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この町では、寿命は駅前で換金できる。

 正確には駅前の再開発ビル三階、昔は呉服屋だった場所に入った「生命資産流動化センター」で、心臓の拍数を貨幣に替えられる。受付で同意書に拇印を押し、白い椅子に座り、首筋に冷たい端子を貼られる。五分後、機械が残りの寿命を算出し、そのうち何年、何ヶ月、何日を現金化するかを聞かれる。

 一年で三百万円。

 ただし、健康状態や年齢、職業、遺伝歴、住所によって単価は変わる。市の広報では「命の価値は等しく尊い」と書かれていたが、センターの端末はそう考えなかった。山の手の住宅地に住む大学教授の一年は四百二十万円になり、川向こうの団地に住む日雇い労働者の一年は百八十万円になった。

 理由は「予測死亡率の差」だという。

 私の住む川向こうは、古くから「沈む町」と呼ばれていた。大雨が降れば川が溢れ、工場の煙が低く垂れこめ、冬になると肺の弱い老人が順に咳をしはじめる。戦後、安い土地を求めて流れてきた人々、在日、被差別部落の出身者、炭鉱から移ってきた家族、福島から避難してきた母子、生活保護の受給者。市役所の人間は「多様性」と呼ぶが、山の手の人間は少し声を落として「あちら側」と呼ぶ。

 私はその「あちら側」の弁当工場で働いていた。

 朝五時、薄暗い作業場で米を詰める。昼前には手のひらが酢と油の匂いになる。時給は最低賃金より二十円高い。息子の蓮は十歳で、ぜんそくを持っていた。吸入器の音は、夜の部屋で小さな汽笛のように鳴った。

 夫は三年前に死んだ。

 死んだというより、換金した末に尽きた。

 工場の事故で右足を悪くし、仕事を失い、家賃を滞納した。最初は三ヶ月だけ売った。次は半年。最後は、私に黙って五年売った。通帳には見たことのない額が入っていたが、その冬、夫は三十七歳の顔で八十歳の老人のように眠り、二度と起きなかった。

 葬式のあと、夫の母は私に言った。

「命を売らせたのは、あんたや」

 私は何も言い返せなかった。実際、私はその金で蓮の薬を買い、家賃を払い、米を買った。

 だからセンターの前を通るたび、私は看板を見ないようにしていた。

 ビルの壁には青い文字でこう書かれている。

 あなたの時間を、あなたの未来のために。

 蓮の発作がひどくなったのは、梅雨入り前だった。

 夜中、蓮の胸がへこむほど息を吸っているのを見て、私は救急車を呼んだ。病院の白い廊下で医師は言った。新しい治療薬がある。効果は高い。ただし保険適用外だと。

「月に、いくらですか」

 医師は目を伏せた。

「二十八万円ほどです」

 私は笑ってしまった。笑う場面ではないとわかっていたが、口が勝手に動いた。二十八万円。私の手取りより多い。蓮はベッドの上で眠っていた。細い腕に点滴が刺さっている。十歳の子どもの眠る顔は、世界からまだ何も奪っていない顔をしていた。

 翌日、私は生命資産流動化センターに行った。

 受付はホテルのように明るかった。観葉植物があり、アロマの匂いがした。壁には「自己決定権を尊重します」と書かれている。順番待ちの椅子には、見慣れた顔が何人もいた。弁当工場の同僚、団地の自治会長、夜の商店街で客引きをしている若い女。みんな互いを見ないふりをしていた。

「初めてのご利用ですか」

 受付の女は丁寧に笑った。山の手の言葉だった。語尾が丸く、歯並びがよく、白いブラウスに皺がない。

「はい」

「ご希望の換金年数は」

「一年で、いくらになりますか」

 女は端末を見た。

「お客様の場合、現時点で一年百九十二万円です」

「市の平均は三百万円って聞きました」

「算定は個別ですので」

「住所ですか」

「さまざまな要因を総合的に判断しております」

 私は笑った。今度は声が出なかった。

 住所。職業。親の病歴。川向こうで生まれたこと。夫が命を売って死んだこと。私の肺に工場の油煙が染みついていること。全部が私の一年を安くする。

「三年、お願いします」

 受付の女の指が止まった。

「三年ですと、五百七十六万円です。手数料と税金を差し引いて、お振込みは五百二十二万円になります」

「税金、取るんですか」

「所得扱いになりますので」

 命を売っても税金はかかる。私はそのことがおかしくて、やはり笑いそうになった。

 処置室で首筋に端子を貼られると、冷たさが背骨まで落ちた。機械が低く唸り、目の前の画面に数字が出る。

 推定余命 三十八年四ヶ月十二日。

 換金後推定余命 三十五年四ヶ月十二日。

 私はその数字を見た。三十八年も残っているのか、と思った。蓮が大人になるまで、孫ができるまで、白髪になって川べりを歩くまで。そんな未来が、まだ帳簿の上には残っているらしい。

 同意ボタンを押す直前、処置室の扉が開いた。

「中止してください」

 入ってきたのは、黒いスーツの男だった。センターの職員かと思ったが、胸に市議会議員のバッジが光っていた。山の手選出の若手議員、神崎誠。ポスターで見たことがある。「命の金融化から市民を守る」と掲げて当選した男だ。

 職員が慌てた。

「神崎先生、処置中です」

「本人確認を」

 神崎は私を見た。

「あなた、川向こうの第六団地の方ですね。お名前は」

「相原美沙です」

 彼は一瞬、言葉を飲んだ。

「相原……蓮くんのお母さんですか」

「息子を知ってるんですか」

「学校視察で。ぜんそくの子ですよね」

 彼は職員に向き直った。

「この方への換金を止めてください。市の緊急医療基金を使います」

 私はベッドから半身を起こした。

「基金?」

「低所得世帯の児童医療を補助する制度です。申請すれば」

「申請しました。却下されました」

 神崎の顔が固まった。

「なぜ」

「対象外だそうです。私の収入が基準より月に四千円多いから」

 職員は黙っていた。私は首筋の端子を自分で剥がした。

「先生、あなたたちはいつもそうです。基準、制度、申請。紙の上で人を助ける。紙からはみ出した人間は、自分の命を削るしかない」

 神崎は唇を噛んだ。

「それでも、売ってはいけません」

「じゃあ、蓮が息をできなくなったら、先生が代わりに息をしてくれるんですか」

 処置室に沈黙が落ちた。アロマの匂いが急に気持ち悪くなった。

 神崎は言った。

「私が払います」

「何を」

「治療費を。個人で」

 私は彼を見た。整った顔。高そうな時計。疲れてはいるが、栄養の足りた肌。善意というものが、こんなにも人を殴ることがあるのだと初めて知った。

「いりません」

「意地を張っている場合じゃない」

「先生は、私が命を売るのは止めたい。でも、先生のお金で生きるならいいんですか」

「それは違う」

「何が違うんですか。私の命が市場に並ぶのは許せない。でも先生の善意の棚に並ぶのは、きれいだから許せるんですか」

 神崎は返事をしなかった。

 私はその日、換金せずに帰った。

 帰り道、川の向こうに山の手の住宅街が見えた。夕陽を受けた白い家々は、まるで水に浮く船のようだった。こちら側の団地は、湿ったコンクリートの匂いがした。橋を渡るたび、町が二つに割れているのを感じる。地図では一本の川だが、実際にはそこに値段が流れている。

 翌週、蓮の学校で保護者会があった。

 教室には、山の手から越境通学している子の親もいた。市が「地域交流モデル校」として指定したため、川向こうの学校には少しだけ山の手の子どもが通っている。彼らの親は、教室の椅子に浅く腰かけ、床の汚れを気にするように靴先を浮かせていた。

 議題は「生命教育」だった。

 センターの職員が講師として来て、子どもたちに「時間の大切さ」を教えるという。

「小さいうちから金融リテラシーを身につけるのは必要です」

 山の手の母親が言った。

「命を売るというより、将来設計の一つとして」

 私は手を挙げた。

「うちの夫は、その将来設計で死にました」

 教室の空気が固まった。誰かが小さく咳をした。

「もちろん、無理な利用はよくないと思います」

 山の手の母親は慎重に言った。

「でも、制度自体を否定するのは……必要としている方もいるでしょうし」

「必要にさせられているんです」

 私は言った。

「お金がない人間だけが、自分の未来を切り売りする。山の手の人は投資信託を買う。川向こうの人は寿命を売る。それを同じ『選択』と呼ぶんですか」

 担任が困った顔をした。

「相原さん、ここは建設的に」

「建設的って、橋でも架けるんですか」

 誰も笑わなかった。

 その帰り、校門の前で一人の男に声をかけられた。作業着を着た、痩せた中年だった。顔に見覚えがあった。センターの待合室にいた男だ。

「相原さんですよね。さっきの話、よかったです」

「どうも」

「俺、来月また売るつもりだったんです。娘が専門学校に行きたいって言ってて」

 男は照れたように笑った。

「でも、あんたの話聞いて、腹が立ってきた。なんで俺だけ、娘の未来のために俺の未来を消さなきゃならないんだろうって」

 私は何も言えなかった。

 男は川のほうを見た。

「でもさ、腹が立っても、金は湧かないんだよな」

 その言葉は、私の胸に長く残った。

 怒りは正しい。だが、薬代にはならない。

 数日後、神崎から連絡が来た。市議会で緊急質問をするので、証言してほしいという。私は断った。見世物になりたくなかった。川向こうの貧しい母親が、涙ながらに制度の欠陥を訴える。議員はうなずき、新聞は写真を撮り、山の手の読者は朝食を食べながら「大変ね」と言う。そういう役を、私はもう引き受けたくなかった。

 だがその夜、蓮が言った。

「お母さん、ぼくのせいで死なないでね」

 吸入器を握ったまま、布団の中で。

「死なないよ」

「お父さんも、そう言った」

 私は息が止まった。

 蓮は天井を見ていた。

「ぼく、お金よりお母さんがいい。でも、息できないのもこわい」

 十歳の子どもに、こんな選択をさせている世界がある。私は蓮の髪を撫でながら、怒りでも悲しみでもない、硬い石のようなものが腹の底に沈むのを感じた。

 翌朝、私は神崎に電話した。

「証言します。でも条件があります」

「何ですか」

「私一人を泣かせる会にしないでください。川向こうの人間を集めてください。売った人、売らなかった人、売って死んだ人の家族。全員の数字を出してください」

「数字?」

「命の単価です。住所ごとに」

 神崎はしばらく黙った。

「それは、センターが開示しない可能性が高い」

「なら、私たちが持ち寄ります」

 市議会の日、傍聴席は川向こうの人々で埋まった。弁当工場の同僚、作業着の男、夫の母、夜の商店街の女、外国籍の介護士、車椅子の老人。みんな紙を持っていた。そこには自分の一年の値段が書かれている。

 百七十万円。

 二百五万円。

 百三十二万円。

 八十九万円。

 山の手の平均単価は四百万円を超えていた。

 神崎が議場でそれを読み上げると、議員たちがざわめいた。市長は「民間企業の算定に行政は介入できない」と言った。福祉部長は「制度の趣旨は自己決定の尊重」と繰り返した。

 私は証言台に立った。

 マイクの前で、手が震えた。傍聴席に蓮はいない。病院にいる。私はそのことを思い、声を出した。

「私たちの命は、最初から安く見積もられています。川向こうに住んでいるから。空気が悪いから。病院が遠いから。非正規だから。親が貧しかったから。つまり、社会が削った寿命を、社会が安く買い叩いているんです」

 議場が静かになった。

「センターは言います。これは自由な選択だと。でも、選択肢が一つしかないとき、それは選択ではありません。崖の上で背中を押されて、『飛ぶ自由がある』と言われているだけです」

 私は傍聴席を見た。夫の母がいた。私を責めた人。けれどその目には涙があった。

「私は息子を助けたいです。そのためなら、寿命を売ると思います。今でも思います。だから私は、命を売る人を責めません。責められるべきなのは、命を売らなければ子どもに薬を買えない町です」

 言い終えると、拍手は起こらなかった。誰もが拍手を忘れていた。

 その日の夕方、議会の映像が拡散された。新聞が書き、テレビが来た。山の手の住民からは苦情も出た。「努力して高い土地に住んでいるのに責められるのはおかしい」「命の価格差は合理的だ」「感情論だ」。ネットには、私の名前と住所が晒された。

 団地の郵便受けには紙が入った。

 子どもを盾にするな。

 貧乏人は産むな。

 川向こうに帰れ。

 私はそれを破って捨てた。すでに川向こうにいる人間に「帰れ」と言う滑稽さに、少しだけ笑った。

 一方で、変化もあった。

 センターの前で抗議が始まった。最初は十人、次に五十人、やがて橋の両側に人が立った。山の手から来た若者もいた。医師会の一部が声明を出し、学校の保護者会は生命教育の講師を断った。市は緊急医療基金の所得基準を見直すと発表した。

 だが、制度はすぐには消えなかった。

 蓮の薬代は、次の月にも必要だった。

 私はまたセンターに行った。

 待合室には抗議の声が窓越しに聞こえていた。受付の女は私の顔を見ると、困ったように立ち上がった。

「相原様」

「一年だけ、売ります」

 女は言葉を失った。

「ニュースで、あんなに……」

「薬は今日いるんです」

 私は椅子に座った。

 そこへ神崎が駆け込んできた。汗をかいていた。前より老けて見えた。

「相原さん、基金の仮払いが決まりました。今日中に病院へ」

「遅いです」

「間に合います」

「今月は」

 神崎は黙った。

「来月は? 再来月は? 制度が変わるまでの時間は、誰が払うんですか」

 神崎は震える手で、封筒を差し出した。

「これは、寄付です。多くの人から集まった」

 私は封筒を見た。厚みがあった。たぶん、十分な額だった。

「受け取ってください。これは施しじゃない。社会があなたたちから奪ってきた分の、ほんの一部です」

 私は長い間、封筒を見つめていた。

 受け取れば蓮は助かる。受け取らなければ、私はまた命を売る。誇りとは何か。自立とは何か。誰にも頼らず死に近づくことが尊厳なのか。誰かの手を借りて生き延びることは敗北なのか。

 夫はきっと、受け取れと言うだろう。

 蓮も、そう言うだろう。

 私は封筒を受け取った。

 その瞬間、泣きそうになった。救われたからではない。自分が誰かに助けられることを、こんなにも恥ずかしいと思わされてきたことが悔しかった。

 窓の外で、抗議の声が続いていた。

 命に値札をつけるな。

 生きるために売らせるな。

 その声の中に、作業着の男の声が混じっていた。夫の母も立っていた。白い髪を風に乱し、紙を掲げている。

 そこには震える字で、こう書かれていた。

 息子は安くなかった。

 数ヶ月後、市は子どもの高額医療費を全額補助する条例を可決した。生命資産流動化センターには、住所や職業による単価差の開示義務が課された。会社は「差別ではなく統計」と主張し続けたが、川向こうの人々はもう、自分たちの命の値段を黙って受け入れなかった。

 センターはまだ駅前にある。

 看板も残っている。

 あなたの時間を、あなたの未来のために。

 けれどその下に、誰かが黒いペンキで書き足した。

 その未来を奪ったのは誰だ。

 蓮は少しずつ元気になった。走るとまだ咳き込むが、夜に眠れる日が増えた。学校から帰ると、橋の上でよく立ち止まる。川の向こうには山の手の家々が見え、こちら側には団地の窓が夕陽に光る。

「お母さん」

「なに」

「大人になったら、橋を作る人になりたい」

「もう橋はあるよ」

 蓮は首を振った。

「あるけど、渡れない人がいるから」

 私は何も言えず、蓮の小さな背中を見た。

 川は今日も町を二つに分けて流れている。水面には山の手の白い家も、川向こうの古い団地も、同じように揺れて映る。けれど水の下では、見えない流れがまだ人々の足を引いている。

 命はお金に換わる。

 この町では、それが現実だ。

 けれど私は知った。命がお金に換わることより恐ろしいのは、いつのまにか人がお金の形でしか命を見られなくなることだ。

 蓮が私の手を握った。

 その手は温かかった。値段のつかないものは、存在しないのではない。値段をつける者たちの目に、見えていないだけなのだ。

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