東口商店街の外れ、シャッターの降りた店が並ぶ一角に、その店はあった。
「余命両替所」
色褪せた看板の文字を、佐倉湊は何度も読み返した。十七歳の冬。父が倒れてから三ヶ月。胃に巣食った癌は、もう手術では取りきれないと医者は言った。延命治療には金がかかる。母はパートを掛け持ちし、湊は高校をやめて建設現場でアルバイトを始めた。それでも足りなかった。
噂は知っていた。この町の人間なら誰でも知っている。寿命を売れる店がある、と。
ドアを押すと、乾いた鈴の音が鳴った。
「いらっしゃい」
カウンターの奥に、痩せた老人が座っていた。眼鏡の奥の目は、奇妙なほど澄んでいた。
「寿命を、売りたいんです」
老人は静かに頷いた。
「相場は知っているかね。一年で、三十万円だ」
湊は唾を飲んだ。父の治療費は、あと一年分でおよそ六百万。
「二十年、売ります」
老人の手が止まった。
「君は何歳だ」
「十七です」
「……二十年売れば、君の寿命は六十歳前後で尽きる。それでもいいのかね」
「父を、助けたいんです」
老人はしばらく湊を見つめていた。それから、引き出しから古い計器のような機械を取り出した。
「この町では、これが当たり前になってしまった」と老人は呟いた。「西側の人間は、寿命など売らない。売る必要がないからだ。売るのは、いつもこちら側の人間だ」
東口。線路を挟んだ向こう側――西口には、高層マンションと大学病院と、緑の多い住宅街が広がっている。同じ町なのに、線路一本で世界が分かれていた。
「西側の連中はな」老人は機械の蓋を開けながら言った。「我々のことを、寿命を切り売りして生きる、貧しく愚かな人種だと思っている。けれど、彼らは知らんのだよ。誰が、その売られた寿命を買っているのかを」
「……どういう意味ですか」
「売られた寿命は、消えるわけではない。誰かが買う。買って、自分の命に継ぎ足す。三十万で一年。彼らにとっては安い買い物だ」
湊は機械に手を差し出した。冷たい金属の輪が手首に巻きつく。
「最後に聞く」と老人は言った。「本当に、いいのかね」
「お願いします」
光が走った。痛みはなかった。ただ、体の奥から何かが――時間のようなものが――吸い出されていく感覚があった。
終わると、湊の手のひらに六百万円の振込明細が握られていた。
帰り道、湊は鏡のような店のガラスに自分を映した。何も変わって見えなかった。十七歳の顔。けれど体の内側では、確実に何かが目減りしていた。
父の治療は続いた。一年後、父は退院した。癌は寛解した。母は泣いて喜んだ。湊は再び高校に通い始めた。誰にも、寿命を売ったことは言わなかった。
それから歳月が流れた。
湊は西側の大学に進み、奨学金を借りて勉強した。卒業後、医療機器メーカーに就職した。皮肉な就職先だと、自分でも思った。
三十五歳。湊は結婚し、娘が生まれた。穂乃花と名付けた。家庭は穏やかだった。だが時折、夜中に目を覚ますと、胸の奥に冷たい風が吹き抜ける気がした。あと二十五年。自分に残された時間は、それだけだった。
四十歳を過ぎた頃から、体の異変が始まった。同年代より明らかに老け込んでいた。白髪が増え、関節が軋み、疲れが抜けなくなった。医者は首をかしげた。
「不思議ですね。臓器の年齢が、実年齢より二十歳ほど上に見える」
湊は黙っていた。理由は、自分だけが知っていた。
五十五歳の冬。湊は東口商店街を歩いていた。久しぶりに帰った故郷は、さらに寂れていた。けれど、あの店だけは残っていた。
「余命両替所」
中に入ると、あの老人が――いや、よく見れば、別の老人だった。だが雰囲気はよく似ていた。
「買い戻しは、できますか」湊は尋ねた。
「できる」と新しい店主は言った。「だが、買い戻すには、売った時の十倍の金が必要だ。一年につき三百万。そして――」
「そして?」
「買い戻せるのは、まだ誰にも買われていない分だけだ。すでに売れてしまった寿命は、戻らない」
「僕の寿命は、どれだけ売れたんですか」
店主は記録を調べた。長い沈黙のあと、彼は言った。
「君が売った二十年のうち、十九年は、すでに買われている」
「……誰に」
店主は答えなかった。プライバシーだ、と言うかと思った。だが彼は、別のことを言った。
「君は、知らない方がいい人間もいる」
湊は引き下がらなかった。何度も通った。やがて店主は、根負けしたように一枚の記録を見せた。
買い手の名前があった。
佐倉穂乃花。
湊の娘だった。
湊は理解できなかった。穂乃花はまだ二十二歳だ。なぜ娘が、寿命を買っている。
家に帰り、湊は娘を問い詰めた。穂乃花は、最初はとぼけていた。だが湊が泣きながら詰め寄ると、ついに白状した。
「お母さんの病気のこと、お父さんは知らなかったでしょう」
妻の――湊の知らないところで、妻は数年前から難病を患っていた。穂乃花は母を助けるため、誰かの寿命を買って、母に移そうとしていた。だが買える寿命には限りがあり、相場は高騰していた。
「一番安く、たくさん買える寿命があったの」穂乃花は震える声で言った。「もう持ち主が手放した、宙に浮いた寿命。……それが、お父さんのだった。あたし、知らなかった。名前なんて伏せられてたから。ただ、安いから買っただけ。お母さんに、移すために」
湊は崩れ落ちた。
自分が父のために売った寿命を、娘が母のために買った。そして自分の命を縮めながら、知らずに妻を生かしていた。
円環だった。誰も悪くなかった。みんな、愛する者のために自分を差し出しただけだった。それなのに、この町の仕組みは、その愛を金銭に換え、命の格差を広げ続けていた。
西側の人間は、決して寿命を売らない。買うだけだ。彼らは長く生き、東側の貧しい者たちは、自らの時間を切り売りして家族を養い、早く死んでいく。線路一本隔てた向こうとこちらで、人の寿命の値段が違う。それが、当たり前になっていた。
湊は妻の病室を訪れた。穏やかに眠る妻の手を握った。彼女の命の中には、自分の時間が流れている。そう思うと、奇妙な安らぎがあった。
その夜、湊は最後の力を振り絞って、ある文章を書き始めた。
『この町の仕組みについて。寿命両替という名の、命の搾取について』
彼は、自分の経験をすべて書き残すことにした。誰が買い、誰が売り、その金がどこへ流れているのか。西側の繁栄が、東側の早すぎる死の上に成り立っていることを。
公表すれば、店は彼を消そうとするだろう。だが構わなかった。残り少ない時間を、湊は意味のあることに使いたかった。
文章を書き終えた朝、湊は静かに息を引き取った。五十六歳だった。
葬儀の後、穂乃花は父の遺した原稿を見つけた。彼女はそれを読み、泣いた。そして決意した。
数年後、東口商店街に、新しい看板が掲げられた。
「余命をめぐる町を考える会」
穂乃花は、父の遺稿を本にして出版した。最初は誰も信じなかった。やがて、東側の人々が声を上げ始めた。なぜ自分たちだけが寿命を売らねばならないのか。なぜ命に格差があるのか。
運動は広がった。西側の良心的な人々も加わった。法律が変わるには、長い時間がかかった。けれど、変わり始めた。
「余命両替所」のシャッターが、ついに永久に閉ざされた日。穂乃花はその前に立ち、父に語りかけた。
「お父さん。あたし、お父さんからもらった命を、無駄にはしないから」
線路の向こう、西口の高層ビルに夕日が反射していた。けれど穂乃花は、もうその光を、遠い別世界の光だとは思わなかった。
命に、値段などつけてはいけない。
その当たり前のことを、この町が思い出すまでに、どれだけの時間が――どれだけの誰かの寿命が――費やされたのだろう。
穂乃花は静かに踵を返し、東口の自分の町へと歩き出した。
(了)