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プロローグ:カレンダーの綻び

暦の上では、二月二十八日の翌日は三月一日である。
しかし、私たちは本能的に知っている。冬の凍てつく吐息が消え去り、春の柔らかな光が差し込むその刹那、帳尻の合わない「数日間」が世界の隙間に滑り込んでいることを。
それは春でも、夏でも、秋でも、冬でもない。梅雨や秋雨といった端境期(はざかいき)すら超えた、一年に一度だけ訪れる、名もなき「七番目の季節」。
その季節が訪れている間、世界は確かに動き、人々は呼吸をし、誰かとと言葉を交わしている。しかし、その季節が終わりを告げ、三月一日の朝を迎えた瞬間、全人類の脳細胞からその期間の記憶はきれいに洗い流されてしまう。
あとに残されるのは、説明のつかないかすかな疲労感と、指先に残る見覚えのない冷たさ、そして、何かが決定的に失われたという実体のない喪失感だけだ。

これは、ある年の「七番目の季節」に起いた、一人の少女の消失をめぐる、三つの異なる解釈の記録である。


第一の解釈:フィールドノートの怪

語り手:槙野 雅人(元・民俗学助教)

三月一日の午前七時。私は自宅の書斎で、猛烈な頭痛とともに目を覚ました。
窓の外からは、春の先触れのようなぬるい風が吹き込んでいたが、私の心は奇妙なざわつきに支配されていた。
机の上には、一冊のフィールドノートが開かれたまま置かれていた。私の愛用している、防水仕様の頑丈なノートだ。そこには、私の筆跡で、殴り書きのような文字がびっしりと書き連ねられていた。

昨日――いや、昨日という言葉が正しいのかはわからない。私の記憶では、二月二十八日の夜に眠りにつき、今朝目覚めたはずだ。しかし、カレンダーのデジタル表示は確かに「三月一日」を示している。だが、私の肉体は、少なくとも三日か四日は一睡もせずに歩き回ったかのような、鉛のような重さを感じていた。

私は眼鏡をかけ、ノートの記述に目を落とした。


【二月三十日(仮定)】
やはり今年も「第七象限」が始まった。街の色彩が著しく減退している。空の色は灰色でも青でもなく、光を反射しない粘土のようだ。通行人たちの歩行速度は通常の三割減。誰もが夢遊病者のように視線を彷徨わせている。だが、彼らに「今は何月何日か」と問うても、一様に困惑した顔をするだけで、思考がそこで停止してしまうようだ。
この季節、すなわち「春夏秋冬、そして二つの雨季(梅雨・秋雨)の後に来る、七番目の空白」において、この土地の霊的気圧は著しく低下する。いわば、世界の排水口が開いている状態だ。

【二月三十一日(仮定)】
彼女に出会った。名前は不明。年齢は十四、五歳に見える。外套を羽織っているが、その境界線が周囲の背景に溶け込んでいるように見える。彼女はこの土地の「地霊(ゲニウス・ロキ)」の具現化、あるいはかつてこの地で行われていたであろう、歴史から消し去られた生贄の儀式の記憶そのものではないか。
彼女は私に「私は、みんなが捨てていったものを集めているの」と言った。彼女の指先は凍えるように冷たかった。彼女が歩く足跡には、水たまりではなく、底の知れない小さな暗闇が穿たれていく。

【二月三十二日(仮定)】
限界が近い。彼女の存在が薄れていく。世界が「三月一日」という強力な復元力を引き寄せ始めている。彼女は私に、古い真鍮の鍵を見せ、「これをあの人に届けて。そうすれば、私は次の年まで、あの暗闇の中で凍えずに済むから」と言った。
私は鍵を受け取ろうとした。しかし、私の指は滑り、彼女の冷たい手首に触れただけだった。その瞬間、私の頭の中に、夥しい数の「他人の忘れたい記憶」が流れ込んできた。失恋、自己嫌悪、泥泥とした嫉妬、死者への未練。これらこそが、この七番目の季節の正体なのだ。一年間に人々が排出した「精神の澱(おり)」が、この数日間に一箇所に集められ、彼女という依代を通じて、世界の裏側へと廃棄されるのだ。
彼女は消えなければならない。それがシステムだ。だが、彼女自身はその苦痛に耐えかねている。私は彼女を救うべきか、それとも――。

ノートの記述はそこで途切れていた。
私は自分の手のひらを見つめた。親指と人差し指の間に、何か極寒の物質に触れたような、軽い凍傷の跡が残っている。

「私は、彼女を救わなかったのだ」
私は乾いた声で呟いた。
私の解釈はこうだ。あの数日間、私は確かに、この世界が正常に機能するための「排毒システム」を目撃した。あの少女は人間ではない。蓄積された人々の忘却と負の感情が、一時的に人の形を成した「概念の器」に過ぎない。
彼女が消えたことは、悲劇ではなく、世界の調律なのだ。もし彼女が残ってしまえば、街は人々の忘却の重さに耐えかねて、精神的に崩壊していただろう。
私はノートを閉じ、引き出しの奥深くにしまい込んだ。忘却が正しい選択なのだとしても、私の筆跡が残したその冷徹な真実は、私の胸に苦い澱を残した。


第二の解釈:顔のない肖像画

語り手:有馬 紗季(画家)

三月一日の光は、いつだって残酷なほど白い。
アトリエの床で目が覚めたとき、私は自分が絵の具まみれのパジャマを着ていることに気づいた。絵筆を握りしめていた右手は、固くこわばって動かない。
「また、やってしまった」
私は立ち上がり、イーゼルの前に歩み寄った。

そこには、巨大なキャンバスが置かれていた。描かれていたのは、一人の少女の立ち姿だった。
しかし、その絵はあまりにも異様だった。
背景は、私が今まで一度も作ったことのない、くすんだ、しかし内側からぼんやりと発光するような、不思議な「灰色」で塗りつぶされている。その灰色の絵の具は、触ると妙に冷たく、まるで凍った泥のようだった。
そして、中央に描かれた少女には、顔がなかった。
目も、鼻も、口もない。ただ、風に揺れる細い髪と、古びた外套、そして何かを希求するように前に伸ばされた、白い両手だけが精緻に描かれている。

「私は誰を描こうとしたの?」
頭の中をいくらかき回しても、何も出てこない。昨日の記憶は、きれいに剃刀で削ぎ落とされたように失われている。ただ、胸を締め付けるような、どうしようもない哀愁と、誰かに「行かないで」と叫んだような喉の痛みが残っているだけだ。

だが、絵描きとしての私の直感が、この絵の背景にある真実を囁いていた。

あの誰も覚えていられない「七番目の季節」は、世界が新しく生まれ変わるために、深く息を吸い込む瞬間なのだ。
春、夏、秋、冬という四季は、世界がエネルギーを「吐き出す」フェーズだ。木々が芽吹き、花が咲き、葉が落ち、雪が積もる。それらはすべて、外側へ向けられた表現だ。
しかし、そのサイクルが終わる時、世界は溜まりに溜まった澱みをリセットするために、一度だけ「内側へ息を吸い込む」。その吸い込む力が作り出す真空地帯こそが、あの名もなき数日間なのだ。

あの少女は、世界が吸い込んだ「美しき残骸」だったに違いない。
誰もが忘れてしまった美しい夢、言えなかった感謝の言葉、零れ落ちた純粋な涙。そうした「綺麗な忘却」が集まって、あの少女の形を作ったのだ。
彼女は私の前に現れた。彼女は、自分が消えゆく運命にあることを知っていて、ただ一瞬だけでも、誰かの記憶に「美しく存在する人間」として留まりたかったのだ。
だから、私は彼女を描いた。
だが、なぜ顔を描かなかったのか?
描き忘れたのではない。描けなかったのだ。彼女の顔は、私が見る瞬間ごとに、私がかつて愛し、そして失った人々の顔へと次々に変化していったからだ。彼女は、私自身の「失われた愛着」の投影でもあった。

キャンバスの端に、乾きかけの絵の具で小さな文字が書き残されていた。
『私はここにいたよ』
それは私の筆跡ではなかった。細く、震えるような、少女の文字だった。
私はその文字にそっと触れた。指先から伝わる冷たさは、悲しいほどに愛おしかった。彼女は消えてしまったのではない。私の、そしてみんなの心の一番深い「余白」に、今も静かに住み着いているのだ。


第三の解釈:監視カメラのノイズと鍵

語り手:川崎 蓮(交番勤務の巡査)

三月一日、午前九時。私はあくびを噛み殺しながら、駅前交番のデスクで引き継ぎの書類を整理していた。
どうにも頭がすっきりしない。二月二十八日から今日までの数日間、何をしていたのかの記憶がひどく曖昧なのだ。日誌には私の手で「異常なし」と書かれているし、勤務シフトにもズレはない。だが、まるで数日間の記憶だけを他人の人生とすり替えられたような、奇妙な感覚が抜けない。

「川崎、これ、お前のシフトの時に預かった拾得物か?」
先輩の巡査が、棚から小さなプラスチック袋を取り出して私に投げた。
袋の中に入っていたのは、古びた真鍮製の鍵だった。タグには、昨日の日付と、私の筆跡で『拾得場所:駅前ロータリー、遺失者:不明(少女)』と書かれていた。

「……さあ、覚えてないですね」
「しっかりしろよ。お前が書いたんだろ」
先輩は笑いながらパトロールに出て行った。

私は一人、デスクで鍵を見つめた。どうしても思い出せない。
私は交番のシステムを立ち上げ、昨日の深夜――日付の上では「二月二十九日」か「三十日」にあたるはずの、存在しないはずの空白の時間帯の、街頭防犯カメラの録画データを再生した。

通常、カレンダーのバグを処理するため、この期間のシステムログはしばしば不自然なジャンプを見せる。だが、そこには確かに映像が残っていた。

画面に映っていたのは、深夜二時の交番前だった。
雪混じりの雨が降る中、一人の少女が立っていた。薄手の外套を着て、寒さに震えているように見える。
そして、交番から私自身が出て行った。
映像の中の私は、彼女に対してひどく動揺している様子だった。私は彼女の肩を抱き、温かい缶コーヒーを手渡そうとしている。しかし、少女の顔の部分には、まるで強力な電磁波でも当たっているかのように、激しい砂嵐のようなノイズが発生していて読み取れない。

映像の最後、少女は私に何かを手渡した。それが、この真鍮の鍵だった。
そして、彼女は駅の方向へ向かって歩き出し、暗闇の中に消えていった。私はそれを追いかけようとしたが、突然、画面全体が激しいホワイトアウトを起こし、次の瞬間には、三月一日の朝の映像に切り替わっていた。

私は冷や汗が背中を伝うのを感じた。
「これは、集団幻覚でも、世界の呼吸でもない」
私は確信した。これは、極めて現実的で、かつ非道な誘拐および監禁事件、あるいは国家規模の組織的隠蔽工作だ。

あの少女は、現実に存在する被害者だ。
彼女はどこかの施設、あるいは地下室のような場所に長期間監禁されていたに違いない。あの真鍮の鍵は、彼女が監禁されていた場所の、あるいは彼女を縛り付けていた鎖の鍵だったのではないか。
彼女は命からがら脱出し、この交番に助けを求めに来た。
だが、犯人グループ、あるいはこの社会の裏に潜む巨大な勢力は、この「七番目の季節」と呼ばれる特殊な気象・電磁波環境、あるいは特殊な催眠・忘却ガスを利用して、街全体の記憶を定期的に消去しているのだ。彼らはその空白の期間を利用して、都合の悪い存在を処理し、事件を「なかったこと」にしている。

映像の中の私は、彼女を救おうとした。だが、記憶を消去されたことで、私は彼女の存在そのものを忘れ、ただの「落とし物」として鍵を処理してしまったのだ。
少女は今、どこにいる?
あのノイズの向こうで、彼女は今も、誰にも思い出してもらえないまま、暗い闇の中で助けを待っているのではないか。

私は拳を強く握りしめた。真鍮の鍵が、手のひらに痛いほど食い込んだ。
たとえ世界中が忘れ去ろうとも、私はこの鍵が合う扉を探し出す。それが、私の「解釈」であり、私に課せられた義務だ。


エピローグ:重なり合う影

三月一日の夕暮れ。
空は、春特有の薄桃色の夕焼けに染まり始めていた。

元助教の槙野は、書斎の窓からその空を見上げ、世界の秩序が守られたことに静かな安堵を覚えながら、二度と開くことのないフィールドノートに鍵をかけた。

画家の紗季は、アトリエのキャンバスに描かれた「顔のない少女」の前に佇み、彼女の失われた名前を呼ぶように、筆先にそっと息を吹きかけた。

そして巡査の蓮は、制服のポケットの中で真鍮の鍵を握りしめながら、夕暮れの街へと、冷たい疑惑の眼差しを向けて歩き出した。

誰も覚えていられない、七番目の季節。
そこで起きた出来事は、ある者にとっては「世界の調律」であり、ある者にとっては「美しい残骸の詩」であり、ある者にとっては「見過ごされた陰謀」だった。

真実は、そのいずれでもあり、同時にそのいずれでもない。
少女の影は、春の暖かな風に溶けて消え、ただ、三人の心に異なる形の「空白」だけを残して、世界はまた、平然と次の季節へと回り始める。

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