第一章:周波数九九・九の嘘(レンの語り)
「時刻は午前三時。眠れない迷子たちにお送りする『ミッドナイト・レジスタンス』。DJのレンです。今夜もこの不夜城、鍍金街の片隅から、あなたの鼓膜へ冷たい音楽を流し込んでいます」
マイクの向こう側には、どこまでも続くネオンの海が広がっている。赤、青、人工的な緑。この街には「夜」という沈黙が存在しない。人々は光を浴び続け、自律神経を焼き切り、ゾンビのように二十四時間営業の店を徘徊している。
僕は彼らのために喋り続けている。僕だけが、この狂った街で正気を保っている唯一の人間だからだ。
「……さて、リスナーのみなさん。今夜は少し、悲しい話をしなければなりません。昨日、このスタジオの目と鼻の先にあるネオンタワーの最上階から、一人の女性が落ちました。彼女の名はセラ。僕の番組の、もっとも忠実で、もっとも美しいリスナーでした」
僕は胸のポケットに手を当て、彼女が残した最後の手紙の感触を確かめる。そこには、掠れた文字で『もう眠りたい』と書かれていた。
セラは眠りたがっていた。この街の誰もが渇望しながら手に入れられない、本物の『死のような眠り』を。
だが、彼女は自ら飛び降りたのではない。彼女を突き落とした男がいる。
それはカイルという名の刑事だ。
カイルは、この不眠特区を裏で支配する麻薬組織とつながっている汚職警官だ。彼はセラが組織の「ある秘密」を握ったことを知り、執拗に彼女を追い詰めていた。セラは僕のスタジオに逃げ込もうとしたが、その手前でカイルに見つかった。
僕は見た。スタジオの遮音ガラス越しに、タワーの非常階段を駆け上がる二人の影を。雨がネオンをにじませる夜だった。カイルは逃げ惑うセラの細い腕を掴み、狂ったような笑顔で彼女を突き落とした。
彼女は、まるで黒い鳥のように、明けない夜の底へと堕ちていった。
「警察はこれを『突発的な自殺』と発表しました。しかし、僕は知っています。カイル、お前が彼女を殺したんだ。僕は決してお前を許さない。この電波が届く限り、僕は真実を叫び続ける」
カイル。お前が今夜も眠れずに、パトカーの無線から、あるいは薄汚れたアパートのラジオから、僕の声を聞いているのを知っているぞ。
第二章:午前三時の捜査令状(カイルの語り)
耳障りなノイズがスピーカーから這い出してくる。
俺はパトカーのダッシュボードに置かれたポータブルラジオのスイッチを叩き切った。DJレン。あの頭のイカれた男が、また電波を使って出鱈目を垂れ流している。
「おい、カイル。またあのラジオを聞いていたのか?」
隣の席の同僚が言った、ような気がした。しかし横を見ると、誰もいない。そうだ、俺はもう三日も眠っていない。助手席にいるのは、ただの脱ぎ捨てられた制服のジャケットだ。最近は、視界の端で影が揺れるだけでも、誰かがそこにいるように思えてしまう。
俺はこめかみを強く揉みほぐし、ポケットから覚醒剤代わりに常用している強い合成カフェイン錠を二錠、水なしで噛み砕いた。苦味が舌の上に広がり、霧がかかっていた脳が一時的に覚醒する。
俺は汚職警官などではない。この崩壊した鍍金街で、唯一法の秩序を守ろうともがいている孤独な守護者だ。
セラを殺したのは、俺じゃない。あのDJレンだ。
レンは、自分が公共の電波をジャックしていると思い込んでいる誇大妄想狂のストーカーだ。彼が放送していると主張する「周波数九九・九」は、実際には十年前、経営破綻して停波した違法なコミュニティFMの廃墟だ。奴は機材だけが残された無人の廃ビルに不法侵入し、誰にも届かないマイクに向かって毎夜、独り言を喚き散らしているに過ぎない。
セラは、そのビルの一階にある二十四時間営業の簡易宿泊所に住んでいた哀れなジャンキーだった。レンは彼女に異常な執着を抱き、「ラジオを通じて僕たちは繋がっている」と妄想を押し付けていた。
事件の夜、俺はセラの通報を受けてタワーへ向かった。彼女は「ストーカーに追われている」と泣き叫んでいた。
非常階段を上がると、そこにはセラをフェンス際まで追い詰めているレンの姿があった。レンの目は完全にイっていた。彼は「僕たちの愛を永遠にするために、一緒に眠ろう」と囁いていた。
「手を離せ、レン!」
俺が銃を抜いて叫んだ瞬間、レンはセラをフェンスの向こう側へと突き落とした。彼女の体が宙に舞ったとき、ネオンの光がその顔を照らした。彼女は怯えていた。眠りたがってなどいなかった。生きたがっていた。
レンはそのまま闇に紛れて逃走した。奴は自分が被害者であり、正義の告発者であるという物語を脳内で捏造し、あの廃ビルから偽りの電波を流し続けているのだ。
俺は必ず奴を逮捕する。それが、セラを救えなかった俺の、唯一の贖罪だ。
第三章:午前五時の処方箋(ユリの語り)
ハサミがカチカチと音を立てる。私は、白衣のポケットの中で指を動かし、その金属的な感触を楽しんでいる。
二十四時間営業の「ネオン薬局」には、今夜も多くの「眠らないゾンビたち」がやってくる。彼らはみな、まぶたの裏にこびりついた光を消し去るための薬を求めている。
午前五時。街が青白い偽物の朝を迎える頃、一人の男がやってきた。
ボサボサの髪、無精髭、そして異様にギラついた目。カイルだ。
「ユリ、いつものやつをくれ。頭が割れそうに痛い。それと、あの強い睡眠薬もだ。一瞬でいい、意識を失いたい」
私は微笑み、カウンターの下から彼のために調剤した青いカプセルを取り出す。
「カイルさん、あまり薬に頼りすぎるのは良くありませんよ。特にその頭痛、不眠による脳の萎縮が始まっている兆候かもしれません」
「うるさい。俺はまだ眠るわけにはいかないんだ。セラを殺したあのDJを捕まえるまでは」
カイルは薬をひったくるように受け取ると、その場で口に放り込み、店の外へと去っていった。私は彼の背中を見送りながら、哀れみに胸を痛める。
カイルは、自分がまだ警察官だと思い込んでいる。
だが、彼は半年前、不眠症による重度の幻覚症状を起こして市民に発砲し、すでに懲戒免職処分になっている。彼が着ている制服は、リサイクルショップで買ったおもちゃのような偽物だ。彼が毎夜追っている「DJレン」も、ただの幻だ。
次に店に入ってきたのは、青白い顔をした若い男だった。レンだ。
「ユリさん……彼女の夢を見た。セラが、僕に語りかけてくるんだ。早くこっちへおいでって」
レンはカウンターに突っ伏し、泣き出しそうな声で言った。彼の指先は小刻みに震えている。
「レンさん、あなたのラジオは、とても素敵ですよ」
私は優しく彼の頭を撫でる。彼は嬉しそうに顔を上げた。
「本当かい? 聞いてくれているのかい?」
「ええ、もちろん。ノイズの隙間から、あなたの温かい声が聞こえます。だから、もう自分を責めないで」
レンは「ありがとう」と何度も呟き、私が渡した睡眠薬(カイルに渡したものと全く同じ、致死量に近い成分が含まれた青いカプセル)を受け取って、ふらふらと出ていった。
レンもまた、壊れてしまった哀れな迷子だ。
彼は「セラ」という女性が、タワーから落ちて死んだと信じ込んでいる。そして、それをカイルのせいにしている。
だが、この街の戸籍謄本にも、警察の死亡記録にも、「セラ」という名の女性は存在しない。
「セラ」は、彼らが長年の深刻な不眠症の果てに作り出した、共有幻想に過ぎないのだ。二人の男は、自分たちの喪失感や、眠れないことへの恐怖、罪悪感を具体化するために、架空の「死んだ美しい女」を必要とした。
……と、私は彼らには説明している。それが彼らにとって、もっとも「納得のいく」世界の形だからだ。
私はカウンターの奥の小部屋へ入る。そこには、小さなベッドが置かれている。
ベッドの上には、一人の女性が横たわっている。
彼女の顔は、レンが描いた絵の中の「セラ」に酷似している。あるいは、カイルが持ち歩いている不鮮明な写真の「セラ」にも。
彼女は、私が特別に調合した「永遠の眠り」を与える薬によって、もう三ヶ月もの間、昏睡状態にある。人工呼吸器の規則的な音が、静かな部屋に響いている。
「セラ」は、私の本名だ。
私はこの退屈で、騒々しくて、決して明けない夜の街が嫌いだった。だから、自分の肉体をここに置いて、精神だけを「セラ」という名前の幽霊にして街へ解き放ったのだ。
レンは私を愛し、カイルは私を追い詰めた。私は彼らを使って、自分が確かに存在していたという証明を試みていた。しかし、彼らはそれすらも自分たちの都合の良いストーリーに書き換えてしまった。
私はポケットから最後の青いカプセルを取り出す。
「もうすぐ、みんなで眠れるわ」
私はそれを口に含み、ゆっくりと飲み込んだ。
第四章:夜明けの行方
鍍金街のネオンタワーのふもと。
パトカーのサイレンが遠くで鳴り響いている。野次馬たちが、路上に倒れた二人の男を取り囲んでいた。
一人は、薄汚れた警察の制服を模した服を着た男。 もう一人は、ヘッドフォンを首にかけた若い男。
二人は、お互いの首を絞め合った状態で、アスファルトの上で冷たくなっていた。彼らのポケットからは、全く同じ青いカプセルの殻が見つかった。
野次馬の中に、白いコートを着た女の姿があった。彼女は二人の死体を冷ややかに見つめ、それからスマートフォンを取り出して、無音になったラジオアプリを閉じた。
「あいつら、最後まで自分の夢から覚めなかったな」
通りすがりのホームレスが、缶ビールを片手に吐き捨てるように言った。
「なあ、お姉さん。あの二人、なんで死んだんだと思う?」
女はフードを深く被り、ネオンの光を遮るように顔を伏せた。
「さあ。ただ、眠りたかっただけじゃないかしら」
彼女の名前はユリ。あるいは、セラ。
街のネオンがゆっくりと消えかかり、しかし決して太陽は昇らない。 眠らない街の住人たちは、今夜も自分だけの「真実」という名の悪夢を見続けている。