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第一章:微熱のち、にわか雨

毎朝午前七時、枕元でスマートフォンが短く震える。

朝倉蓮(あさくら れん)は、重い瞼を押し上げて画面をタップする。通知の主は、二年前にサービスが終了しているはずの個人開発アプリ『ソラノネ』だった。開発者は、蓮の恋人であり、二年前に病気でこの世を去った深山透(みやま とおる)。

透が病床で「君が傘を忘れないように」と作った、蓮専用の天気予報アプリ。サーバーの維持費は透の遺産から引き落とされるよう手続きされているらしく、彼が死んでからも、予報は一日も欠かさず届いていた。

『ソラノネ:6月8日の予報』
「午前中は晴れ。午後から急な雨が降るでしょう。折りたたみ傘を鞄に入れて。それと、君の好きな駅前のカフェ、今日はテラス席の風が少し強いから、中に入った方がいいよ」

蓮はシーツの上に身を起こし、スマートフォンの画面をじっと見つめた。
「……テラス席?」
確かに、蓮は通勤路にある駅前のカフェをよく利用する。しかし、透が存命だった頃、そのカフェはまだ存在していなかったはずだ。

自動生成のテンプレートにしては、妙に具体的だった。透が生前に登録しておいた未来の予測データなのか、それとも、ただの偶然か。

蓮は釈然としないまま身支度を整え、鞄に折りたたみ傘を放り込んで家を出た。

駅前のカフェを通りかかると、テラス席のオーニングが、予報通りに強いビル風でバタバタと激しく音を立てていた。席に座っている客は誰もいない。蓮はガラス扉を押し開け、店内のカウンター席で温かいラテを注文した。

窓の外を眺めていると、午後二時を回った頃に、空が急に暗転した。
バケツをひっくり返したようなゲリラ豪雨。駅へと急ぐ人々が、鞄を頭の上にかざして走っていく。

蓮は鞄から折りたたみ傘を取り出した。透が最後にプレゼントしてくれた、落ち着いたネイビーの傘だ。それを広げて雨の中に踏み出すと、不思議と濡れる恐怖はなかった。

「透。君は、どこからこれを見ているの?」

傘の骨が、雨粒を弾いて小さく震えていた。まるで、誰かが優しく肩を叩いてくれたかのように。


第二章:曇り、ときどきお節介

工藤志乃(くどう しの)の実家にある古いタブレット端末は、半年前から不思議な挙動を繰り返していた。

半年前、母の芳江(よしえ)が心不全で急逝した。一人暮らしだった母の遺品整理をするため、志乃は週末ごとに実家に通っている。そのリビングのテーブルに置かれた古いタブレットに、毎朝八時、奇妙なローカル気象メールが届くのだ。

配信元は『お天気マイスター・ヨシエ』。
生前、機械音痴だった母が、地域の気象ボランティアの真似事をして、近所の数人に手書きの天気予報をFAXで送っていた。そのデジタル版のつもりなのだろうか。しかし、母はもういない。

『お天気マイスター・ヨシエ:10月15日の予報』
「今日の天気は曇り。夕方から冷え込みます。降水確率は40%。折りたたみ傘を持っていきなさい。それと志乃、そろそろ首元を温めるストールを出しなさい。箪笥の二段目の奥にある、あの赤いチェックのやつ。あなたが昔、私にプレゼントしてくれたものです」

志乃は持っていたマグカップを危うく落としそうになった。
「……お母さん?」

メールの後半部分は、明らかに気象予報の域を超えていた。志乃の名前が指名され、実家の箪笥の引き出しの中身まで指定されている。

志乃は震える足で和室へ向かい、古い桐の箪笥を開けた。二段目の引き出し。奥の方をごそごそと探ると、確かに、赤いタータンチェックのウールストールが出てきた。志乃が社会人になって最初の給料で、母に贈ったものだ。

母はそれを「もったいないから」と、ほとんど使わずに大切に仕舞い込んでいた。

志乃はストールを手に取り、そっと首に巻いた。母の匂いはもうしなかったけれど、ウールの温もりがじんわりと皮膚に染み込んでいく。

その日の夕方、予報通りに気温は急降下した。冷たい木枯らしが吹く中、志乃は母のストールに顔を埋めて歩いた。冷えた鼻の奥が、ツンと痛んだ。

「お節介なのは、死んでも治らないんだから」

呟いた言葉は風にさらわれて消えたが、胸の奥は、不思議なほど温かかった。


第三章:風立ちぬ、遠い空

秋が深まり、季節は冬へと向かっていく。
蓮のスマートフォンに届く『ソラノネ』の予報は、日を追うごとに、その「私信」としての色彩を強めていた。

『ソラノネ:11月20日の予報』
「今日は一日中、秋晴れ。風速は3メートル。過ごしやすい小春日和になります。蓮、あの日、一緒に歩いた川沿いの桜並木は、もう葉がすっかり落ちてしまいました。僕は元気でやっています。君は、もう新しい靴を買いましたか?」

蓮は、川沿いのベンチで立ち尽くした。
予報の言葉は、もう気象データとは関係のない領域に踏み込んでいる。
「新しい靴」――蓮はちょうど昨日、ボロボロになったスニーカーを捨てて、新しい革靴を買ったばかりだった。誰にも言っていない。まだ箱から出してもいないのに。

「透、本当に君なの?」

蓮は思わず、アプリの問い合わせ窓口(生前、透がテスト用に残したアドレス)に向けて、メッセージを打ち込んだ。
『透、聞こえる? 私は元気だよ。新しい靴も買った。君に会いたい』

送信ボタンを押す。すぐに「宛先不明」のエラーが返ってくると思っていた。
しかし、送信は完了した。

翌朝。蓮は緊張で張り裂けそうな胸を抱えて、午前七時の通知を待った。
スマートフォンのバイブレーション。画面に表示された文字を、蓮は貪るように読んだ。

『ソラノネ:11月21日の予報』
「今日は北風が強く、最高気温は10度を下回るでしょう。真冬のコートが必要です。蓮、メールをありがとう。ちゃんと届いているよ。でも、もう私に返信はしないで。この予報は、あと数回で終わります。サーバーの契約が、僕の三回忌の日に切れるから」

涙が、画面にポツリと落ちて、予報の文字を歪めた。

『僕は君に、ただ、今日の傘が必要かどうかを伝えたかった。雨に濡れて風邪を引かないように。僕がいなくなっても、君の一日が少しでも穏やかであるように。新しい靴で、たくさん歩いてください。僕の知らない場所へ、僕の行けなかった未来へ』

予報の最後には、いつもと違う一文が添えられていた。

「明日は、きっといい日になります」


第四章:そして、晴れ渡る空

十二月八日。透の三回忌の朝。

街はすっかりクリスマス一色に染まり、吐く息は白かった。
蓮はベッドの中で、最後の通知を受け取った。

『ソラノネ:12月8日の予報』
「本日は快晴。雲一つない青空が広がります。傘は必要ありません。蓮、今日でこの予報は終わりです。これまで毎朝、僕の予報に付き合ってくれてありがとう。これからは、自分の目で空を見てね。雨が降ったら雨宿りをすればいいし、風が吹いたらマフラーを巻けばいい。君なら、もう大丈夫」

画面の文字が、滲んで見えなくなる。

『さようなら、蓮。君のこれからの人生が、いつも穏やかな光に満ちていますように』

スマートフォンの画面がふっと暗くなり、その後、『ソラノネ』のアプリはアイコンごと静かに消滅した。まるで最初から存在しなかったかのように、ホーム画面の隙間が埋まる。

蓮は涙を拭い、新しい靴を履いて外に出た。
見上げた空は、透が予報した通り、どこまでも高く、深く、どこまでも青かった。

同じ朝。
実家のタブレットを見つめていた志乃の元にも、最後のメールが届いていた。

『お天気マイスター・ヨシエ:12月8日の予報』
「今日は雲ひとつない日本晴れ! 洗濯物がよく乾きますよ。志乃、お母さんのことはもう心配しなくていいから、自分のご飯をしっかり食べなさい。それと、箪笥の三段目に、あなたが欲しがっていた私の古い指輪を入れておきました。いつか大切な人ができたら、その人に。じゃあね、元気で。風邪ひくんじゃないよ」

志乃は笑いながら、大粒の涙をこぼした。
「本当に、最後までお節介なんだから……」

志乃は窓を開け、冷たくて澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
空は、どこまでも青く晴れ渡っている。

死者たちは、もう語りかけては来ない。彼らはただ、静かに天気に溶けて、遺された者たちを上空から見守っている。

雨の日も、風の日も、そしてこんな風に、目も眩むような晴天の日も。
人々は、届かなくなった予報の先にある、新しい一日へと歩き出す。

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