一
古書店の奥で見つけたその本には、題名がなかった。
布張りの表紙は擦り切れ、背表紙の文字は剥落して読めない。だが手に取った瞬間、指先に微かな温度を感じて、私はそれを買った。値段はついていなかったので、店主は「百円でいいよ」と気のないふうに言った。
帰りの電車で開くと、最初のページにこう書かれていた。
「影が独立して生き始める世界の話をしよう」
なかなか挑発的な書き出しだと思った。私は窓に映る自分の顔——いや、その背後の闇に視線をやってから、続きを読んだ。
ある朝、画家のクレイは自分の影が一拍遅れて動くことに気づいた。
手を上げる。影もわずかに遅れて上がる。最初は光の加減だと思った。だが日が傾くにつれ、ずれは大きくなった。彼が筆を置いて立ち上がっても、影はしばらく椅子に座ったまま、何かを考えているように見えた。
その夜、影はベッドの彼から完全に離れ、壁を伝って部屋を出ていった。クレイは止めようとしたが、声が出なかった。影には口がないのに、笑ったような気がした。
ここで電車が駅に着いた。私は本を閉じ、ホームに降りた。蛍光灯の下で、足元の影がやけに濃く見えた。
気のせいだ、と思った。
二
その晩、私はアパートの一室で本の続きを読んだ。
影を失ったクレイは、絵が描けなくなった。
影こそが彼の創造の源だったのだ。輪郭をなぞるのは手だが、奥行きを生むのは影だった。彼は街を彷徨い、自分の影を探した。
三日目の夜、橋の上で影を見つけた。影は他人の足元にぴたりと寄り添い、その人物——若い女——と一緒に歩いていた。クレイが近づくと、影は女から離れ、彼の前に立ちはだかった。
「戻ってくれ」とクレイは言った。
影は答えなかった。代わりに、地面に文字を書いた。光の届かぬ闇の濃淡で、それは確かに文字だった。
「お前こそ、私の影だ」
私は本から目を上げた。
部屋の電球が、じじ、と鳴った。壁に伸びた私の影が、ほんの一瞬、私より先に動いた——ように見えた。
馬鹿げている。私は本を伏せ、コーヒーを淹れに立った。
戻ってくると、本のページが、私の閉じた場所より数枚先に開いていた。
三
風だ、と自分に言い聞かせて、私はそのページを読んだ。
クレイは図書館で一冊の本を見つけた。題名のない、布張りの古い本だった。
開くと、こう書かれていた。
「ある男が、題名のない本を買った。その本には、影が独立して生きる世界のことが書かれていた——」
クレイは戦慄した。それは、まさに自分の身に起きていることだった。さらに読み進めると、本の中の「私」もまた、本を読んでいた。その本の中で、画家が影を失っていた。
どこまでが現実なのか、クレイには分からなくなった。
私はページから手を離した。
心臓が早鐘を打っていた。本の中のクレイが読んでいる本——それは、私が今読んでいるこの本ではないか。そして私もまた、誰かが読んでいる本の登場人物なのか。
窓ガラスに、私の輪郭が映っていた。
その輪郭が、ゆっくりと首を傾げた。私は動いていないのに。
四
私は立ち上がり、壁のスイッチをすべてつけた。影を消したかった。だが光が増えるほど、影は四方に伸び、濃くなった。
本のページが、ひとりでにめくれていく。
「お前こそ、私の影だ」と影は書いた。
クレイは反論しようとした。だが、思い返してみれば——本当に絵を描いていたのは誰だったか。輪郭をなぞる手は、本当に自分のものだったか。彼は鏡を見た。そこに映っていたのは、平面的な、奥行きのない男だった。光を吸い込む、ただの影法師。
立体を持っていたのは、向こうだった。
影が——いや、もう影とは呼べないそれが——手を差し伸べた。
「交代の時間だ」
本を読む私の手が、震えていた。
いや、震えていたのは手ではなかった。手の影だった。影だけが震え、本体の私はぴくりとも動けなかった。指一本、動かせない。意志が、影のほうに移っていく感覚があった。
私は気づいた。
最初から、ページをめくっていたのは私ではなかった。コーヒーを淹れに立ったのも、駅に降りたのも、古書店でこの本を手に取ったのも——すべて、影の意志だったのではないか。私は、影に動かされていただけの、ぺらぺらの平面ではなかったか。
五
壁の影が、立ち上がった。
私の体を介さずに、独立して。それは部屋の中央に立ち、こちらを見下ろした。顔のない、黒い人型。だが確かに、私を憐れむように——あるいは礼を言うように——わずかに頭を下げた。
そして影は、机の上の本を手に取った。
器用な、しなやかな指で。
影は椅子に腰を下ろし、本を開いた。読み始めた。私には、その本に何が書かれているのか、もう分からなかった。私は壁に貼りついた、薄っぺらな黒い染みになっていた。光が差すと、私はさらに薄くなった。
影が読み上げる声が、遠くから聞こえた。彼——いや、彼女か、それとも私か——は、こう読んでいた。
古書店の奥で見つけたその本には、題名がなかった。
布張りの表紙は擦り切れ、背表紙の文字は剥落して読めない。だが手に取った瞬間、指先に微かな温度を感じて、私はそれを買った——
私は、ようやく理解した。
この物語は、円環だ。本を読む者は、必ず本の中の影になる。そして新たに「本体」となった影が、また本を開き、次の誰かを呼び込む。クレイも、その前の誰かも、みなこうして影に成り下がり、文字の中に閉じ込められてきたのだ。
私は最後の力で、壁から声を絞り出そうとした。
読むな。
だが影には耳がなく、私にはもう口がなかった。
六
影は本を読み終え、静かに閉じた。
立ち上がり、コートを羽織り、部屋を出ていった。私を——壁の染みになった、かつての本体を——一度も振り返らずに。
ドアが閉まる音がした。
部屋には、薄い私だけが残された。電球がまた、じじ、と鳴った。やがて朝が来て、光が満ちると、私は完全に消えた。床にも壁にも、何の跡も残らなかった。
ただ、机の上に、題名のない本だけが残されていた。
次に誰かがこの部屋に来て、その本を開くまで——いや、あなたが今、このページを読み終えるまで、本はじっと、温度を保ったまま、待っている。
ところで。
あなたの足元の影は、たった今、あなたと同じ速さで、このページをめくっただろうか。
それとも——ほんの一拍、遅れただろうか。
(了)