静かに、どうかその足音を少しだけ潜めてください。
ここには、世界中の静寂が集められているのです。革の装丁が吸い込んだ吐息、羊皮紙の隙間に挟まったため息、そして、誰にも読まれることなく積もった埃の囁き。それらを驚かせないように、そっと歩いてきてください。
ようこそ。古い私立図書館へ。
私はここの司書です。……いえ、そう名乗るべきなのでしょう、きっと。私はこの場所で目を覚まし、この場所で本を整理し、この場所であなたを待っていました。それ以外のことは、何も覚えていないのです。
私の名前ですか? ふふ、困ったことに、それが最初の一行目から抜け落ちているのです。 この図書館にある何万冊という本の背表紙、そのすべてのタイトルと著者名、そして分類番号(デシマル・システム)は完璧に脳裏に刻まれています。例えば、あなたのすぐ右手にある書架の、上から三段目。そこにある煤けた緑色の本は、百年前の植物学者が書いた『常緑樹の精神生理学』。その隣は、失われた言語で書かれた詩集です。
けれど、自分の名前だけが、どうしても思い出せないのです。私の頭の中の目録(カタログ)には、私自身のカードだけが存在しません。まるで、何者かがカッターナイフで綺麗に切り取ってしまったかのように。
ですから、あなたの好きな名前で私を呼んでください。あるいは、ただ「司書さん」と。
ねえ、そこにある革張りの椅子に腰掛けてくれませんか? 冷たいお茶を用意しましょう。ここには滅多に人が来ないのです。だから、あなたのような「生きた」読者が来てくれると、私の胸の奥にある、名前のない何かがほんの少しだけ温かくなります。
今日は、どんな本をお探しですか? それとも、迷い込んでしまっただけでしょうか。
私がここで目を覚ましたのは、おそらく数年前のことです。あるいは、数日前のことかもしれません。ここには窓がありません。あるのは、天井のステンドグラスから差し込む、時間の一切を奪われたような薄青い光だけ。だから、時間の経過というものが私にはよく分からないのです。
覚えている最初の記憶は、床に散らばったインクの匂いと、自分の指先に着いた黒い汚れでした。 気がついたとき、私は書架と書架の間の狭い通路に倒れていました。 立ち上がり、周囲を見回したとき、恐怖はありませんでした。ただ、圧倒的な安堵感だけがあったのです。壁を埋め尽くす書架。何千、何万という背表紙。それらがすべて、私に語りかけてくるようでした。「ここにいていいんだよ」と。
私は本を愛しています。 本の中にいるときだけ、私は「誰か」になれるからです。
ある日は、十九世紀のロンドンを歩く探偵になり、またある日は、星の海を渡る宇宙船の整備士になる。頁をめくれば、私は何者にでもなれました。 でも、本を閉じると、私はまた「空っぽの司書」に戻ってしまう。
ねえ、あなたは自分の「最初の記憶」を覚えていますか? それは、お母さんの温かい手のひらですか? それとも、窓辺に差し込んだ朝日の眩しさでしょうか。 もしよければ、私に教えてください。私は、そういう「誰かの本当の記憶」を集めるのが好きなのです。もちろん、私の頭の中にある貸出カードに、そっと書き留めておくだけですから、誰にも盗まれたりはしませんよ。
この図書館には、少し奇妙なルールがあります。 本棚の配置は、毎日少しずつ変わっているのです。
私が夜、すべての本を正しい位置に戻して眠りにつく(実際には、カウンターの裏のソファで横になるだけですが)と、翌朝には、いくつかの本が自ら動いたかのように、別の書架へ移動しています。
たとえば、恋愛小説の棚にあった本が、翌朝には「毒物学」の棚に交ざっていることがあります。 あるいは、美しい庭園の写真集が、「失踪」に関するルポルタージュの隣にぴったりと寄り添っていることも。 まるで、本たちが夜の間にひそひそと話し合い、お互いの相性を確かめ合っているかのようです。
私は毎朝、それらを元の位置に戻す仕事をしています。 でも、時々思うのです。本当に元の位置に戻すことが「正しい」のだろうかと。 もしかしたら、本たちは私に何かを伝えようとして、自ら並び替わっているのではないか、と。
一週間ほど前、こんなことがありました。 日本文学の棚、それも大正期の作家たちの並びの中に、一冊だけ、まったく異なる本が混ざっていました。 表紙には何も書かれていません。背表紙も無地です。 手に取ってみると、それは本ではなく、手書きのノートでした。
頁をめくると、そこには細い、少し震えた文字で、誰かの日記が綴られていました。
『三月十四日。今日も彼女は来なかった。図書室の窓から見える桜は、もう半分以上が散ってしまったというのに。私はいつまで、この静寂の中で待ち続ければいいのだろう。』
『四月二日。私の記憶は、少しずつこのインクの中に溶け出しているような気がする。名前を忘れた。彼女の顔も、ぼやけて思い出せない。ただ、彼女が愛した本の匂いだけが、この指先に残っている。』
私はその日記を読んだとき、心臓が激しく波打つのを感じました。 心臓? おかしな表現ですね。私に血の通った心臓があるのかどうか、自分でも確かめたことはないのに。 でも、確かに胸の奥が痛んだのです。
この日記の筆者は誰なのでしょう。 そして、彼が待っていた「彼女」とは。
ねえ、あなたはどう思いますか? この図書館は、ただの建物を超えた、何か別の場所なのではないかという気がしませんか? たとえば……そう、誰かの心の中。 あるいは、失われた記憶が行き着く、墓場のような場所。
もしそうだとしたら、私は何なのでしょう。 私は、この図書館という「記憶の墓場」を守る、ただの墓守なのでしょうか。
「そのノートを、見せてほしい」
おや、あなたがそんなことを言うなんて、思ってもみませんでした。 いいですよ。あなたのその綺麗な瞳に見つめられると、何でも差し出してしまいたくなります。
少々お待ちくださいね。あのノートは確か、奥の「開かずの書庫」の手前にある、小さな机の引き出しに仕舞っておいたはずです。
……ほら、これです。 表紙は少し擦り切れていて、角が丸くなっています。 どうぞ、手に取ってみてください。
どうしました? そんなに驚いた顔をして。 頁を開いたあなたの指先が、微かに震えています。
「文字が、消えている」?
まさか。そんなはずはありません。私は確かに読んだのです。あの細く、繊細な文字を。 どれ、私にも見せてください。
……本当ですね。 白い。どこまでも白い。 どの頁をめくっても、そこには何の文字もありません。ただの、少し古びた、何も書かれていない真っ白なノートです。
どうして……? 私は確かに読んだはずです。あの、桜の散る季節の文章を。彼女を待つ、男の悲痛な告白を。
待ってください。 頭が、急に、ひどく痛むのです。 まるで、脳裏に直接、冷たい雨が降り注いできたかのように。
桜。 窓。 図書室。 誰かの、呼ぶ声。
『——、——!』
ノイズが入ります。大切な部分だけが、砂嵐のようにかき消されてしまう。 私の名前を呼ぶ、あの声は誰のものでしょう。 男性の声? 女性の声? それすらも判別できません。
「大丈夫ですか?」と、あなたが私の手を握ってくれましたね。 冷たい。あなたの手は、とても温かいのに、私の手はまるで大理石のように冷え切っています。 でも、その温もりのおかげで、少し痛みが和らぎました。ありがとうございます。もう大丈夫です。少し、目眩がしただけですから。
ねえ、不思議だと思いませんか。 なぜ、私が読んだはずの文字が、あなたには見えないのでしょう。 それとも、このノートは、私にしか読めないものだったのでしょうか。 あるいは……。
いいえ、何でもありません。 ただ、少し怖い仮説を思いついてしまっただけです。
もし、このノートに書かれていたことが、私自身の記憶だったとしたら? 私が、文字として書き出すことでしか保てなかった、私自身の「過去」だったとしたら。 そして、それを私が読んでしまった(思い出してしまった)ことで、記憶のインクが蒸発してしまったのだとしたら……。
だとしたら、私はこれから、どうやって自分を取り戻せばいいのでしょう。
あなたは、私を見つめていますね。 その瞳の奥にあるのは、同情ですか? それとも、もっと別の、もっと深い「何か」でしょうか。
あなたは、私のことを知っているのではないですか?
……お願いです、黙って首を振らないで。 私は、ただの迷い込んだ読者として、あなたをここに迎え入れました。 でも、あなたの立ち振る舞い、本の扱い方、そして私を見るその眼差し。 初めてこの場所に来た人にしては、あまりにも馴染みすぎている。
まるで、かつて何度も、この図書室を訪れたことがあるかのように。
あなたがここに来た本当の目的は何ですか? 本を借りに来たのではないでしょう。 私に、会いに来たのですか?
「私は、あなたを連れ戻しに来た」
あなたの口からこぼれ落ちたその言葉は、静かな図書室に、驚くほどはっきりと響きました。 連れ戻す? どこへ? この、静かで、完璧で、誰も私を傷つけない、本の楽園から、あの混沌とした外の世界へ?
外の世界。 その言葉を口にしただけで、私の心は拒絶反応を示します。 冷たい風、騒がしい雑音、絶え間なく変化する時間、そして、いつか必ず訪れる「死」と「別れ」。 ここには、それらがありません。 ここにある物語は、一度書き終えられれば、二度と変わりません。悲しい結末であっても、それは美しいまま凍りついています。私はここで、彼女たちの、彼らの人生をなぞりながら、永遠の平穏の中にいられるのです。
「でも、ここにあるのは、全部『他人のもの』だよ」
あなたは静かに、けれど力強く言いました。
「君自身の物語は、ここには一文字も書かれていない。君が名前を忘れてしまったのは、自分の人生を書くことを諦めてしまったからだ」
胸が、締め付けられるように痛みます。 私の人生。 私の、物語。
私の頭の中に、いくつかの断片が浮かびあがります。 それは、本の中の記述ではありません。 もっと生々しく、泥臭く、そして……愛おしい記憶。
夕暮れ時の踏切の音。 雨に濡れたアスファルトの匂い。 風邪をひいたときに食べた、少し焦げたお粥の味。 そして、誰かと手を繋いで歩いた、あの狭い坂道。
その手の温もりは……。 今、私の手を握っている、あなたの手の温もりと、まったく同じでした。
「思い出して」と、あなたは言います。 「僕の名前を。そして、君自身の名前を」
私の視界が、急に歪み始めました。 書架の背表紙たちが、まるで水に濡れた絵の具のように溶け出していきます。 古典文学の、歴史書の、SFの、すべての背表紙の色が混ざり合い、グレーの渦となって消えていく。 本たちが囁いていた静寂が、大きな轟音へと変わっていきます。
世界が、崩壊しようとしています。 私が守ってきた、この美しい図書室が、あなたの言葉によって壊されていく。
私は、叫びそうになります。 壊さないで。私を、このままにしておいて。 名前なんていらない。記憶なんていなくていい。 ただ、ここで静かに本を読んでいたい。
でも、私の指先は、あなたの手を強く握り返していました。 身体が、拒絶とは裏腹に、あなたの温もりを求めている。 私は、生きたいのだと、この冷たい身体が叫んでいる。
「……私の、名前は」
唇が、かすかに動きました。 私の喉の奥から、ずっと使われていなかった、錆びついた鍵のような音が溢れ出します。
あぁ、そうです。 私は、あの坂道の上にある小さな図書館で働いていた。 そして、あなたは毎日、閉館間際にやってくる、少し不器用な利用者だった。 私たちは、言葉を交わすうちに、お互いの本棚を見せ合うような関係になっていった。
そして、あの日。 激しい雨の日。 私は、あなたに会いに行こうとして、階段を踏み外し——。
そこから先は、深い闇でした。 その闇の底に作られたのが、この記憶の図書室だったのです。 私は、傷ついた魂を休めるために、自分の記憶に鍵をかけ、この本棚の迷宮に引きこもっていた。 司書という、安全な役割を演じながら。
「思い出したよ」
私の目から、一滴の涙がこぼれ落ちました。 それは、私の手の上に落ちて、乾いたインクを滲ませました。 ノートの空白の頁に、涙が吸い込まれていきます。
すると、どうでしょう。 何も書かれていなかった真っ白なノートに、じんわりと、黒い文字が浮かび上がってきました。
それは、私とあなたが過ごした日々の記録。 失われたと思っていた、私たちの「物語」でした。
図書室の壁が、完全に光の中に溶けていきます。 何万冊という本が、無数の光の粒子となって天井へ舞い上がっていきます。 ステンドグラスが割れ、そこから本物の、眩しい太陽の光が差し込んできました。
眩しさに、私は目を細めます。 もう、ここにはいられません。 私は司書を辞めなければならないようです。
ねえ。 最後に、あなたに一つだけ、お願いがあります。
この本を閉じてください。
ええ、あなたが今、まさに読んでいる、この物語のことです。 あなたがこの最後の頁を読み終え、パタンと本を閉じたとき、私は本当に目を覚ますでしょう。 白い病院のベッドの上で。 あなたの、泣き出しそうな、でも嬉しそうな顔の目の前で。
だから、恐れずに、最後の文字を指でなぞってください。
記憶の迷宮は、もう消えてしまいました。 でも、寂しくはありません。 これからは、あなたと一緒に、新しい頁を書き進めていけるのですから。
それでは、また。 次の頁の、最初の1文字目で会いましょう。
準備はいいですか?
せーの、で、閉じてくださいね。
せーの。