糖の匂いで分かる。見えない人々は、整髪料、洗剤、煙草、制汗剤、雨に濡れた革靴の匂いを少しずつ落としていく。

君には、柚子の匂いがした。

香水ではなかった。君は香水が苦手だった。冬になるとよく柚子茶を飲んでいて、指先にも、マフラーにも、息にも、薄い柚子の香りが残っていた。

三年前、手が離れたあと、私は君の名前を呼びながら歩道橋を降りた。けれど雨がすべてを透明にしていて、君の姿はどこにもなかった。

代わりに、柚子の匂いが階段の下まで続いていた。

私はその匂いを追った。

改札前。
売店の横。
地下通路。
古いコインロッカーの前。

そこで、匂いは途切れた。

警察は言った。透明雨の日の行方不明は珍しくない、と。誰かが事故に遭っても、発見が遅れる。自分が透明になったことに混乱して、遠くへ行ってしまう人もいる。犯罪も増えた。見えない身体は、加害にも被害にも都合がよすぎた。

けれど私は、君が自分から消える人ではないと知っていた。

だから三年間、雨の日になるたび、私はこの場所に来る。

今日、コインロッカーの前には消毒液の匂いがした。新しく設置された監視端末の樹脂の匂い。湿った紙袋の匂い。誰かが飲み残した缶コーヒーの甘い匂い。

その奥に、ほんのわずかに、柚子。

私は顔を上げる。

匂いは地下通路のさらに奥、封鎖された旧連絡口の方から漂っていた。工事用の白い壁で塞がれているはずの場所だ。近づくと、カビの匂いが濃くなる。錆びた金属、古い水、長く開けられていない扉の息苦しさ。

そして、その下に、柚子。

私は壁に手を這わせた。冷たいパネルの継ぎ目。ネジ穴。剥がれたテープ。ひとつだけ、隙間から風が漏れている場所があった。

そこから君の匂いがする。

いや、君そのものではない。

柚子と、薬品。
柚子と、血。
柚子と、誰かの恐怖。

私は喉の奥が痛くなるほど息を吸った。

匂いは記憶を嘘にしない。
見間違いはある。聞き間違いもある。触れたものを別のものだと思い込むこともある。

けれど、君の匂いだけは間違えない。

私は工事壁の隙間に指を差し入れ、力を込めた。

パネルがわずかに浮いた。

その奥から、三年間閉じ込められていた暗い空気が流れ出す。

私はその匂いの中に、君の名前を見つけた。

第三章 聴覚

暗い通路に入ると、音が変わった。

外の雨音は遠ざかり、代わりに地下の水滴が響きはじめる。ぽつん、ぽつん、と天井から落ちる水。排気口の奥で唸る風。私の靴底が床に貼りつく湿った音。

ここでは、世界は耳だけでできている。

私は息を浅くした。自分の呼吸が大きすぎると、ほかの音を聞き逃してしまう。透明雨の日には、目よりも耳が先に危険を知る。見えない人が近づくと、服の擦れる音や、水を踏む音がする。

通路の奥から、かすかな電子音が聞こえた。

一定の間隔で、短く鳴っている。医療機器の警告音に似ていた。私は壁に手をつきながら進む。

水滴。
風。
電子音。
そして、何かが床を引きずる音。

私は立ち止まる。

ずる、ずる。

重いものを動かしているような音だった。人間の足音ではない。だが動物でもない。布が濡れた床を擦るような、疲れた音。

「誰かいますか」

声を出した瞬間、自分の声が通路に何度も跳ね返った。

誰かいますか。
いますか。
すか。

返事はない。

代わりに、電子音が少し速くなった。

私はもう一度言う。

「雨宮透子を探しています」

君の名前は、地下の壁にぶつかって砕けた。

透子。
透子。
透子。

そのとき、奥で小さな音がした。

息を呑む音。

私は駆け出しそうになって、踏みとどまった。焦れば音を聞き逃す。焦れば、三年前と同じように手を離す。

耳を澄ませる。

どこかで、唇が震えている。声にならない声。喉の奥で詰まった息。

「透子?」

沈黙。

それから、ひどくかすれた声が聞こえた。

「……見ないで」

私は動けなくなった。

その声は君だった。

三年ぶりの君の声。
掠れて、低くなって、何度も壊れたあとを残している。それでも、最後の母音が少し上がる癖も、言葉の前に息を吸い込む間も、君だった。

「透子、どこにいるの」

「来ないで」

声は近い。けれど正確な場所が分からない。透明になった身体は音の中心を曖昧にする。声だけが宙に浮いている。

「探してた」

私は言った。

返事の代わりに、鎖の鳴る音がした。

金属が床を擦る音。細い輪がぶつかる音。私は耳の奥が熱くなるのを感じた。

「誰に」

君は笑った。

笑い声ではなかった。乾いた息が折れただけだった。

「雨に」

奥で機械が鳴った。短い警告音。続いて、液体が管を流れる音。

私は一歩進む。

「透子、何があったの」

沈黙が落ちた。

地下の水滴だけが答える。

ぽつん。
ぽつん。
ぽつん。

やがて君が言った。

「透明雨は、自然現象じゃない」

私は何も言えなかった。

「人を消すためにつくられた雨。最初は軍事用。次に治安維持用。反対する人を、見えなくするためのもの」

君の声は震えていなかった。震える力も残っていないようだった。

「私は、偶然それを知った。だから連れてこられた」

「三年間、ここに?」

鎖が鳴った。

それが答えだった。

私は奥へ進む。

君が叫ぶ。

「来ないで!」

その声に、警告音が重なった。機械が激しく鳴る。どこかで扉が作動する低い音。通路の向こうから、複数の足音が近づいてくる。

見えない警備員たちの足音。

君が早口で言った。

「聞いて。雨が強くなる。今日、街全体を完全透明化するつもり。証拠も人も、全部消す」

「止める方法は」

「上の貯水制御室。音声認証が必要」

「誰の声?」

沈黙。

それから君は言った。

「私の声」

足音が近づく。水を踏む音が増える。

私は暗闇の中で、君の声の方へ手を伸ばした。

「なら一緒に行こう」

君は小さく息を吸った。

「私はもう、歩く音を忘れた」

その言葉だけが、地下に長く残った。

第四章 味覚

君を背負ったとき、最初に感じたのは血の味だった。

自分の口の中を噛んでいた。鉄の味が舌に広がる。焦りと恐怖は、いつも同じ味がする。苦くて、ぬるくて、飲み込んでも喉に残る。

君の身体は軽すぎた。三年という時間は、人を音もなく削るらしい。肩に回された腕は細く、濡れた布越しに骨の硬さが伝わった。

けれどこの章で、私は触れたことを語るべきではない。

今、私の世界は味でできている。

地下通路の空気は、舌の上で錆びていた。古い鉄管の味。カビの粉っぽい味。漏れた薬剤の甘ったるい苦味。透明雨が染み込んだ壁からは、冷えたガラスを舐めたような無機質な味がした。

君の声は背中のすぐ近くで震えている。

「右」

私は右へ曲がる。
口の中に酸っぱいものがこみ上げる。走るたびに胃が揺れ、恐怖が舌の根を締めつける。

背後から警備員たちの声が追ってくる。短い命令。無線のノイズ。彼らの言葉は味にならない。ただ喉の奥に砂を詰められるような圧迫だけを残す。

「階段」

君が言う。

私は階段を上る。息が熱くなる。肺の奥から血の味が戻ってくる。透明になった腕が手すりを掴んでいるはずだが、私はそれを見ない。今は舌だけが、私が生きていることを教えている。

制御室の扉の前で、君は言った。

「降ろして」

私はしゃがみ、君を床へ下ろす。

君は見えない。
けれど、すぐそばにいる。

その証拠に、空気の味が変わる。

柚子。

かすかで、遠くて、三年前よりずっと弱い。けれど確かに君の味がした。私は昔、君が作った柚子茶をよく飲んだ。熱すぎると文句を言ったら、君は笑って、冷めたら甘さが鈍るのだと言った。

甘さは、熱の中でほどける。

今、私の舌には、その言葉の意味が分かる気がした。

君は扉の認証装置に顔を近づける。声を出すために息を吸った。その息が震えている。

「雨宮透子」

機械が反応しない。

君はもう一度言う。

「雨宮、透子」

声が掠れて、途中で割れた。

認証装置は冷たく告げる。

「声紋不一致」

私は口の中に苦味を感じた。

三年間閉じ込められ、薬で喉を焼かれ、話す相手も奪われた君の声は、もう君の声として認められない。

「だめ」

君が呟く。

その言葉は、舌の上で灰になった。

背後の足音が近づく。警備員たちが階段を上ってくる。時間がない。

私は認証装置の前に立つ。

「雨宮透子」

もちろん反応しない。

だが、私は続けた。

君の声を思い出す。三年前、歩道橋で私の手を握ったときの声。冬の朝、柚子茶を差し出したときの声。冗談を言う前に少し笑ってしまう声。怒ると語尾が硬くなる声。

私は喉の形を変える。
舌の位置を変える。
息の混ぜ方を変える。

君の味を思い出す。

柚子の皮の苦味。
蜂蜜の甘さ。
湯気の柔らかさ。
最後に舌に残る、ほんの少しの渋み。

そして私は、君の声で言った。

「雨宮透子」

一秒。

二秒。

認証装置が鳴った。

「認証しました」

扉が開く。

君が息を呑む。
その息には、塩の味がした。

涙の味だ。

第五章 視覚

制御室に入った瞬間、私は見えないものを見た。

透明雨に濡れた街の模型が、巨大なホログラムとして中央に浮かんでいた。ビル、道路、駅、橋、人々。そのすべてが半透明の層になって重なり、街全体がガラス細工の臓器のように脈打っている。

三年間、私は雨の日に見ることを避けてきた。

透明になるものを見るのが怖かった。消えていく君をもう一度見るのが怖かった。だから触れ、嗅ぎ、聞き、味わい、見えない君を探してきた。

けれど今、目を逸らすことはできない。

壁面のモニターには、降雨制御の数値が並んでいる。

透明化濃度。
散布範囲。
不可逆化率。
対象区域人口。

数字は美しく整列していた。人間を消すための数字は、いつも整っている。

君は床に座り込んでいる。

いや、正確には、私は君を見ることができない。けれど雨で濡れた輪郭が、制御室の白い光をわずかに歪ませている。そこに人の形をした空白がある。

空白が、君だ。

私は初めて、透明になった君を見た。

何もないのに、確かにいる。
消えているのに、世界を押し返している。

「メインバルブを閉じて」

君が言う。

私は操作盤に向かう。画面には警告が赤く点滅している。手順を間違えれば、透明化剤は雨雲に拡散し、街全体に降る。

背後の扉が開いた。

警備員たちが入ってくる。彼らも透明雨用の外套を着ていて、顔は見えない。ただ銃だけが黒く浮いている。宙に浮かぶ銃口が、こちらを向く。

「操作を中止しろ」

その声を聞いて、私は初めて怒りを形として見た。

それは赤くなかった。燃えてもいなかった。
ただ、視界の中心が異様に澄んだ。

私は操作盤を見る。
君の空白を見る。
銃口を見る。
街のホログラムを見る。

雨雲はもう新宿上空に達している。

君が言う。

「私を見て」

私は振り返る。

何も見えない。
でも、見ようとする。

空気の歪み。床に落ちる水滴の不自然な軌道。光を曲げる肩の線。頬の位置。髪があったはずの場所。

そこに、君が立っていた。

完全に透明で、けれど誰よりも確かだった。

「私を雨に戻して」

君は言った。

私は理解したくなかった。

制御室の画面には、緊急排出という項目があった。透明化剤を中和するには、既に透明化した生体組織から抽出した反応核が必要だと表示されている。

つまり、君の身体が鍵だった。

「だめだ」

私は言う。

君は笑った。

見えない笑顔なのに、分かった。三年前と同じ、少し困ったような笑い方。

「私はもう、ずっと雨の中にいた」

「これから出られる」

「出ても、誰にも見えない」

「私が見る」

「あなたは見る。でも、世界は見ない」

私は首を振る。視界が滲む。涙で透明な君がさらに見えなくなる。

君は一歩近づいた。
空白が近づく。

「見えない人間は、いないことにされる。私はそれを三年知ってる。だから、終わらせたい」

警備員が叫ぶ。

「撃て」

銃口が光る。

その瞬間、君の透明な身体が私の前に立った。

銃弾が空中で止まったように見えた。いや、君の身体に当たったのだ。血は透明ではなかった。赤い線が何もない空間に浮かび、君の輪郭を一瞬だけ描いた。

私は叫ぶ。

君は倒れない。

自分の血で、君の姿が見えている。
肩。腕。横顔。唇。

私は三年ぶりに君を見る。

それは残酷な再会だった。

君は操作盤に手を伸ばす。透明な指が、赤い非常ボタンを押す。画面が切り替わる。

「反応核、認識」

警報が鳴る。

制御室の天井から、白い霧が降りてくる。君の身体がその霧に包まれる。血で描かれた輪郭が滲み、ほどけ、光の粒になっていく。

「透子!」

君は私を見る。

今度は、はっきり見えた。

輪郭ではない。顔でもない。
君が私を見ている、という事実そのものが見えた。

「離さなければ大丈夫って、言ったのにね」

君の声は静かだった。

私は手を伸ばす。

君の手を掴む。

今度は離さない。

けれど、指の間から光がこぼれていく。水のように、雨のように。君の身体は霧に溶け、制御室の管を通り、街へ流れていく。

ホログラムの上で、雨雲の色が変わった。

透明化濃度が急速に下がる。
不可逆化率がゼロに近づく。
街の透明な人々が、少しずつ色を取り戻していく。

外では雨が降っている。

けれどそれはもう、人を消す雨ではない。

君が溶けた雨だった。

警備員たちは武器を下ろしていた。透明な外套の下で、彼らの顔が見えはじめる。誰もが、自分の手を見ていた。戻ってきた皮膚の色を、初めて見るもののように。

私は制御室の床に座り込む。

掌には、何も残っていない。

それでも、そこには君の手の感触があった。

窓の外を見る。

雨に濡れた街が、ゆっくりと姿を取り戻していく。看板の文字。傘の色。信号の赤。人々の顔。濡れたアスファルトに映る光。

世界は見えるようになった。

けれど君だけが、もうどこにも見えない。

私は窓を開ける。

雨粒が頬に落ちる。
その一粒が、透明ではなく、光って見えた。

私は目を閉じない。

雨の向こうに、君を探す。

見えないものを見るために。

おすすめの記事